天国と地獄
今日は31日。月の最後の日だ。具体的に何の日かと言うと、給料日だ。従業員にとっては最高の1日だと思うのだが、経営者にとっては地獄の1日である。まとまった現金が一瞬で消える。
この国の価値観はどうか知らないが、日本では従業員に支払う給料は何よりも優先しなければならない。店に現金が無かったとしても、買掛の支払いに追われていたとしても、絶対に給料を支払わなければならない。
これは法律上のルールだからではなく、従業員からの信用を失わないためだ。一度でも給料が遅れると、優秀な従業員から順に去っていく。
この店は家族経営なので辞められるリスクは無いのだが、俺が持つ経営権を剥奪される危険性は残されている。そのため、全員の給料の支払いは、かなり重要だ。
俺が経営権を持った直後から、店が変わりすぎた。移転のいざこざがあったり、カフェスペースの設置があったり。そのせいで、利益が安定していない。
1日平均の売上高は約17万クラン。総計で500万クランくらいだ。粗利は約170万クランなのだが、研究費や設備費を使いすぎた。純利益は110万くらいしか残っていない。
この純利益から全員の給料を出すのだが、思ったよりも余っている気がする。
なぜこんなにも金が余るのか。よく考えたら、税金だ。累進課税ではなく、毎年決まった額を支払う。
畳半畳くらいが1単位になっていて、1単位あたり12000クランを支払う必要がある。今の店舗だと約320単位なので、384万クランほど支払う必要がある。
この金額は売上が少なくても変わらない。そのため、積み立てをしておかないと拙い。毎月32万クランは税金のために除けておこう。
いろいろと検討した結果、1人あたりの給料は8万クランになった。予定よりもやや少ない。
一人ずつ事務所に呼び出し、手渡ししていく。立場が上の人間から呼び出すのが通例なので、まずはウォルターからだ。
「おい。ちょっと少なくないか?」
給料を受け取ったウォルターは、あからさまに不満げな表情を浮かべて言う。
「そうですね……。移転したばかりで、客数が安定していないんですよ。暫くの間は少なくなると思ってください」
「そうか……。まあ、それは仕方がないか。ところで、店主仲間のところへ持っていく手土産なのだが、店から出してもらえんか?」
あ、遊ぶ金が必要なのか。確かに、手ぶらで仕事の邪魔をしに行くのは良くない。多少の交際費は認めないと、ウォルターの小遣いが無くなってしまうな。
「分かりました。来月から予算を取ります。すみませんが、今月は我慢してください」
「うむ……頼むぞ」
ウォルターは、不承不承ながらに頷いた。
さすがに際限なく使われるのは拙いので、予算は控えめに設定するつもりだ。足が出たら自腹を切ってもらう。
それともう1つ。ウォルターに確認しなければならないことがある。
「聞きたいんですが、税金の支払いは何月ですか?」
金額や、その他の細かいことは聞いたのだが、肝心の支払日を聞いていなかった。まだまだ先の話なのだが、積み立ての都合もある。早めに確認しておかないと、期限が近付いた時に詰む。
「1月から受け付けて、6月末が締め切りだ。それに間に合わないと延滞金が上乗せされる。12月までに支払わなければ、営業許可が取り消される。十分に注意しろ」
支払いの猶予は実質1年だが、7月以降になると余計な出費が増える。上半期のうちに支払わなければならない。
できれば、受け付けが開始される1月には納めたいところだ。次回の税金は旧店舗の面積で計算されるので、支払う額は約120万クラン。まだ半年近く残っている。今の調子なら、間に合いそうだな。
そういえば、カレルの工房の税金はどうしようかな……。金額は約40万クランだったはずだが、カレルには支払能力が無い。俺が出すしかないか。まあ、工房の所有者は俺だから、今は俺が支払うべきかな。
カーボン紙の売上が軌道に乗ったら、しっかりと請求しよう。
「ありがとうございます。では、引き続き来月も、よろしくお願いします」
「うむ。任せておけ。
ところで、リバーシなのだが……」
ウォルターが、突然深刻な表情を浮かべた。
「何か問題でもありました?」
「いや、再戦を申し込みたい。時間はあるか?」
それ、深刻な顔で言うことか? まあ、負けっぱなしでずいぶん悔しそうだったから、本人にとっては一大事なのだろう。
どこかの店で特訓してきたようだな。面白い。受けて立とうじゃないか……って、今日はまだ忙しいぞ。
「すみません。全員に給料をお渡ししなければなりませんので、今は無理です」
「そうか……。わかった。では、早めに終わらせろ……」
