契約書
マルコの世話をジジイに任せ、訓練場を離れた。向かう先には職人街だ。
この街では石鹸が作られていないが、石鹸組合の支部はある。卸をやっているので、職人街に大きな事務所と問屋を構えている。約30分の時間を掛けて、石鹸組合にやってきた。
木とレンガを組み合わせて作られた、3階建ての大きな建物だ。2階と3階は関係者以外立ち入り禁止で、用がある人は1階の受付で対応する。
1階は日本の役所のような構造になっていて、部屋の真ん中をカウンターで仕切られている。部外者が立ち入れるのはそこまでだ。
カウンターに近付き、受付に居るおっさん職員に話しかけた。
「石鹸工房を開きたいんですが、必要な手続きはありますか?」
「はぁ? 工房? 紹介状は持っているのか?」
職員は怪訝な表情で言う。
「紹介状?」
「なんだ、知らんのか。どこかの工房で修業していれば、親方から紹介状が貰えるだろう」
石鹸の製造方法は、組合と工房が全力で秘匿している。そのため、自分で発見するか、どこかの工房で勉強するしか無い。まあ、どこかから盗むという手段もあるが。
「いえ、持っていません。絶対に必要なんですか?」
「絶対ではないが、修業もしないで作れるもんじゃないだろう。どうやって作るつもりだ?」
「偶然、製造方法を見つけたんです。何度か試作を繰り返して、成功しました」
実際は2回なんだけどね。説得力を持たせるために、話を盛った。
「偶然……ねぇ。どこかで盗んだんじゃないだろうな?」
職員は怪しむ素振りを隠すこと無く言い放った。技術を盗むと言っても、良い意味と悪い意味がある。
職人のもとで修業をしながら勉強することも『技を盗む』と表現することがあるが、今回は文字通りの『盗む』である。不法に潜入して探ったり、関係者に賄賂を渡して教えてもらったり。この国では逮捕されるような犯罪ではないが、忌避されている。
良い意味の『盗む』であれば紹介状が貰えるはずなので、それを持っていないなら盗んだ可能性が高いということなのだろう。思いの外、盗む奴は多いらしい。
「盗むって、どこから盗むんですか。この街では作っていないでしょう?」
「そんなもん、石鹸を作っている村に行くとか、誰かに盗ませるとか、方法はいくらでもあるだろ」
いやいや、犯罪の手解きをしてどうするんだよ。と言うか、石鹸は村で作っているのか……。農閑期の収入源なのかな? それか、石鹸だけを作っている村なのか……。まあ、俺には関係ないか。
「石鹸が村で作られていることすら、今始めて知りましたよ。勉強のために、一度行ってみたいですね」
「ふん、どうだか。まあ、作れると言うなら作ればいい。だが、売りたいというのなら先に登録が必要だ。勝手に売るなよ」
職員はまだ疑っているようだ。自力で発見できる奴は、かなり少ないんだな。
それはいいとして、石鹸を作ることは禁止されていないが、売るのは拙いようだ。先に話を通しておいて良かった。
「では、登録をお願いします」
「いいだろう。出来上がった品を持ってきたか?」
石鹸の提示を求められた。しかし、急な訪問だったので持ってきていない。今持っているのは、使いかけの試作品2号だけだ。ガンガン使っているので、既に半分近く無くなっている。
「新品ではないですけど、いいです?」
「何でもいいよ。技術の確認するだけだ。ゴミを売られちゃあ、かなわんからな」
「そうですか。使いかけで申し訳ありませんが、これでお願いします」
仕方なく、使いかけの石鹸を渡した。石鹸の質は悪くないと思う。店で取り扱っている商品と、なんら遜色ない。ウォルターたちも使っているが、彼らからの評価も上々だ。
職員は渡された石鹸を手に取ると、擦ったり引っ掻いたりして質を調べている。その様子を静かに見守る。
「ふむ……。偶然というのは嘘ではないようだな。少し質が違う」
おや? 俺には分からない違いがあるらしい。
「何かおかしいですか?」
「材料は揃っているが、配合が違う。我々が管理している製法ではない。まあ、石鹸としては機能しているから、このまま作ればいいよ」
この言い方を聞く限り、どうやら何かを失敗しているらしい。おそらく、俺の石鹸は市販されている石鹸よりも少し劣っているのだと思う。さらなる研究が必要だな。
何にせよ、売り物になるレベルには達しているようだ。安心して工房の準備に取り掛かろう。
「ありがとうございます。では、準備が整い次第、量産に入ります」
「うむ。では、登録届けを記入しろ」
