右から左
今日は待ちに待っていた実験用工房の引き渡しの日。カラスが早朝に店に来るというので、外出せずに待っている。
店が開いてから数時間、そわそわしながら外のカフェでお茶をすすっている。カラスにとって、早朝とは『昼頃』という意味だったらしい。今後は気を付けよう。
しばらく待っていると、そこに現れたのはカラスではなくギン。
「おはようございます! お待たせしたっす!」
「あれ? どうしてあなたが?」
「カラスは先に行っているっすよ。かわりにオレがお迎えに上がったっす」
「まあ、どちらでも構いませんが。早朝という言葉の意味を間違えていませんか?」
「そうっすか? 起きた時間が早朝っすよ?」
ああ、何を言っても無駄か。もう、そういうものだと納得するしか無いな。
「まあいいです。しかし、どうしてギンが来たんです? 来なくても大丈夫でしたよね?」
「そうなんすけど、オレも掃除を手伝ったんすよ。成果を見てほしいっす」
店内や什器類は新品同様だったので、掃除さえしてあればすぐに使える。しかし俺は掃除をする時間が無かったので、埃にまみれた店内を、カラスとギンに掃除をさせた。
「そうですか。期待していますよ」
ギンと共に新工房へと移動した。新工房は、店舗から歩いて数分の距離にある。ここなら、仕事の合間に手軽に通うことができる。これは俺が最重要視していた条件だ。
中に入ると、カラスが頭を下げて待機していた。
「すんません……お待たせしたっす。キレイになっていると思うんで、確認をお願いします」
カラスは、恐縮そうに言う。先日の詐欺師の一件以来、どうも俺にビビっているようだ。やりすぎたとは思っていないが、今後は注意した方がいいかもしれない。
改めて工房の中を確認すると、見違えるようにキレイになっていた。「何ということでしょう」というナレーションが聞こえても不思議ではないくらいだ。
住居部分に至っては、今住んでいる店舗の住居部分よりもキレイかもしれない。傷んでいる箇所は見当たらず、リフォームしたばかりという様子だ。
「驚きました。思っていたよりもキレイですね」
「でしょ? マジで頑張ったんすよ。なんか、カラスが妙に張り切ってたんす。なんかあったんすか?」
「おい! 余計なことは言わなくていいんだよ! すんません……満足していただけました?」
軽い調子で話すギンを、カラスが注意した。カラスは知られたくないようだが、かなり張り切って掃除してくれたらしい。これで180万クラン、かなり安いと思う。
「十分です。むしろ、こんな値段で受け取ってしまって、いいんですか?」
「すんません! あと20万クラン値引きします!」
カラスが急に頭を下げた。どうやら、俺の褒め言葉を嫌味と受け取ったようだ。
「値引きは必要ありませんよ。満足しています。それとも、値引きしないといけない理由でもあるんですか?」
「いや……すんません。実は、立地が悪すぎて本当に人気が無いんすよ……。押し付けるようなことをして、マジで申し訳ないっす」
ああ、立地の問題か。確かに普通なら需要がないだろう。大通りから外れていて、店の前の人通りは皆無だ。しかし、俺にとってはここよりも良い立地が思い付かない。
それに、もっと酷い理由があるのかと勘ぐっていた。例えば『幽霊が出る』とか。いくら俺でも、さすがにそれは嫌だ。殴れない相手は怖い。
「構いませんよ。工房として使うので、立地なんか関係ありませんから」
「そう言っていただけると、助かるっす……」
カラスは、俺の一挙手一投足に気を使っている様子だ。そんなに気を使わなくてもいいのに。
物件の引き渡しが終わると、カラスとギンはそのまま去っていった。俺は1人残されたが、一度店に帰る。道具を移動させなければならない。
この作業は、カラスとギンに手伝わせることができない。機密情報が多すぎるからだ。連中を信用していないわけではないが、部外者に知られるリスクは少しでも減らしたい。
店に帰ると、カフェにイヴァンが座っていた。どうやら俺が外出しているうちに、入れ違いになったようだ。
「いらっしゃいませ。お一人ですか?」
「あ、店主さん。お邪魔しております。今、お忙しいですか?」
イヴァンは、苦笑いを浮かべながら言う。俺に用があるらしい。
「少しならいいですよ。どうしました?」
「実はこの度、コータロー商店を辞めることになりまして……」
辞めるときに声を掛けろとは言ったが、ずいぶん早いな……。こっちの受け入れ体制は、まだ整っていないぞ。
店舗の人手は全く足りていないが、雇うだけの余裕も無い。何とか引き止めておきたいところだが……。少し話を聞いてみよう。
「そうでしたか。思ったよりも早かったので、少し驚きました」
「ははは。そうですよね。私にとっても急な話でしたから。今日出勤したら、帰っていいと言われましたよ……」
