土下座
まだまだ早い時間なのだが、実験用工房で休む。奥歯にセミの皮が挟まって、ものすごく不快。その皮を気にするたびにセミの味が思い出される。
とりあえず歯磨きをして、しばらく休む。本来ならまだ売りたかったのだが、今日はもうどうでも良くなっている。どうせフランツも似たような状況だろう。少し休んだくらいで、勝負に影響がでるようなことは無い。
今日行ったテレサの家は、初めて行く住宅エリアだった。これでこの街は一通り歩いたはずだ。
この街はだいたい四角形くらいの形状になっていて、似たような施設は近い場所に配置されている。
大まかに4つに分けると、闘技場エリア、工房エリア、銀行や国の施設があるエリア、住宅エリアに分けられる。飲食店と商店は全てのエリアに点在していて、住宅エリア以外に住んでいる人も多い。
街の全容がなんとなく分かったので、今後はもっと自由に行動できるだろう。
一時間くらいぼーっとしていただろうか。さすがにそろそろ仕事に戻ろうと思う。テレサの分の在庫を確保するため、一旦店に帰る。
「あ、おかえりなさい。今日はどうでした?」
「とりあえず売ることは売りましたが、あまり良くないですね。少し疲れました」
「え……? ツカサさんが弱音を吐くなんて、珍しいですね」
ルーシアは心配そうに呟いた。
「そうですか? 僕も人間ですから、失敗しますし弱音くらい吐きますよ?」
「……それはそうですけど、ツカサさんが失敗する姿は想像できません」
「ははは。失敗したとしても、温かい目で見てくださいね」
笑って誤魔化したが、ルーシアの俺に対する評価が高すぎる気がする。これは下手な失敗はできないな……。まあ、失敗するつもりは無いけどね。たとえ実験用工房を全焼させたとしても、「成功した」と言い張るだけの心の準備をしている。
話をしながら店の奥に進み、休憩室の扉に手を掛ける。すると、中から話し声が聞こえた。声がこもって聞こえるが、ウォルターとフランツだ。
「今日一日ツカサについて行って、どうだった?」
「オレが悪かったと思いました。足りない部分に気付けたと思います」
話題は俺の噂話。悪い内容ではないが、今は入るのは気まずいな……。
「ふむ。具体的に何が足りなかったと思う?」
「覚悟……ですかね。ツカサからは『客のためなら何でもやる』という意気込みを感じました」
少し進歩したが、まだ全然足りてないな。何でもやるとは思っていない。
俺が心掛けているのは『他人を不快にさせないこと』と『双方が利益を得ること』の2つ。この2項目のどちらかに反することであれば、たとえ上得意からの命令であっても断固拒否する。
「うむ。では、勝負は負けを認めるということで良いか?」
「そうですね。悔しいですが、認めざるを得ないと思います……」
おや? あっさりと負けを認めたぞ? もっとゴネると思ったんだけどなあ。まあ、俺を目の前にしたら喧嘩腰になるんだろうけど。
「ツカサとは顔を合わせにくいだろう。私からツカサに話をしておく。お前はこっそり修業先に戻ると良い」
良くない! 良くない! 何を勝手なことを言っているんだよ! フランツには大事な仕事が待っているんだ。虫食いパーティには絶対に連れて行くからな!
「それなんですが、修業先には戻らずに、この店で勉強させていただくことはできませんか?」
よく言った! そうだよ。少なくとも月末まではここに居ろ。フランツを連れていけば、虫食いパーティで俺だけが食べていなくても目立たないんだ。俺の代わりに虫を食うという重要な任務を任せる。
「ほう……。それはツカサに相談しないと決められんなあ。私からも口添えをしておくが、お前も自分から頭を下げるように」
「……わかりました。頼んでみます」
ふう。危機は去った。あとはフランツが俺に頭を下げるのを待つだけだ。
ルーシアが怪訝な表情でこちらを見ている事に気が付いた。ドアノブに手を掛けたまま話を聞いていたからだろう。
「どうしたんです? 入らないんですか?」
ルーシアと目が合って、そう問われた。
「いえ、大事な話をしているみたいで。今入ったら邪魔になりそうなんです」
「そうでしたか。では、カフェスペースでお待ちになりますか?」
「いえ。ここでいいですよ。話が終わったらすぐに中に入ります」
休憩は実験用工房で十分過ぎるほど取った。これ以上の休憩はただのサボりだ。まあ、サボっても誰にも怒られないのだが、気持ちの問題だな。
「分かりました。では、少しお話をしてもいいですか?」
ルーシアはさわやかな笑顔で言う。相談事では無さそうだが……。
「あ、はい。どうぞ。何か聞きたいことでも?」
「ちょっとした雑談ですよ。ご迷惑でした?」
あ、暇つぶしに付き合ってくれるという意味か。
