不足
数日が経った。メイの小説は見本誌が完成し、そのまま量産されることになった。今日は仕上がった本を受け取りに行く日だ。いつもならフランツに任せるのだが、二度手間になるので今日は俺が受け取りに行く。受け取ったら、その足でエマの工房に届ける予定だ。
メイの小説を読んだルーシアは、たいそう気に入っている様子だった。エマの小説と比べて軽い内容だったので、そのためだろう。でも、やっぱりうちの店に置いても売れないだろうな。
印刷工房に入ると、中はずいぶんと散らかっていた。床には紙が散乱して、インクのしみがあちこちにある。掃除が苦手なのかな……。いや、単純に片付ける余裕がないだけか。
忙しすぎるという理由もあるが、ウルリックは足を怪我していて、杖無しでは歩けない状態だ。杖をつきながら床を掃除するのは、かなり大変だろう。
「おはようございます。体の具合はどうですか?」
椅子に座って作業をしているウルリックに、背後から声を掛けた。
「ああ、おはよう。悪くないな。もう杖無しで歩けるよ」
ウルリックは、そう言って立ち上がった。ようやく治ったようだ。
「痛みはないですか?」
「そんなことは気にしてもしょうがないだろ。痛いもんは痛い」
我慢しているだけかよ……。ウルリックの怪我は、俺が考えているよりも深刻だったのだろう。崖から落ちたらしいから、ただの骨折では済まなかったのかな。
「大丈夫なんですか?」
「普通に生活する分には困らねえよ。今の仕事だって、ほとんど座りっぱなしだからな。お前には助けられたよ、ほんと」
ウルリックは、椅子に座り直して笑顔を見せた。
「いえいえ、僕も助かっていますよ。ウルリックさんが居なければ、小説を売ろうなんて発想には至りませんでした」
正直、広告以外の印刷は面倒だから、やりたくなかった。自分が書けないというのも理由の1つだが、メイの原稿のような誤字脱字だらけの原稿を印刷するには、俺の語彙力では足りない。
日常会話には不自由していないが、専門用語やスラングが出てくると、まだ若干の不安が残る。その状態で誤字脱字を直して版を作るなんて不可能だ。
印刷にかかる面倒で難しい作業を引き受けてくれたので、ウルリックには感謝している。
「ははは。それは俺も同じだ。こんな機会がなければ、自分の小説を売ろうだなんて思わなかったぜ」
ウルリックは愉快そうに笑い声を上げながら言う。
ウルリックの小説は、いまのところ順調に売れている。常連のおっさんたちも買ってくれたが、ウォルターの友人たちにも売れた。実はフランツもかなり頑張っていて、店の前を通りかかった剣闘士連中にも声を掛けている。
そのおかげで、印刷しすぎと思われた500部は、もうすぐ無くなりそうだ。ウルリックの収入もかなり増えただろう。それに伴い、うちの売上も増えた。
ただし、小説のせいで印刷工房の収益モデルは滅茶苦茶だ。行きあたりばったりなので仕方がないのだが……。
ウルリックの小説は、印刷費用をうちの店が負担して収益はウルリックと折半。メイとエマの小説は、印刷費用が向こう持ちで収益は向こうのもの。いずれ統一しないと面倒なことになりそうだなあ。
いっそ印刷工房を分けるか? 印刷機は2台あるので、それも可能だ。2台目の印刷機が完成したら、その時に改めて考えよう。
「じゃ、これが嬢ちゃんの小説だ。よく分からん内容だが、面白いか? これ」
ウルリックは紙の束を俺に押し付けると、怪訝そうな表情を浮かべた。
「女性向けですからね。男の僕たちでは理解できない面白さがあるんですよ」
「まあ、そんなもんかあ……。まあいいや。用はこれだけか?」
用は……忘れるところだった。見習いを入れることを報告しておかなければ。
「すみません、もう1つ。ここの従業員を増やそうと考えています。もうすぐ見習いが来ると思いますので、教育をお任せしてもいいですか?」
「おお、そりゃ助かるよ。できるだけ早く寄越してくれ。今は掃除もままならねえんだ」
見れば分かるよ。作業場がこの有様ということは、自分の部屋はもっと酷いんだろうな。
しかし、見習いが1人増えたところで、解決するのかなあ……。もっとたくさん入れた方が良さそうだぞ。印刷機が増えたら作業量が増える。結局ウルリックも忙しいままになるんじゃないだろうか。できれば追加でもう1人欲しい。
「了解です。急ぎましょう」
少し考えて返事をすると、ウルリックは間髪入れずに次の要望を告げる。
「それと、文字が全然足んねえよ。今の10倍は必要だぞ」