ウォルターは、寂しそうに背中を丸めて事務所から出ていった。思いの外、リバーシに熱中しているようだ。ウォルターが持ち歩いているリバーシは、高級品の高い方。宣伝にはなっているのだが、売上には繋がっていない。
これだけ熱中してくれるのなら、廉価版を渡して売り歩いてもらおうかな。来月からはそうしよう。
次はサニアだ。生活費も支給するので、サニアには16万クランを渡す。そのうち8万クランは食費などの生活費なのだが、節約してへそくりにするのは構わないと思っている。
「多すぎるわよ? 毎日、何を食べるつもり?」
サニアが困惑した様子で言う。
うーん……割り当ての設定を間違えたのかな。4人分の生活費として、8万クラン。普通だと思うんだけど……。
確か、食費で換算すると、1クランは約5円だったはず……あれ? これ、日本円に直したら約40万円じゃね? 多いわ! 大家族かよ。
ちなみに、食費は安いのだが、服などの生活必需品は高い。日本なら1000円で買えるような服が、1万クランで売っていたりする。服を基準に考えると、1クラン約0.1円くらいになる。
「余った分は貯金してください。毎月安定した収入があるとも限りませんから」
「そうね……。
ツカサくんが来る前はね。税金を支払ったら、しばらく生活も厳しくなっていたの。本当に助かっているわ」
ウォルターは必死で自転車を漕いでいたらしい。綱渡りな経営だ。恐ろしすぎて真似できない。真似をしたくはないけどね。
でも、俺が思い付く限り、金の使いみちは限られているんだよなあ。大した節約をしているわけじゃないのだが、余裕で税金を支払えるだけの利益が確保できている。
自転車操業になる理由が分からない。
「そうなんですか……。逆に、どこにお金が消えていたのかが気になりますよ」
「え? そんなこと、考えたことも無かったわね……。お客さんが増えたから、余裕があるんじゃないかしら」
「そうなんですかねえ? まあ、余裕があるのは良いことです。今後も無駄使いに注意しましょう」
絶対、客数だけの問題じゃないと思うんだけど、まあいいや。俺が気を付ければいいだけの話だ。
サニアの退室と同時に、ルーシアを呼び出す。4人とも同じ金額になるように設定したので、ルーシアの給料も8万クランだ。
「あの……こんなにいただいてもいいのですか?」
ルーシアは、戸惑いを隠しきれない様子だ。
「大丈夫ですよ。むしろ、今までいくらだったんです? 僕はこれでも少ないと思っているんですが……」
「えっ……と。言ってもいいんですかね? 2万クランから3万クランです」
少なっ! そんなの、食費だけで消えるんじゃないのか? いや、サニアが作ってくれるから、それは大丈夫か。でも、訓練所に10回通えば無くなってしまう。
おそらく、今までは見習いの扱いになっていたのだろう。ルーシアの歳なら無理もない。だが、俺はルーシアを売り場責任者だと考えている。それなりの報酬を与えないとフェアじゃない。
「なるほど……。ルーシアさんの働き次第で、これからもっと増えますよ。バリバリ働いてください」
「もちろんですっ!」
ルーシアは目を輝かせて元気に答えた。
ウォルターが経営していた頃、ルーシアの仕事は客の相手と品出しだけだった。コンビニのバイトみたいな仕事内容だ。
今はかなりの仕事を任せている。店舗の管理はもちろんのこと、帳簿や売上計算までだ。コンビニで言えば、店長のような役割になっている。忙しくなれば、もっと負担が増えるだろう。
「これからもお願いしますね」
「はいっ! こちらこそ、よろしくお願いします!」
ルーシアからは特に質問が飛んでこなかった。給料を抱えて、さっさと事務所から出ていった。
誰も居ない事務所で、1人大きなため息をつく。
「ふぅ……。終わった……」
地獄の1日が終わった。と言っても、まだ午前中なのだが。
給料日というのは、やはり緊張する。現金が足りなかったら、計算を間違えていたら、心配事は尽きない。
しかも、まだレベッカとカレルへの支払いが残っている。それに、ランプ職人への支払いもまだだ。現金には余裕があるのだが、まとまった額の支払いはやはり怖い。
支払いのために銀行へ行きたいのだが、それは明日だ。
この国では31日という日が特別で、ほとんどの店が休みになる。この日も働いているのは、警察と病院くらいのものだ。当然、銀行も営業していない。
外出しても意味がないので、大抵の人は家から出ないか、近所を散歩するくらい。
俺も特にやることも無いので、午後はウォルターの相手をする。どれだけ上達したか、楽しみだな。今日もフルボッコにしてやるぜ。





