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ニオイ

 近頃、とても店の調子がいい。カフェスペースも席が埋まるようになったし、お茶や茶器を中心に雑貨もよく売れている。

 ティーセットや茶葉が売れるとカフェスペースの売上が落ちるかも、とも思えるのだが、カフェスペースの強みは水にある。浄水器が再現できない限り、店の優位は揺るがない。


 店の品揃えは、高級品が中心になってきた。これもコータロー商店の影響だ。大量生産の安物は、他所の店と競合しまくっている上に、価格破壊が起きている。取り扱うメリットが何も無い。

 今取り扱っている食器類は、熟練職人による高級品だけだ。職人からの信用で置かせてもらっている商品なので、下手な値引きはできない。


 それでもルーシアは少し納得していないようで……。


「ティーセットの品揃えなんですけど、もっと安いものを置けませんか?」


 ルーシアは、以前から「安いものを多くの人に持ってもらいたい」と考えている。高級志向のレヴァント商会のことを嫌う、一番の理由だ。考え方としては悪くないのだが、時と場合による。


「置きたくても置けないんですよ。一応は月末に入荷しますが、それ以降は未定です」


 例の店から仕入れた商品が売り切れたら、おそらく品揃えは高級品だけになる。本当なら安いものも置きたいのだが、置いたところでどうせ売れない。邪魔なので、入荷することはない。


「そうですか……。高くて買えないという人が、ちらほらといらっしゃるんです。どうにかなりませんか?」


「安いものは、他の店が安く売っていますからね。安売りは他所に任せるべきでしょう」


「でも、せっかく来てくださった方を、追い返すような形になっているんです。これって、あまり良くないですよね?」


 ああ、それは少しもったいないな。せっかく来たのだから、せめて1クランでもいいから落としていってほしい。


「分かりました。何か考えておきましょう」


 とは言ったものの、何かあるかな……。できることと言えば、職人に手を抜いてもらって安くすることだが。たぶん、それを提案してしまうと、半分以上の職人がブチギレると思う。職人って、プライドが結晶化したような人種だもんなあ。



 品揃え問題は保留。まあ、そのうち名案が浮かぶだろう。


 時間が空いたので、二度目の石鹸を確認する。使った油は、普通の食用油。匂いから察するに、おそらくランクの低いオリーブオイルだ。もしかしたら、他にも何か混ざっているかもしれない。


 固まった石鹸をナイフでカットしたのだが、やっぱりお菓子みたいだ。臭いこそ石鹸だが、これが花の香りだったら、間違えて食べるぞ……。


――花? ハーブは売るほどあるぞ。作れるんじゃないか? 香りつきの石鹸……。


 この国にも、香りつきの石鹸は無くはない。ただし、石鹸生地に草を混ぜ込むスタイルだ。泡立ちも良くないし、若干肌が荒れる。俺なら、もっと良い品が作れると思う。


 幸い、うちの店には蒸留器がある。エッセンシャルオイルが作れるはずだ。いや、副産物の芳香蒸留水を使った方が肌にいいな。

 エッセンシャルオイルを石鹸や化粧水に使うには、かなり希釈しなければならない。その方法や分量は、俺は知らない。これの用途は後で考えよう。



 エッセンシャルオイルとは、植物の香り成分を抽出した液体だ。作り方はいろいろあるが、今回は手元にある蒸留器を使う。

 作り方は意外と簡単。蒸気が通過する部分に、乾燥ハーブを置くだけだ。今の蒸留器を少し改造するだけで作れる。


 さっそく試してみよう。思い立ったら即行動。商人にとって重要なことだ。


 蒸留器に水と燃料を入れ、蒸留器のスタンバイをする。蒸気が抜ける管を切断し、適当に穴を開けた鍋を差し込んだ。隙間から蒸気が漏れそうなので、粘土を塗り込んで隙間を塞ぐ。


 今回はちょっと試すだけなので、水の量をかなり減らした。1時間くらいで終わるだろう。その間に、できたばかりの石鹸の具合を試す。



 石鹸を水に浸け、手で擦る。すると、キメ細かい白い泡が手にまとわりついた。さらに泡立て、その泡を二の腕に擦り付ける。


 今やっているのはパッチテストだ。肌の弱い部分に付けることで、皮膚への影響を調べる。アレルギーがあったり、毒性があったりすると、塗った部分が赤くなる。手のひらは皮膚が丈夫なので、敢えて弱い部分で試す。


 熱心にゴシゴシと擦っていると、サニアが近付いてきた。


「上手くいったみたいじゃない」


 俺の手の中にある石鹸を眺め、ポツリと呟いた。

 俺が石鹸を作っていることは、ウォルター一家の全員が知っている。それに、前回失敗したことも伝えてある。実験中の石鹸を、うっかり口に入れないためだ。

 特に前回の失敗作は、固さもちょうど食べやすいレベル。何も知らなければ、食べてしまうかもしれない。


「そうですね……。泡立ちは悪くありません。汚れも落ちているようです」


 俺は泡立ちに拘っているが、汚れを落とすのは泡ではない。石鹸に含まれる界面活性剤だ。まあ、それが泡を出しているので、石鹸の泡立ちは汚れを落とす性能と言っても良いだろう。


