雇用
俺の独断により、イヴァン一家の処遇が決定した。
各工房と新しく買った物件については、ウォルター一家にも話してある。もちろん事後承諾だ。ウォルターは物凄く嫌な顔をしていたが、「投資だ」と言って強引に納得させた。
蒸留水の工房は、来月の上旬には稼働できるはずだ。本格稼働するまでに、石鹸組合との話を付けておきたい。まあ、これは急ぐことでもないのだが。
しばらくの間、イヴァンの工房は委託販売が主な収入源になる。これはルーシアに報告した方がいいだろう。おそらく、イヴァンの対応をするのはルーシアの仕事になる。
開店前の時間を利用して、ルーシアを呼び止めた。
「ルーシアさん。ちょっといいですか?」
「なんでしょうか」
「イヴァンさんに、行商のお願いをしました。もし商品を取りに来たら、対応をお願いします」
ルーシアに、事の顛末を説明した。対応方法はドミニクと同じなので、話は早い。
「あの……イヴァンさん1人くらいなら、雇ってあげても良かったんじゃないですか?」
ルーシアがおずおずと口を開く。
「いえ。まだ売上が安定していませんからね」
「でも販売手数料って、売上の1割ですよね? 給料の方が安いんじゃ……」
お、計算が早いな。俺やウォルター一家の給料は、純利益の1割。売上に換算すると、3%程度になる。単純に計算するなら、イヴァンの報酬は俺たちの給料の約3倍だ。
「金額だけ見れば、確かにそうです。でも、人を雇うって、そんなに簡単じゃないんですよ。雇うためにはコストが掛かります。給料とは別に、です。おおよそですが、給料の半分くらいは掛かっていると思ってください」
消耗品費や光熱費、交際費など、従業員が1人増えただけでも費用が跳ね上がる。衣食住の提供も、かなりの痛手だ。
まあ、これでも日本よりはマシだ。日本なら、保険料の負担金が重くのしかかってくる。人を雇うなら、総支給額の倍の金額を見積もらないとダメだ。
「だとしても、従業員にした方が安くないです?」
説明が足りなかったか……。もう少し詳しく説明しよう。
「従業員に支払う給料は、拘束した時間に応じて支払われます。物を売った時間ではありません。店に居るだけで給料が発生します。たとえ売上がゼロだったとしても、給料の支払い義務が発生するんですよ。
ですから、売上が安定しないうちは不用意に雇えません」
もし従業員として雇うなら、無収入状態で半年回せるだけの資金を準備しなければならない。この金額を準備できないまま雇うと、何かの問題が発生した時に資金が枯渇して店が潰れる。
まあ、うちの店はそれなりの内部留保は確保されているのだが、余計なリスクを負いたくないというのが本音だ。確実に月の売上で賄えるようになるまでは、極力雇いたくない。
今回の場合、結果的に雇うよりも高くなると思うのだが、それは問題ない。販売に掛かる費用は全てイヴァンが支払うので、こちらの費用はゼロだ。さらに、こちらは何の補償もしなくて良い。
イヴァンの報酬は、商品が売れなければ完全にゼロ。イヴァンの能力次第だ。
うちの店は、1割引きで物を売っているのと変わらない。こちらの手間は大して増えず、ただ勝手に売れていくだけだ。リスクがあるとすれば、うちの店がイヴァンに依存してしまう可能性がある、というくらいだろうか。
万が一、店よりもイヴァンの方が売れるという状態になると、かなり拙い。力関係が崩れてしまう。ここにさえ気を付ければ、双方にメリットがある。
「なんだか、従業員は無駄な出費だと言っているように聞こえるんですけど……」
「無駄とは言っていませんよ。でも、店にとって痛い出費であることは間違いありません。一度雇ってしまったら、こちらの都合で解雇することもできませんし、給料も払い続けなければなりませんからね」
「なるほど……。責任感が強いんですね。さすがです」
ルーシアが変な方向に納得したみたいだぞ……。
そういえば、この国には労働三法が無いんだった。好き勝手に解雇できるし、給料の支払いを優先する義務も無い。なんだったら、「今月は売上が無いから給料はナシね!」がまかり通る。
俺は日本の常識で考えているが、この国では一般的じゃないんだ。しかし、雇用主が好き勝手に動いたら、優秀な従業員は居着かない。そのため、この考えを改めるつもりはない。
ルーシアとの会話を終え、店を開けた。ルーシアは開店の作業があるので、俺は1人外のカフェに座り、お茶をすすって一息つく。
今日は特に予定を決めていない。何をしようかと思案していると、こんな早朝からギンが現れた。
「こんばんは! お疲れ様っす!」
こんばんは? 挨拶を間違えているぞ。
「こんな時間に珍しいですね。今の時間は『おはよう』でしょう」