職員は分厚い紙の束を突き出した。それを受け取って確認する。
登録届けと言ったが、中身は契約書だ。条件が事細かに書かれている。後で問題になると困るので、先にしっかりと目を通す。
まず、定められたルールが記載されている。
製造された石鹸の半分を、組合に卸さなければならない。最初の卸値は超激安で、有名になれば上がっていくみたいだ。
石鹸の製法は、できる限り秘匿しなければならない。製法を秘匿するための規則や罰則が、山のように設定されている。まあ、俺は全力で秘匿するので、これは読み飛ばしても問題ないか。
次に、組合に加入するメリットについて書かれている。
まずは販売ルートの確保。各街に支部があるので、組合に卸せば国中で売られることになる。良い物を多く卸せばそれだけ知名度が上がり、取引価格も上がっていく。
そして材料の購入割り引き。石鹸に適した油が、格安で販売されている。もう店売りの高い油を使わなくてもいい。これは地味に助かるな。
製造方法を秘匿している主な理由は、粗悪品の流通を防ぐためだ。製造法が周知のものとなると、必ず粗悪品を作る悪徳業者が出てくる。
今は組合が厳格に品質を管理しているが、際限なく粗悪品が生まれてしまうと、組合が管理しきれなくなる。それを危惧して、徹底的に秘匿している。
俺の予想だが、これは表向きの理由だな。本当の理由は石鹸組合を保護するためだ。組合は製造業者から利益を得ているので、製造方法が知られてしまうと組合が意味をなさなくなる。持ちつ持たれつの関係を維持するために、絶対に秘匿しなければならない。
ちなみに、たとえ盗んだ技術であっても、まともな物を作ることができれば開業を認められるらしい。罰を受けるのは盗まれた工房の方だ。管理が甘いと看做される。
一通り目を通して問題が無いことを確認すると、登録届けに署名して職員に渡した。
「これでいいですか?」
「ずいぶん待たされたが、そんなに真剣に読むような内容だったか?」
職員は不思議そうに言った。契約書の内容を読む人は少ないらしい。まあ、小難しい書き方をしてあるので、読みたくない気持ちは分かる。
詐欺師はそれを逆手に取るため、注意が必要だ。そもそも読ませる気が無いので、専門用語や独自の造語などの一般的ではない言葉をふんだんに使う。さらに誤解を与えるような回りくどい書き方をして、読んでも理解できないようにする。
理解させる気があるかどうかも詐欺の判断基準になるので、契約書をしっかりと読む癖がついている。
「こういう文章は、最初に読むものでしょう」
「お前さん、変わってんなあ。それだけ真剣に読んだんなら、おれからの説明は要らんよな?」
口頭で説明されるのかよ……。読まなくても問題なかったのか。まあ、それでも読むけどな。
「そうですね。必要ありません」
俺がそう答えると、職員は「フン」と鼻を鳴らして笑みをこぼした。
「楽で助かる。登録はこれで完了だ。後日、工房の視察をする。そこで問題が無ければ、生産を開始しろ」
マジか。視察なんてあるのかよ。聞いていないぞ。
工房はまだ引き渡されていないし、工房主も見つかっていない。拙いな……。行動が早すぎた。
「工房はまだ準備できていません。少し待っていただいてもいいですか?」
「それは難しいな。登録が承認された時点で、本部から視察員が派遣される。彼らが移動する時間があるから、それまでに準備をしておけ。もし間に合わないようなら、今日の登録を取り消すが。どうする?」
う……迷うな。今日登録を済ませれば、急いで準備しないと拙い。準備が終わってから登録すると、視察が来るまでかなり待たされる。自分の得だけを考えるなら、今日中に登録を済ませるんだけど……。
「分かりました。登録してください。準備を進めます」
言ってしまった。もうやるしか無い。大急ぎで石鹸工房を準備する。工房が引き渡されるまでに、工房主の候補を挙げておこう。誰か居るかな……。
「よし。それならこの登録届けを受理する。視察の日程は追って知らせるから、それまでに量産体制を整えておくように」
職員に念を押された。
受理されてしまったので、強引にでもやらなければならない。かと言って、工房主にできそうな人材に心当たりなんて無い。最悪、自分を工房主にして生産を開始するか……いや、やっぱりそんな時間は無い。どうにかして探すしか無いか。
ところで、さっき渡した石鹸は返してもらえないの? 地味に困るんだけど。





