番外編 カレルの返済日誌
ある日、お休みを使って買い物をしていると、ある男性に突然話し掛けられました。その人に騙され、大金を奪われることになりましたが……。
それが大きな転機となりました。偶然出会った店主さんに助けられ、そのまま工房を任されることに。私の人生において、もっとも重要な出来事でした。
工房主生活初日。私に与えられた家は、予想以上にボロボロでした。今にも潰れそうです。でも、文句は言えません。住まわせていただけるだけで感謝です。
私に任された仕事は、紙に色を塗って乾かすだけという簡単な作業です。
こんな仕事なら誰にでもできるはず……。そう思ったのも束の間。夕方には任された理由がわかりました。
とても汚れます。とんでもなく汚れます。ボロ屋をあてがわれたのも納得の汚れ具合でした。たった1日働いただけなのに、床、壁、天井、あちこちが真っ黒になりました。あまり汚すと怒られますよね……。
しばらくは順調に仕事をしていました。今日の天気は曇り。いつもよりも風が強いような気がします。こんな日は洗濯物を外に干せないので、少し憂鬱ですね。
部屋干しは、2階の空き部屋を利用しています。作業場がある1階で干すと、干している間に汚れてしまうんですよ……。
外は突風が吹いています……。この家はボロボロですから、少し心配です。突然パタンと倒れても不思議ではありません。ガタガタと鳴る音が、さらに不安を煽ります。ガタガタガタ……家が軋む音は絶えず鳴り続けます。早く洗濯物を干して1階に移動しましょう。
そう思った瞬間。突然、屋根が飛びました。魔法の絨毯のようにふわりと浮いた屋根は、するりと壁を伝って地面に落ちました……。頭上には灰色の空が広がっているのが見え、空を見上げると冷たい風が頰を殴ります。
「どうしましょう……」
しばらくあっけに取られていましたが、早く修理しないと大変です。雨が降ってきたら家の中は水浸し。その雨で紙が水に濡れたら、全部台無しになってしまいます。
慌てて外に出ました。屋根は家に寄り掛かったまま、風に当てられて小刻みに揺れています。これを直すには大金が掛かりそうです。またギンさんから借金ですかね……。
いえ、まだ望みはあります。幸いなことに、この屋根にはもともと瓦がありません。安物の屋根で助かりました。これなら自分でも直せます。屋根を乗せ直すだけです。決して軽いものではありませんが、なんとかなります。
以前、文献で読んだことがあるのですが、1人で重いものを持ち上げる時は滑車を使うといいそうです。複数個の滑車を組み合わせると、どんな重いものでも1人で釣り上げることができると聞きました。さっそく試してみましょう。
……屋根は直りましたが、今度は壁が壊れました。屋根が当たった衝撃で、壁の一部が剥がれたのです。一難去ってまた一難……。後日、粘土を塗って誤魔化しましょうか。
壁の補修は、そんな甘いものではありませんでした。崩れかけの壁は粘土の重みに耐えられず、壁一面が崩れて壁が無くなりました……。こうなっては直せません。本格的な修理が必要です。また借金が増えますよ……。
「経年劣化ですね。仕方がないですよ。気に病まないでください」
ツカサさんは優しく言ってくださいました。
「すみませんでした……。修理代はどうしましょう?」
「必要ありません」
え? いらない? 戸惑う私を他所に、ツカサさんは話を続けます。
「それよりも、これでは住めませんよね……」
もしかして、引っ越しの提案でしょうか。壊したのは私なのですから、そこまでしていただくのは拙いです。
「いえ、屋根はあるので、大丈夫です!」
私が力強く宣言したその時、またも強い風が私の家を襲い、屋根が落ちてきました。でも安心です。滑車は付けたままなので、すぐに直せます。そう思ったのですが……。
「引っ越しましょう。これから物件を見に行くつもりだったんですが、一緒に行きませんか?」
結局、私の引っ越しが決まりました。次の家はウォルター商店のすぐ近くなので、注文や納品がやりやすくなりました。これはとても嬉しいんですけど……新しい家がきれいすぎます!
