飛びます飛びます
実験用の工房は、ただの一度も使うことなく無くなってしまった。しばらくはイヴァンの工房を間借りするが、ちょっと落ち着かない。早めに新しい工房を買おうと思う。さっそく今日、カラスに相談しよう。
事務所で1人、出発の準備を進めていると、扉が開いてルーシアが入ってきた。
「お客さんですよ。店でお待ちです」
言い方が少し冷たい。機嫌が悪いのか? まあ、いちいち気にしても仕方がない。軽く頷いて、店舗に顔を出した。
すると、そこに居たのは、カレルだった。追加発注はまだ出していない。何か用があるのだろうか。
「店に来るのは珍しいですね。どうしたんです?」
「あの……ご相談と言うか、ご報告と言うか……」
カレルは、言いにくそうに口籠っている。
「何です? 早く言ってください」
そう言って急かした。
「すみません。工房が少し壊れてしまって……。ちょっと見ていただけませんか?」
カレルの工房は、今にも壊れそうなボロ屋だった。どうやら遂に壊れてしまったらしい。
「いつ壊れてもおかしくなかったですからねぇ……」
修理をしないといけない。いや、まずは現状の確認かな。物件探しは後回しにして、先にカレルの工房を見ておこう。
店を出て、無言で歩くカレルの後を追う。
程なくして、カレルの工房に到着した。いつ見てもボロい。崩れずに立っていることが奇跡のようだ。そんな建物の横をぐるりと廻ると、そこには今にも崩れそうな壁が……無い。
風通しが良さそうとか日当たりが良さそうとか言うレベルではない。比喩ではなく、本当に一面の壁が無くなっている。
「何があったんです?」
「この前、穴が空いてしまいまして……。昨日、自分で直そうと粘土を塗っていたら、粘土の重みに耐えられなくて……その……崩れました。ごめんなさい!」
カレルは勢いよく頭を下げた。
マジかよ。それほどまでに弱っていたのか……。改めて顕になった柱を見ると、あちこちが腐っている。近い内に折れそうだ。
この壁を修理したところで、どうにもならないだろうな。
「経年劣化ですね。仕方がないですよ。気に病まないでください」
とりあえず、ギンには苦情を言っておく。あまりにも早く壊れ過ぎだ。いくら安いと言っても、ここまでボロいのは困る。
「すみませんでした……。修理代はどうしましょう?」
「必要ありません。それよりも、これでは住めませんよね……」
この建物は、もう家の体裁を整えていない。公園にある屋根付きベンチと同じだ。それに、壁が無くなった建物は強度が落ちる。ただでも崩れそうなのに、さらに崩れやすくなったんだ。もう住めない。
「いえ、屋根はあるので、大丈夫です!」
カレルが力強く言うと、急に突風が吹き抜けた。よろめくほどの強い風だ。砂埃が舞い、視界が遮られる。近くで『ゴスッ!』という鈍い音が響いた。
視界が晴れると、近くの地面にカレルの工房の屋根が転がっていた。
「無くなりましたね。屋根……」
「すみません! 直りますから! 屋根を乗せ直したら元通りですから!」
この様子は初めてではないな……。慣れていやがる。家の屋根が飛ぶ光景なんて俺は初めて見たぞ。ある意味、貴重な体験だ。
「元通りにはなりませんて。強い風が吹いたら、また飛んでいくんでしょう?」
「大丈夫です! 簡単に乗せ直す方法を思い付きましたから!」
それのどこが大丈夫なんだよ。飛ばない方法を考えるのが先だろうが。
なんだかカレルが哀れになってきた……。この建物を選んだのは俺だ。ちょっと責任を感じる。それに、工房がこんな状態では丁寧な作業は望めない。立て直すか引っ越すかした方がいい。
どうせなら、カレルの工房も店舗の近くに移動させようかな。
「引っ越しましょう。これから物件を見に行くつもりだったんですが、一緒に行きませんか?」
「いいんですか……? でも、費用……」
「構いませんよ。僕が出します」
カレルからは家賃を貰うので、俺が金を出したところで痛くない。空き家リスクの無い不動産投資だ。むしろ有り難い。
今の工房は、できることなら返品したい。しかし、それはさすがにギンに悪い。かと言って、売るにも売れない。ここも立地が良いとは言えないので、あまり需要がないと思う。土地だけ売っても二束三文だろう。
上モノが自然崩壊するのを待ち、更地にしてキープしておく。この調子なら、どうせ半年も経たないうちに壊れるだろう。それまで放置だ。
今あるカーボン紙の在庫を抱え、崩壊寸前の工房を後にした。
いつもカラスがサボっている公園に来ると、カラスはいつものベンチを占領し、横になっていた。カラスの周りには、酒の空き瓶が転がっている。ここで飲んで、そのまま寝てしまったらしい。不健康なやつだな。
カラスの耳元で声を出し、カラスを起こす。
