挨拶
蒸留水工房は、順調に準備が進んでいる。今は引っ越しの最中だろう。視察も兼ねて、顔を出そうと思う。
イヴァンの人となりは分かっているのだが、家族のことまでは知らないし、まだ会ったこともない。イヴァンの家族というのだから、変な人間ではないはずだ。
イヴァンの工房に到着すると、小さなリアカーに載った少ない荷物を、家族総出で運んでいた。自前のリアカーを持っているらしい。
イヴァンの嫁はイヴァンと同じくらいの歳。上の子は15歳になると言っていた。少し大人っぽく見えるが、普通の女の子。勝手に男だと思っていたが、女の子だった。
下の子は男だ。年齢を聞いていないが、たぶん13歳くらいの、生意気そうな男の子。家族はこれだけ。4人家族だ。
イヴァンの手が空いたことを確認し、声を掛ける。
「お疲れ様です。引っ越しは順調ですか?」
「あ、お疲れ様です。何も問題なく、順調ですよ。しかし……こんな立派な家をお借りして、良いのですか?」
「本当は僕が使うはずだったのですが、1人では広すぎますからね。ご自由に使ってください」
もとより、工房を任せる人間を見つけたら、すぐに明け渡す予定だった。それが想定以上に早くなっただけだ。それに、家賃を支払ってもらうので、俺の損にはならない。
「ありがとうございます……。本当に、感謝しかございません」
イヴァンは深々と頭を下げながら言った。
「いいんです。期待していますよ。ところで、お仕事に関してですが。ご家族の理解は得られました?」
「もちろんです。妻も、私と同様に張り切っていますよ」
それを聞いて安心した。イヴァンが説得に失敗していた場合、俺が説得しなければならなくなる。面倒を1つ回避できた。
蒸留水の精製は、やることが少ない。水を火にかけたら、ひたすら放置するだけだ。あとは、火事にならないように監視するだけ。時間は掛かるが、技術も手間も要らない。
だからこそ、自分ではやりたくなかったんだよな。蒸留水を生成している間、外出することができなくなる。サニアとルーシアは家に居るが、仕事があるので、ずっと監視しているわけにはいかない。
誰にでもできる簡単な作業だったので、イヴァンの家族はちょうど良かった。
「そうですか。よろしくお願いしますね」
「こちらこそ、よろしくお願いします。あ、と。その前に。私の家族を紹介しますね。みんな、集まってくれないか?」
イヴァンが声を掛けると、嫁と娘は荷物を地面に置き、イヴァンの後ろに並んだ。
「なに?」
上の子がイヴァンに問いかけた。
「雇い主の店主さんだ。この家も、店主さんの厚意で準備してもらった。しっかりと挨拶をしなさい」
イヴァンは、ハキハキとした口調で言った。頼りなさげな見た目だが、家ではちゃんと父親を演じているらしい。
「パオラです。こんな素晴らしい家を貸していただき、本当にありがとうございます」
まず挨拶をしたのは、嫁の方だ。おっとりしていると言うか、のんびりしたような印象を受ける、薄幸そうな中年女性だ。まさしくイヴァンの嫁、という感じだな。
「いえ。その分ちゃんと働いてくださいね」
「もちろんです。よろしくお願いします。あと、こっちが娘の……」
「ライラです。はじめまして」
上の子だ。堂々とした態度で、丁寧に礼をする。顔立ちは母親に似ているが、性格がキツそう。気が強い印象を受けた。性格は両親ともに似ていないようだ。
「では、最後に。うちの長男ですが……」
その長男は、イヴァンの呼びかけを無視し、黙々と引っ越しの作業を進めている。
「オレはいいよ! なんでオレが挨拶するんだよ!」
荷物を抱えながら、顔だけをこちらに向けて叫ぶ。
すると、ライラは鬼の形相で息子を睨みつけながら怒鳴った。
「マルコ! 大事な雇い主様なんだから! 挨拶しなさい!」
「……マルコ」
息子は不機嫌そうな表情を浮かべて、小さい声で吐き捨てるように呟いた。名前はどうにか聞き取れたが、すぐに荷物の運搬に戻っていった。
うん。生意気そうだ。男の子は少しくらい生意気な方が可愛い、どこかの誰かがそんなことを言っていた。そんなことは絶対に無いと断言する。素直な方が可愛げがある。
まあ、長男は放置でいいか。たぶん反抗期だ。優しくしてあげよう。マルコを無視してライラに声を掛ける。
「では、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
丁寧なお辞儀が返ってきた。躾に問題は無さそうだな。マルコも、時期が来たら素直になるだろう。
最後に、生産物の卸値について話をする。
蒸留水の生産量は、蒸留器1台あたり1日10リットル程度。思ったよりも少ない。消費する燃料は、1日あたり500クランほど。こっちは思ったよりも多い。