うわ……突然の解雇かよ。この国には労働三法のような法律が存在しない。これらは従業員の権利と給料を守るための法律だ。これが存在しないので、従業員の生活は雇用主の胸三寸で決まってしまう。
経営者にとっては有り難いことだが、従業員にとっては死活問題だ。解雇の事前通知も給与の補償も無い。本気の「明日から来なくていいよ」が許されてしまう。
「それはまた……お気の毒に」
「国から追加の人員が派遣されたので、私の仕事が無くなったんです。
お恥ずかしい話、明日からの生活にも困る始末です。来月の家賃すら、支払えるかどうか……」
「貯金はしていなかったんですね」
「ははは。そんなもの、見習いに転落した時にどんどん無くなっていきましたよ。引っ越しをする費用も出せず、八方塞がりです」
この国では、見習いの給料はアホほど安い。月の給料は、2万クランか、良くて3万クラン。対して、一般人の生活費は安くても月5万クラン。確実に足りない。
しかし、雇用主が衣食住を提供するのが一般的なので、問題になることは少ないはずだ。
「コータロー商店が負担してくれなかったんですか?」
「私の分は負担していただけましたが、妻と子どもが居ますので……」
これは無理だな……。見習いは、経済的に結婚することが難しい。雇用主も、見習いの家族までもの面倒を見るのは不可能だ。
「だったら、もっと給料が良い店に就職すれば良かったんじゃないですか?」
「それができたら苦労はしません。潰れた店の従業員なんて、縁起が悪すぎて誰も雇ってくれませんからね……」
「そんなことがあるんですか……それは厳しいですね」
雇いたくない気持ちは、分からなくも無い。優秀な従業員であれば、潰れる前に何らかの行動を起こしそうなものだからな。潰さないように努力するとか、潰れる前に辞めるとか。
だが、それができないことも理解している。潰れる素振りを見せず、突然潰れるパターンもあるしな。
結局、店を潰すのは経営者の責任だ。従業員には罪は無い。従業員がどれだけ頑張ったところで、経営者が致命的な失敗をすれば店は潰れる。
「すぐに正規雇用になると思っていたんですが、そんなに甘くは無いですね。ははは」
イヴァンは笑いながら言うが、相当困窮しているはずだ。これはチャンスかもしれないな。今ならどんな仕事でも引き受けてくれそうだ。
「子どもさんは、いくつなんです?」
「上の子はもうすぐ15ですよ。そろそろ見習いに出す歳なんですが、伝もお金も無くて……」
なるほど。家族全員を巻き込めば、問題解決じゃないか。嫁と子どもに蒸留水の工房を任せてしまおう。ちょうど工房が手に入ったところだ。実験用工房が無くなってしまうのは辛いが、行動開始は早い方がいい。
「残念ながら、今僕の店には雇う余裕がありません」
「そうですよね。分かっています。せめて、どこか良い就職先を紹介していただければ、助かります」
イヴァンは疲れたような表情で呟いた。たぶん、少し誤解している。「余裕がない」という言葉を、断るための方便だととらえたようだ。
「いえ、独立されてはいかがでしょうか。家族が居るのなら、みなさんに手伝っていただきましょう」
「え……? そんなお金はありませんし、考えたこともありませんよ?」
「全部僕が準備します。独立と言っても、僕が雇っているようなものですから。住居もありますよ」
子会社のシステムがピンとこない様子だったので、細かく説明してあげた。
イヴァン一家に任せる仕事は、主に蒸留水とエッセンシャルオイルの精製。それだけだとイヴァンの能力がもったいないので、俺の店で取り扱っている商品を行商で売ってもらう。ドミニクに任せていることと同じだ。
そして、例によってエッセンシャルオイルと芳香蒸留水は全部俺が買い取る。大事なオリジナル商品の材料だ。勝手に横流しをされると困る。
ちなみに、石鹸は別の工房を作るつもりだ。情報を一箇所に固めるのはリスクが高い。それに、蒸留水とエッセンシャルオイルを作るだけで手一杯になると思う。手間は掛かるが、石鹸を作るための人材は改めて探す。
扱いはカレルの工房と同じなのだが、報酬の支払いが少し違う。蒸留水に関しては同じで、それに委託販売の手数料が上乗せされる。最初の収入は少し厳しいだろうが、それでも見習いの給料よりはマシになるはずだ。
「ありがとうございます。そういうことでしたら、喜んで引き受けさせていただきます。家族は私が説得しますよ」
イヴァンは軽快な笑みを浮かべ、深々と頭を下げた。独立の意思は無いようで、雇われ社長であることを喜んでいるようだ。使いやすくて助かる。
あまりに急な話だったので、右から左へ流れるように実験専用の工房が無くなってしまった。しばらくは蒸留水工房の片隅で実験をするが、この辺りにはまだ空き物件があるようなので、追加の物件を買う。カラスに相談してみよう。
――ご挨拶――
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