新人たち
印刷工房に行く前に、メイと話をしておかなければならない。最初に刷った50部は完売しているので、増刷した方がいいと思う。でも、本人の意思確認なしに進めることはできない。費用はメイが払うわけだしね。
増刷の意思を確認するため、陳列棚の整理をしているメイを呼び止めた。
「メイさん。勝負には勝ったようですね」
まずは雑談から。どうやらエマとの勝負に勝ったと思われるので、そのお祝いを言っておく。
「……何の話ですか?」
メイはキョトンとして聞き返した。
「エマさんとの勝負ですよ。忘れたんですか?」
「そういえば、そんなこともありましたね。私、勝ったんですか?」
エマはメイにも言ってなかったのかよ……。俺が勝手に言っても良かったのかな。まあいいか。
「すみません。僕もハッキリと聞いたわけではないので。興味があるなら、エマさんに聞いてみてください」
「わかりました。後で聞いてみますね」
「それはそうと、追加の印刷はどうします?」
「あっ! お願いしようと思っていたんです。今月の給料は要りませんから、全部印刷に使ってください!」
メイ、お前もか……。メイの給料は、見習いなのでかなり少ない。手取りで約3万クランだ。それでも35部くらいは印刷できる。
そしてメイの場合、衣食住に掛かる金の全てを店で負担するので、全額使い切ってもさほどダメージが無い。それに、初版の売上が25000クランくらい入っているはず。生活には困らないだろう。
「分かりました。追加の印刷を依頼してきますね」
エマから預かった小説を抱え、印刷工房にやってきた。中から騒々しい音が聞こえてくる。やはり、人が増えると賑やかになるなあ。
ノックをするが、反応がない。気付いていないのだろうか。そのまま扉を開け、中に入る。
中では、ロブがハンマーを握って木クズにまみれていた。印刷の工程って、そんなんだったっけ?
「おやっさん、ここはこんな感じでどうすか?」
ロブがウルリックに向かって言う。ロブが指差す方向には、四隅に木の棒を取り付けた大きな木の板がある。何だろう……。
「ああ、いいんじゃないか? って、その『おやっさん』っての、やめろよ。俺はまだお兄さんだぜ?」
「工房の親方なんすから、何歳でもおやっさんじゃないっすか」
ロブとウルリックは、仲良く会話をしながら何かを作っているようだ。ウルリックは、カウンターに向かって作業をしながら、ロブの作業を気にかけている。
「お疲れ様です。何をされているんです?」
「ああ、ツカサか。ロブが机を作るって言い出してよ。材料を買ってきて、作らせているんだ」
「へえ……上手なものですね」
なるほど。作業用のテーブルか。この工房には作業台や棚のようなものが何もないので、ずっと気になっていた。作業はカウンターテーブルだけで進められている。効率が悪いから、いずれどうにかしなければならなかったんだ。
ロブが気を使って作り始めたらしい。器用なもんだなあ。不格好だけど、ちゃんと机になっているみたいだ。
「そうっしょ? 俺、ガキの頃から木工職人の工房で遊んでたんすよ。だから、簡単な物なら作れるっす」
角材を切って平板に打ち付けただけの単純なテーブル。正直、誰にでも作れそうな物だ。しかし、実際に作ろうという行動力がいい。「簡単にできそう」と言いながら、全然やらないのが人間だからな。
「いいですね。助かりますよ。テーブル代が浮きました。後で材料費を支払いますよ」
「マジ!? 自腹だと思ってたっす」
ロブがそう言うと、ウルリックは呆れたような表情を見せた。
「お前のじゃないだろ。俺の自腹だ。でも、いいのか? ツカサ」
「机は近いうちに買おうと思っていましたからね。材料費だけで済んで、有り難いですよ」
「おおっ! 太っ腹! じゃあさ、棚も作っていいっすか?」
ロブは目を輝かせながら言う。何工房の見習いか分からないやつだな……。でも、助かったのは間違いない。
「もちろんです。材料費は支払いますから、できるだけ安く抑えてください」
「うっす! やったぜ!」
ただし、釘を差しておかないと拙い。ロブは調子に乗りやすいから、自分の金じゃなかったら何をするか予想できない。とんでもない高級素材を使いかねないんだよ。
「後で予算をお渡ししますから、そのお金で作ってください」
「あざーす!」
材料の相場は分かっているので、ロブにはギリッギリでカッツカツの金額を渡す。それよりも安く仕入れることができたら、残りはロブの小遣いだ。金が足りなくなったら追加で渡すけど、心理的に渡された金額でどうにかしようとするはずだからな。
テーブルを作っているというのは分かったが、先に一番の用事を済ませておこうかな。
「それはそうと、印刷の依頼なんですけど、いいですか?」
「おっ! 待ってたぜ。ちょうど暇になりそうだったんだ」
だろうなあ。もし忙しかったら、テーブルを作っている場合じゃないから。でもまあ、今回の依頼はウルリック1人でも対処できる量だ。テーブルと棚の作成を優先してもらおう。今後の作業効率が一気に上がるはず。
「今回は新しい小説が2冊、それと以前印刷した小説の増刷です。エマさんとメイさんの分ですね」
「了解。数は?」
「ちょっとややこしいので、紙に書きましょう」
エマの友人から預かった原稿は、ひとまず保留。後でエマから直接依頼が来るだろう。今メモに残すのは、エマとメイの分の内訳だ。
エマの予算で印刷できるのは、全部で185部。版組が2冊分掛かるのが痛い。版組が一冊分だけなら、200部以上作れるんだけどなあ。ともかく、このうちの150部を新作に当てて、35部を増刷する。
メイは新作を書いていないので、増刷分の35部だけだ。
「わかった。いいだろう。任せろ」
「では、お願いしますね」
メモと原稿を渡して依頼完了だ。
ウルリックは張り切った様子で受け取ると、困ったような顔で腕を組んで話を始める。
「ところで、ちょっと聞きたいんだけど。いいか?」
「なんでしょう……」
「俺の新作なんだけど、何部刷ればいいんだ?」
「え? 新作?」
俺は聞いていないぞ?