水は無料なので、かかるコストの大半は燃料だ。これでも樽買いの激安燃料。これ以上のコストダウンは難しい。入れ物代と人件費を考慮して、1リットルあたり300クランで卸すのが妥当だろうか。
粗利率は約60%。決して多い割合ではないが、まあ大丈夫だろう。石鹸工房が稼働されれば、蒸留水工房もフル稼働することになる。販売数で十分カバーできる。
次はエッセンシャルオイルと芳香蒸留水。工程は普通の蒸留水と大差無いのだが、香草代が余分に掛かる。その上、完全なオリジナル商品だ。口止め料も兼ねて、高い値段を設定する。
1日で精製できるエッセンシャルオイルは500ミリリットル程度。20ミリリットルの小瓶に入れて、700クランの値段をつけた。
芳香蒸留水は副産物なので、コストは0クラン。入れ物代が掛かるだけだ。とは言え、普通の蒸留水よりも安くするわけにはいかない。1リットルあたり400クランにした。
ちなみに、エッセンシャルオイルを作るための蒸留器は、俺が無理やり改造して作った試作機だ。耐久性に難がありすぎる。改造版蒸留器が完成するまで、イヴァン一家の収入は委託販売の手数料のみだ。
以上の内容を、できるだけ簡潔に伝えた。
「この予定でいいですか?」
「問題ありません。よろしくお願いします」
イヴァンの確認を終えたので、契約成立だ。イヴァンには、俺のかわりにカーボン紙とリバーシを売ってもらう。他にも売れそうなものがあれば、遠慮なく売ってもらうつもりだ。
イヴァンの一家に挨拶を済ませたら、次はランプ職人のもとに向かう。蒸留器の改造を頼みたい。
この工房には改良版オイルストーブの注文も出しているのだが、販売できるレベルに至っていないらしく、まだ納品されていない。注文を出してから、既に2カ月近く経っている。正直、もっと早く納品されると思っていた。今回の訪問は、その催促も兼ねている。
「お久しぶりです。調子はいかがですか?」
「ああ、久しぶりだ。待たせて悪いね。ようやく量産体制が整った。月末には納品できると思うよ」
親方は、待たせているという自覚はあるようだ。工房内を見回しながら、申し訳なさそうに言った。
辺りには、オイルストーブの残骸のようなものが転がっている。かなりの量を試作したらしい。
「助かります。そちらも急いで欲しいんですが、追加の注文を受けていただけませんか?」
「うん? 何だ?」
蒸留器の改造案が書かれた紙を、親方に渡した。
鍋と蒸留器を溶接するだけの簡単な改造なのだが、道具が無いので俺にはできない。
「これなんですが、一から作る必要はありません。既存の蒸留器を改造するだけです。この部分を密閉してください」
鍋とパイプのつなぎ目を指でさして説明をする。
「ほう……。何の道具かは分からんが、簡単な作業だな。これくらい、1日あれば終わるよ」
「思っていたよりも早いですね。では、新品の蒸留器を5台持ってきます。申し訳ないんですが、急ぎでお願いします」
「おう。任せろ。それはそうと……例の紙は完成したのか?」
親方は、力強い眼差しを俺に向けながら言う。
「例の紙?」
「文字を複写する紙だよ。前に売り出すと言ってただろ?」
「あ、カーボン紙ですね。完成していますよ。遅くなって申し訳ありません。すぐにお渡しできます」
ここの親方は、カーボン紙が売り物になったらすぐに届けろと言っていた。何かのついでに持っていこうと思っていたら、すっかり忘れていた。
「おう。待ってたんだよ、これ。設計図は複数枚必要だからな。同じ図面を二度書くのは、精神的にも疲れるんだ」
そう言って、落書きに塗れた紙を見せられた。落書きの奥の方に、オイルストーブの設計図らしき絵が書かれている。どうやら作業中にメモを書き足しているらしい。製造過程で気が付いたことや注意点が、ごちゃごちゃと書き込まれている。
これは同じ内容を2枚書かないと厳しいだろうなあ。落書きで読めなくなるので、キレイなままの設計図を別に残さなければならない。
「この調子だと、定期的に必要になりそうですね。使えなくなったら言ってください。たぶん、1週間くらいで使えなくなると思います」
「結構寿命が短いんだな……。悪いが、頼むよ」
親方にカーボン紙を渡し、工房を後にした。
蒸留器の改造の発注は終わった。しかし、よく考えたら、嫌なことに気が付いた。新品の蒸留器は発注済みだ。俺の店に新品の蒸留器が届き、それからこの工房に届け、次の日にはイヴァンの工房に搬入する。物凄い手間じゃないか。
確か、イヴァンはリアカーを持っていたな……。全部イヴァン一家に任せよう。蒸留器の手配はイヴァンに丸投げだ。イヴァン一家の最初の仕事は、配達になりそうだ。