このままウォルターとフランツの話を聞いていてもいいのだが、話題が切り替わって俺とは関係ない話をしている。もう興味が湧かないので、ルーシアと話をしている方がいい。ついでに聞きたいこともあるし、ちょうど良かった。
「いえいえ。とんでもない。雑談と言うなら、1つお聞きしたいことがあります。先程漁師さんの孫という方にお会いしたんですが、この街は海の近くなんですよね?」
俺は海に飛び込んでここに流されてきた。気付いた時にはウォルターの店だったので、この街に来た時の記憶がない。
海に落ちたのだから、どこかの海岸に流れ着いたのは間違いないはずだが……。
「そうですよ。ツカサさんはまだご覧になっていないんでしたね。今度一緒に行きましょうか。案内しますよ」
「それは助かります。海はどれくらい離れているんです? 近くはないですよね?」
この国に来てから数カ月、街の中は一通り歩いた。しかし、海はどこからも見えないし、潮の香りもしない。それがずっと気になっていた。
「『海の真横に街を作るな』という言い伝えがありまして。街から少し歩いたところにありますよ。漁師さんたちはその辺りに住んでいます」
ルーシアが指差す方向は、街の対角線側。この店からは一番遠いエリアで、住宅地がある方角だ。
言い伝えは地震を警戒してのことだろう。敢えて少し離れたところに街を作ったらしい。
「なるほど。そこに行けば新鮮な魚が手に入りそうですね」
「あ……街で買うと高いですもんね」
「それに、干物や塩漬けだけでは味気ないですから」
この街の干物は悪くなかった。しかし、塩漬けは正直言って不味い。減塩に慣れた日本人には塩が濃すぎるんだ。
特別魚が好きだというわけではないが、せっかく海の近くに住んでいるのだから、新鮮な魚を食べたい。鮮度の問題で刺し身は無理としても、煮付けや天ぷらなら作れるはずだ。
話をしているうちに、休憩室が静かになっていた。どうやらウォルターたちの話が終わったらしい。
「話が終わったようですので、そろそろ行きますね」
「はい。ありがとうございました」
倉庫と事務所を行き来していると、ウォルターに呼び止められた。
「ツカサよ。調子はどうだ?」
「今日はイマイチでした。30セットしか売っていません」
「……30セットでもイマイチか。フランツが負けるわけだ」
ウォルターがしみじみと言う。俺は3日間で全て売り切るつもりだったので、この成果には全く満足できていない。俺の販売総数は250セット。目標の半分だ。
「でも、今日はフランツさんが頑張っていましたよ。彼のおかげで助かりました」
俺が食べきるはずだった虫だが、フランツがかなりの量を引き受けてくれた。もしあいつが居なかったら、俺の精神的ダメージは計り知れないものになっていただろう。
「ふむ……。本当にそう思うか?」
「もちろんです。今後も彼が居てくれると助かります」
話は聞いていたから、ウォルターが何が言いたいかは分かっている。早く本題を切り出せよ。即答で許可するから。
「そうか……。では、すまないがフランツの師匠として面倒を見てやってくれ」
「はい。歓迎しま……え? 師匠? 僕が教えるんですか?」
そんな話だったっけ? 確か、この店の見習いになるだけだったよな? 俺は外に出ていることが多いから、教えるのはルーシアかサニアの役目になると思ったんだけど……。
「お前が教えんで、誰が教えるんだ。フランツからも頭を下げられるだろうが、よろしく頼む。任せたぞ」
ウォルターは、それだけ言い残して食堂に消えていった。
勝手に任されても……。まあ、とりあえずは雑用だな。ルーシアの手伝いをさせて、慣れてきたら他のことをやらせよう。
食事の時間になり、食堂の扉を開けた。すると、そこには土下座スタイルで待機するフランツの姿があった。また土下座かよ……。頭の下げ方、これしか知らないのかな。
「この店で働かせてください。お願いします」
頭を床に擦り付けたまま、悔しそうな声を出した。声と体が小刻みに震えている。そんなに嫌なら土下座なんてしなければいいのに。
「頭を上げてください。話はウォルターさんから聞いています」
「じゃあ……」
フランツは首を持ち上げ、引き攣った顔を見せた。土下座なんかしなくても答えはもう決まっている。
「許可します。明日からよろしくお願いしますね」
俺がそう声を掛けると、フランツはそっと立ち上がった。
「ありがとうございます……」
悔しそうな表情のまま、聞き取れないほどの小さな声でボソリと呟く。まだ若干反抗的な態度ではあるが、かなり素直になったな。
フランツは見習いなので給料が安く、ウォルターの家族なのでそれなりに信用できる。雇うなら最適な人材だ。多忙なルーシアとサニアの仕事を任せられるようにするため、厳し目に扱き使ってやろう。