ツカサさんは「安い」と言っていましたが、そんなに安い物件とは思えません。これから汚すと思うと、心が痛みます……。できるだけきれいに使いましょう。頑張ります。
新しい家に移ってからも、毎月ギンさんがいらっしゃいます。借金の取り立てのためです。
「よう。順調か?」
ギンさんは、爽やかな笑顔で言います。以前のギンさんは怖くて仕方がありませんでしたが、近頃のギンさんは優しくなりました。お金を返す相手には、紳士的なのでしょう。
「はい、順調ですよ。今月も多めに返済できそうです」
「またかよ……。繰り上げ返済は控えてくんない?」
ギンさんは苦笑いを浮かべて言いました。
「どうしてですか? 早く返ってきた方がいいんじゃないんですか?」
「それは金を返さねえ馬鹿の話だ。返してくれるやつには、長く借りてもらった方が得なんだよ。利息が入ってくるからな」
金貸しは慈善事業ではありません。利息を取らないとギンさんが生活できないので、大事なことなのでしょう。
「なるほど……。でも返しますよ。一刻も早く返したいんです」
「まぁ、受け取るけどよぉ……」
ギンさんは、とても嫌な顔をしながら受け取ってくれました。ギンさんにとっては返さない方がいいんでしょうけど、それでは私が損をします。利息は払いたくないんですよね。
このまま仕事を続ければ、1年も掛からず借金が返せそうです。それどころか、数年掛けて貯めた独立資金も、すぐに取り戻せるでしょう。
ツカサさんは言いました。騙し取られた金を取り返すよりも、もう一度稼ぐ方法を考えた方が早い、と……。それは本当でした。たまたま運が良かったとも思います。でも、従って良かった。
ツカサさんの働きぶりは、独立後の参考になります。次々と新商品を考えて、形にしていっています。噂では、また工房を増やしたそうです。
私にも真似できるでしょうか……。たぶん無理です。アイディアが浮かんできません。私が任された『カーボン紙』もそうです。もし思い付いたとしても、実行することはできないでしょう。
そんなツカサさんを見ていて、独立について甘く見すぎていたと気付かされました。店を構えることが目標になっていたようです。店を構えた後のことが考えられていません。どうやって売るか、どうやってお客さんを集めるか、大変なのは店を構えた後なのに……。
店主の仕事は、私が思っていたよりも大変で難しいです。見習い時代には思いもしませんでした。「店を開ければ人が来る」と、よく聞きますが、そんな簡単なものではないようです。
ある日、新商品の生産を打診されました。カーボン紙だけでは暇なので、とても嬉しい提案です。
ツカサさんから出された条件は、商品を汚さないこと。カーボン紙は確実に汚れるので、これだけは徹底しなければなりません。家の中をきれいにして、ツカサさんの来訪を待ちます。
やがて、ツカサさんがいらっしゃいました。
「先日のお話を覚えています? 新しい物を作ってもらう話なんですけど」
来ました! 新商品のお話です! 私から催促するわけにもいかないので、ずっと待っていたのです。
「もちろんですっ! きれいなお部屋は準備できましたよ!」
この注文を受けるために頑張りました。今なら、自信を持って「汚さない」と宣言できます。
でも、私には別の不安があります……。借金を返しきった時、私はどうなるんでしょう。それが心配でなりません。
私がここで働いているのは、借金返済のためです。すべてを返しきった時、私は追い出されるかもしれません。
追い出されたら、次は独立です。でも、私には才能が無いということが痛いほど分かりました。
独立した後は、すべて自分で考えて動かなければなりません。売上の予測や、仕入れの調整、商品の選別などなど……。私にできそうなことは、商品の選別だけです。それ以外は無理でしょう。そのことは、ツカサさんを見ていれば分かります。
不安を抱える中、新商品の説明が終わりました。すると、ツカサさんは私の近況について訊ねてきました。
「ところで、借金の返済は順調ですか?」
「はいっ! おかげさまで、来年には完済できそうです」
完済の目処が立ったのは、単純に嬉しいです。
ツカサさんが持ってきてくださる仕事のおかげで、前倒し返済を繰り返すだけの余裕があります。借金は、もう半分を切りました。でも……完済した後が怖いんですよね。
「思ったよりも早いですね。完済した後はどうするんですか? 店を持ちたいとおっしゃっていましたよね?」
恐れていた質問が来ました。この質問が怖くて、自分から借金の話をできなかったのです。
「それなんですけど……完済した後も、ここに居ていいですか?」
「もちろん構いません。僕としては助かります」
良かった……。ほっと胸を撫で下ろしました。
「ありがとうございます……」
「でも、どういった心境の変化ですか?」
ツカサさんは不思議そうに言いました。きっと、「自分がやっていることは誰にでもできることだ」と考えているのでしょう。無理ですって。私に店主は務まりません。
「資金もありませんし、この工房は自分の店みたいなものですから……」
この工房の運営は私に任されています。ツカサさんは『子会社』だとおっしゃいましたが、私の店と言っても過言ではないでしょう。
しかも、仕入れや受注、営業活動のような地味で大変な作業は、すべてウォルター商店さんがやってくれます。そして何より、従業員でも見習いでもないのに、この好待遇。もし独立してしまったら、また苦しい貧乏生活に逆戻りですよ……。
私は、この幸運にいつまでもしがみつきますよ。この幸運を手放さないために、結婚しても、子どもができても、ウォルター商店とツカサさんに尽くすつもりです。