「おはようございます」
「うわっ! おはようございます! お疲れ様っす! すんません!」
カラスは驚いて飛び起きると、寝癖でボサボサになった頭を下げた。
「こんな場所で寝ていると、風邪をひきますよ?」
「そうっすね……すんません……」
カラスは、そう言って項垂れた。ちょっとした注意のつもりだったのだが、何かの警告とでも思ったのだろうか。ずいぶんと深刻な表情を浮かべている。
気持ち悪いな。さらっと流して話を変えよう。
「今後は気を付けましょう。ところで、今日はギンと一緒じゃないんですね」
「そうっすね……ダチじゃないんで、用がなければ会わないっす」
ギンと同じことを言っているな。2人とも、友達じゃないと強調している。実は仲が悪いのか? まあ、仲が悪かったら一緒に仕事をしないか。不思議な関係だな。
何にせよ、今日はギンに文句を言うことが叶わなかった。どうせすぐに会うだろうから、文句を言うのはその時でいい。
「それはそうと、また物件の紹介を頼みたいんですが。条件は前回と同じです」
今日買う物件は、カレルの工房と、俺の実験用工房、そして石鹸工房。合わせて3つだ。相当大きな出費になる。おそらく、移転で儲けた1000万クランが全て吹き飛ぶ。
現金が無くなるのは辛いが、寝かせていても仕方がない。大事な投資だ。
石鹸工房は今日じゃなくても良かったのだが、イヴァンの件で反省した。人材は突然現れる。素早く対応するために、準備だけは進めておきたい。
ただ、工房主がまだ見つかっていないし、石鹸組合の問題も残されている。実際に稼働できるのは、まだまだ先になりそうだ。
「あざっす! それは有り難いんすけど、そんなに買ってどうするんすか?」
「急遽必要になったんですよ。ギンに紹介された物件は壊れそうですし、前回の物件は用途が変わってしまいましたし。今回は3件です。空き物件はあります?」
「そんなに……いいんすか? マジでいいんすか?」
カラスは驚きながら聞き返した。
「はい。お願いします」
俺の返事で気を取り直し、書類の確認を始めた。前回から物件が売れていなければ、まだいくつか抱えているはずだ。
カラスの案内で、提案された物件を見て回る。今日は3件もあるので、じっくりと内見している暇は無い。ざっと見て回るだけだ。カラスは俺のことを怯えているので、変な物件は紹介されないだろう。
どの物件も、店舗の近くだ。広さも同じくらい。店舗ではなく住居、という建物もあった。住居用に作られた建物をカレルに割り当てる。
他は普通の店舗用の建物だった。小狭い店舗スペースと、バカでかい倉庫がセットになっている。より店舗に近い物件を俺の実験用に割り当て、残った一件は石鹸工房として使う。
実験用工房だけは、他よりも二回りほど小さい。元は薬屋だったと聞いた。調剤用の部屋があったので、実験するには最適だ。
「一度に全ての物件を引き渡すことはできないっす。すんませんけど、順番でお願いします……」
カラスがそう言うので、最初にカレルの工房を受け取る。次に実験用工房で、石鹸工房は最後だ。
「掃除は前回ほど頑張らなくてもいいですからね。軽くでいいです」
「うっす。そう言っていただけると、助かります」
カレルの工房は現状渡しで大丈夫。カレルが自分で掃除する。まだ暇そうだしな。石鹸工房も現状渡しだ。掃除が必要なのは、俺の実験用工房のみ。ここだけは気合を入れて掃除をしてもらおう。
カレルは、提案された物件を見て困ったような表情をしている。
「本当に……こんな家に住んでいいんですか?」
「前回がボロすぎましたからね。今回は、屋根が飛んでいくようなことは無いと思います。カラスさん、無いですよね?」
「うっす! 絶対に無いっす! 勘弁してくださいっす! すんません!」
いったい何に謝っているんだ……?
まあ、簡単に壊れないのなら、それでいい。
「では、手続きをお願いします」
今回の買い物は、全部で480万クラン。内訳は、カレルの工房が160万、実験用工房が140万、石鹸工房が180万だ。広さで値段が変わるらしい。
前回より安いのは、カラスが値引いてくれたから。どれも2割以上値引いてくれている。どれも売れ残りの長期在庫なので、原価割れしてもいいから売りたいそうだ。まあ、俺にビビっているとか、大量購入だからとか、安くなった理由は他にもあるのだが。
意外と安く済んで助かった。カラスも、売れ残りが捌けたと言って喜んでいる。まあ、こんな立地が悪い場所にある物件を欲しがるような物好きは、そう簡単には現れないだろうな。
今回も良い買い物ができたと思う。成り行き任せで店を運営してきたが、上手く回り始めている。客はおっさんばっかりだが、売上は順調だ。もう少しで軌道に乗るだろう。ひと踏ん張りだ。