「違うっすよ? 『おはよう』は寝て起きたときの言葉っす。今日はまだ寝てないんで、『こんばんは』でいいんすよ」
この国の挨拶の仕組みがワカラナイ……。しかも、寝て起きるまでが今日としてカウントされるようだ。こいつにとって、今はまだ昨日の32時あたりということなのかな……。
「まあ、いいです。ちょうどいいところに来ました。ギンに紹介された工房なんですけど、あれは何ですか?」
「何ってなんすか? ボロいっすけど、普通の工房だったっしょ?」
「ボロすぎです。もう壊れてしまいましたよ。まさか屋根が飛んでいくとは、思っていませんでした」
「……屋根って、飛ぶんすね」
何を他人事のように……。しかし、この国でも屋根が飛ぶのは珍しいことなんだよな? カレルは妙に慣れた様子だったが、カレルが特殊なだけだ。
「あんな物件、二度と紹介しないでくださいね」
「ちょ……文句は言わない約束だったじゃないっすか!」
「言わないとは言っていませんよ。お金を返せとは言いませんから、文句くらい言わせてください」
「……そうでしたね……。すんません。返品するっすか?」
「そこまではしなくていいですよ。カレルさんは引っ越しますし、潰して放置します」
カラスに無理を言って、物件の引き渡しを早めてもらった。おそらく、カレルは今頃引っ越しの準備をしているはずだ。
「じゃあ、俺に任せてください。買い手を探します」
いや、誰も要らないだろ。壁が無くて、屋根が飛ぶ家だぞ。誰が買うんだよ。
「無理でしょう。どこの誰が欲しがるんですか」
「脱着式の屋根とか言えば、なんとか……」
いいように言い過ぎ。そもそも、屋根が脱着できることに何のメリットがあるんだよ。
「いえ。諦めますから、売らなくていいです」
ため息をつきながら答える。
あのボロ屋が立っている土地は、立地が悪い上に狭い。上モノが無ければ買い手は付かないと思う。日本なら駐車場や資材置き場として使えるだろうが、この国では用途が無い。
かと言って、新築を建てるような金は無い。しばらくは持ち続けて放置することになるだろう。幸い、この国では使っていない土地に税金が掛からない。持っているだけならタダだ。
「一応、買い手を探しときますよ」
「お任せしますが、無理はしなくていいですからね」
売れたらラッキーくらいに思っておこう。まあ、売れないだろうけど。俺は俺で、用途を考えておく。売れたら良いが、何かに使うのが最良だからなあ。
「うっす。ところで、頼まれてた調査なんすけど……」
ギンは困った様子で突然切り出した。ギンには同時進行でいろんな用事を言いつけているので、『何の』という情報が抜けると話が通じない。しかし、ギンは『何の』を省く癖があるようだ。二度手間。
「調査……。どの件です?」
「コータロー商店っすね。なんか様子が変なんすよ」
「変、と言うと?」
「買収するような動きじゃないんすよね。それどころか、コータロー商店が保証人になって、大金を借りているみたいなんす。どう考えてもオカシイっすよね?」
ギンは、同意を求めるように言う。
「コータロー商店が借りさせている、ということですか……」
「やっぱり、そうなるっすよね……。何がしたいんすかね」
「ギンは貸していないんですか?」
「オレには声が掛かんなかったっす。確かに大金は準備できないっすけど、ちょっと悔しいっすね」
残念。ギンが関わっていれば、もっと詳しい情報が聞けたのだが。
ギンが普段扱っている金は、10万クランから100万クランまで。比較的小口と言える。ギンが相手にされなかったということは、かなり大口の取り引きだったはずだ。
今回動いた金は、どんなに少なく見積もっても最低100万クラン。相当な額が動いている。
「その大金の使い道は何でしょうね……。調べてあります?」
「うっす。なんか、改装しているみたいっすよ。店舗の中と外、両方っす」
ますます分からない……。コータロー商店が潰れそうな店の救済に動いた? それだと、コータローには何のメリットも無いよなあ。ライバルを増やすだけだ。だったら、買収してしまった方が早い。
「分かりました。改装中の店を見に行きましょう」
「了解っす。今から行きます?」
寝ていないはずなのだが、眠くないのかな……。まあ、本人がいいというのだから、問題ないだろう。
「そうですね。急いだ方が良さそうです」
ギンと共に、コータローの息がかかった店に行く。
もし詐欺師だったら、金を借りさせて物を売りつけて借金を押し付けて逃げる。だが、それなら自分が保証人になることはあり得ない。
コータローは真面目に考えて借金を背負わせた。利益が出ることを見越した上で、だ。日本人的発想で考えているはずだ。現場を見れば何かが分かるかもしれない。