 使用感は悪くないのだが、水酸化ナトリウムの量が心配。もし多すぎた場合、しばらく経ってから手がヒリヒリするはずだ。こればっかりは、使ってみないとわからない。

 リトマス試験紙があれば……正常な石鹸のph値を知らないわ。やっぱり人体実験で試すしか無いな。



 俺の手元をまじまじと眺めていたサニアが、突然口を開いた。


「ねえ、ツカサくん。髪の毛に優しい石鹸、作れない?」


 この国ではシャンプーのようなものは普及しておらず、髪の毛も固形石鹸で洗う。そのため、街には髪の毛がゴワゴワした人が溢れている。毛量によっては、爆発後のような状態になっている人も居るくらいだ。

 シャンプーに使う石鹸は、水に溶けやすいカリウム石鹸が良いのだが、この国では作られていないんだろう。水酸化カリウム自体、無いのかもしれない。作れば売れるだろうが……水酸化カリウムなんて、どうやって作るんだ? 無理だな。


 サニアのリクエストに答えるなら、リンス的な物を作った方が早い。というか、それなら既にあるな。燃料用の油は、美容液としても使えるそうだ。意外と売れるかもしれない。


「すみません、石鹸は無理ですね。材料が違いますし、その材料も手に入らないと思います。代わりに、手入れ用の油を使えばいいんじゃないですか?」


「あ……アレね。あまり良くないのよねぇ。臭いが悪いし、ベトベトするし……」


 それ、ただの塗り過ぎなんじゃ……。まあ、臭いは良くないか。少量でもちょっと油臭い。これ、エッセンシャルオイルを混ぜたら解決できるな……。

 濃度には工夫が必要だろうが、何とかなりそうだ。今度製油工房に行ったら、提案してみよう。


「なるほど。おかげでいい案が浮かびました。ありがとうございます」


「え? 石鹸が作れるの?」


「いえ、手入れ用の油を改良します。完成したら、試してみてください」


「はい! ありがとう! じゃあ、期待して待っているわ」


 サニアが期待に満ちた表情で言う。そんなに期待されたら、正直困る。まだ上手くいくと分かったわけではないんだ。



 石鹸を洗い流し、蒸留器のもとに帰ってきた。蒸留はあと半分くらい。落ちる水を眺めて待つ。


 しばらく経ったが、手には異常が見られない。二の腕も正常だ。水酸化ナトリウムの量は適量だったようだ。これなら製品化しても問題無さそう。



 手の状態を確認しているうちに、蒸留の作業が終わった。溜まった蒸留水は、キレイに二層に別れている。


 上澄みがエッセンシャルオイルで、下が芳香蒸留水だ。石鹸に使うのは、この下の部分。基本はただの蒸留水なのだが、香りの成分が少しだけ含まれている。エッセンシャルオイルでは成分が強すぎて、肌に刺激を与える。それに、濃すぎて臭い。


 慎重にオイルと水を移し替え、ひとまず完成だ。次は芳香蒸留水で石鹸を……。そう考えていると、突然扉が開いた。


「失礼しま……臭っ! 何をしているんですか?」


 今日の売上を抱えたルーシアが、入ってくるなり顔を歪める。


「いえ、ちょっと……香り付きの石鹸を作ろうかと思いまして……」


「香りって……相当臭いですよ?」


 これでもラベンダーなんだけどなあ。俺はさほど臭いと思わないのだが、どうやら鼻が麻痺しているらしい。


「今は臭いですが、使う時は薄めます。それでちょうどよくなるんですよ」


「だからって、事務所でやらないでくださいよ……」


 はい。事務所でやっています。

 実験用の部屋を準備するつもりだったのだが、他にやることが重なって、準備できなかった。それに、店の空き部屋は換気ができる部屋では無いので、あまり使いたくない。


 カレルの工房の一室を借りるのが一番現実的だ。しかし、かなり遠い。結局、事務所が一番落ち着くという結論に至った。決して、移動するのが面倒だったわけではない。


「すみません。事務所が一番気軽に使えるんですよ」


「前回よりも酷いです。前回だって、臭いを取るのに、とても苦労したんですよ? もう……。今日の臭いは、もう取れないかもしれません」


 ルーシアは鼻をつまんだまま、うんざりした様子で言った。

 事務所の掃除は、サニアかルーシアの時間が空いた時にやっている。俺はノータッチだ。今回も、この臭いを取り除くのはサニアかルーシアの仕事になる。ちょっと申し訳ないな。


 本気で実験用の工房を探すか。明日あたり街を散策して、空き物件を探そう。芳香蒸留水での石鹸作りは、しばらくおあずけだ。

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