「なんだ、聞いてないのか。フランツの坊主に、見本誌を渡したんだけどなあ」
フランツのやつ、言い忘れているな……。たぶん小説に夢中になりすぎて、報告のことが頭から飛んでいったんだろう。これはオシオキが必要だな。
「発行部数は、フランツさんにお任せしましょう。本人に聞いてみてください」
どうせ売るのはフランツだ。責任は自分で取れよ、俺は一切手伝わないから。
まあ、今回任せて上手くいくようであれば、今後は全部フランツに決めさせる。俺の仕事が減るので、それはそれで好都合だ。オシオキのつもりではあるが、フランツの成長にもなって一石二鳥じゃないだろうか。
主な用事は終わったんだけど、もう一つの用事がまだだ。
ウルリックは印刷の作業中。ロブはフロアの真ん中でテーブルを作っている。だが、ライラが見当たらない。様子を見に来たわけだから、ライラにも会っておかないと拙い。
「ところで、ライラさんはどちらに?」
「部屋の掃除を頼んでいるよ。今の時間は便所掃除でもしてんじゃねえか?」
「了解です。そちらに行ってみましょう」
さっそくトイレに移動する。……トイレに近付くに従って、なんだか床が濡れているような気がする。
やがてトイレに到着すると、辺り一面水浸し。まるでゲリラ豪雨の後みたいだ。掃除中とはいえ、やりすぎじゃないかな……。こんなに水を撒かなくても、雑巾で拭くだけでいいと思うんだけど。
「ライラさん。お疲れ様です」
「あ、お疲れ様です」
俺が声を掛けると、ライラは俺に気付いて笑顔で答えた。自分の掃除方法には、疑問を持っていないようだ。
「大変そうですね……」
どういうわけか、天井から水が滴り落ちてきている。トイレの個室全体に、何度も水をかけたのだろうか。確かにキレイになるだろうけど……後が大変じゃない? 全部拭き取るの?
「いえいえ、お仕事ですから。でも私は掃除が得意じゃなくって……。ちょっと苦労しています」
うん。見れば分かる。苦手というレベルじゃない気がする。絶対に手間を掛けすぎだろ……。年一回の大掃除でも、ここまでのことはやらないと思うぞ。
それに、『掃除が苦手』なんじゃなくて、家事全般が苦手なんだろう。縫い物も得意ではなく、料理の腕は壊滅的だそうだ。以前、母親のパオラに聞いた。
ロブの方が掃除が上手なんじゃないかと思うけど、今はテーブルと棚作りに忙しいからなあ。今はライラに頑張ってもらうしか無いな。でも、いずれは役割を変えた方が良さそうだ。向いていないことをやらせても、効率が悪くなるだけだ。
「ライラさんは掃除を控えた方がいいかもしれませんね。代わりに帳簿を書いてみます? もし興味があれば、なんですけど」
いくら不器用でも、さすがに文字は書けるよな? フランツみたいな解読不能な文字じゃなければ、帳簿はライラに任せたい。
「あ……そっちの方が上手くできそうです」
「では、暇があったら店に顔を出してください。僕も教えられますけど、ルーシアさんとサニアさんに聞いてもいいですよ」
「わかりました! では、ルーシアさんに聞いてみます!」
ライラは力強く返事をした。この様子なら、なんとかなりそうかな。少なくとも、掃除をさせるよりはマシだろう。
しかしこの工房、特殊な人間を固めすぎたかな……。ウルリックはデリカシー皆無の無神経人間だし、ロブはただのアホ。一見まともなライラは、掃除すら怪しいほどの不器用だ。ついでに間が悪い。問題が起きる予感しかしないじゃないか。
まあ、特殊な人間ほど1つの技能に特化していることが多いから、上手くいくことを願うしかないな。3人で足りない部分を補い合えば、大丈夫だろう。