おう……それを言われるか。活字が足りないのは分かっている。分かっているんだけど、高いんだよ……。
先日追加発注しておいたので、近々届くとは思う。だが、その数は前回と同量だ。これだけでも工房が買えるだけの金額が掛かっている。
「そちらは注文済みですが、一度に10倍は無理です。物凄く高いんですよ」
「そうなのか? こんなちっぽけな鉄の塊なのに?」
ウルリックは意外そうな顔を見せた。活字は一見ただの小さな金属片だから、安いと思うのも仕方がないか。
「よく見てください。とても精巧に作られているでしょう? それに、材質もただの鉄ではありません」
「高ぇのは分かったからよぉ、よく使う文字だけでも増やしてくれよ」
あ……よく考えたら、馬鹿正直に全部増やす必要は無いじゃないか。頻出する文字は決まっている。まずは母音字。アルファベットで言うならAIUEOのような文字だ。これを大量に準備するだけでも全然違う。
それに子音字の中には、アルファベットのQやZのようにほとんど使われない文字もある。俺には判断できないから、ウルリックの感覚に任せるしかないな。
「そうですね。では、ウルリックさんの判断で、よく使う文字だけをピックアップしてください」
「了解だ。後で資料にして、フランツの坊主に渡しておくよ」
活字の問題はひとまず解決。耐久テストも兼ねての運用だったのだが、まさかそのまま本運用になってしまうとは……。
だが、今のところは摩耗や変質などの問題が発生していない。最低限の耐久性はあるらしい。まあ、ダメでもこのまま運用するしかないんだけどね。
気を取り直してエマの工房に向かう。メイの小説を持っているのだが、薄い本が50部なので、大した重さではない。
「エマさん、おはようございます」
「あ、おはようございます。どうしたんですか?」
「メイさんの小説が仕上がったので、お届けに来ました」
俺がそう言うと、エマは嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あっ! 待ってたんですよぉ! 私の小説と同時に売らないと、フェアじゃないですから!」
そう言えば、エマとメイは勝負をすることになっているんだったな。結局どういう話し合いが行われたかを聞いていないが、2人は売上で競うらしい。
勝負と言うからには、条件を合わせなければならない。客に同時に見せて、欲しいと思った方を買ってもらうつもりなのだろう。
「そうでしたか。お待たせしてすみません」
メイの原稿がキレイなら、もう少し早く仕上がったと思うんだけどね。
「いえいえ、大丈夫ですよ。それよりも、いくらで売ったらいいですかね?」
エマはそう言って、困ったような表情を見せる。しかし、俺はこの小説の販売には関わらない。エマが勝手に売るというのだから、自由にしたらいいじゃないか。
「それはお任せしますよ。印刷費用を考えて、損が出ない額に設定してください」
紙代と印刷手数料で、1部あたり200クランくらい掛かっている。
「え……そんなことを言われても、難しいですよ。考えたこともないですから……」
エマは商人として修業したわけではない。いきなり売値を付けろと言われても、確かに難しいかもしれないな。
「僕だったら、500クランで売りますかね。半分売れたら余裕で黒字になります」
官能小説は1000クランで売っているが、これは売り方を変えた方がいいような気がする。需要が分からない商品なので、値段で興味を惹きたい。
「え……? 安すぎないですか?」
はっきり言って安すぎだ。この国の本は手間が半端じゃないし、紙も高い。最低でも1冊1万クランはする。
でも、今回使った紙は市価の9割引くらいで買っているので、かなり安上がりだった。
「今回だけですよ。次回作も出す予定なんでしょう? ですから、次回からは値上げするんです」
最初の1巻だけ大幅に値下げするという手法は、日本でもよく使われている。まずは興味を持ってもらいたい、そのための手段として安すぎる価格を提示するんだ。
続き物の場合、1巻を読んだら次が読みたくなる。せっかく安く作ることができたのだから、試さない手はないだろう。
「なるほど……。分かりました。その値段で話をしてみます」
「安くできるのは今だけですけどね。安く仕入れることができた紙が無くなったら、一気に値段が跳ね上がります」
「そうですよね……」
エマは表情を暗くするが、次回作は値上げしても大丈夫。小説が話題になれば勝ちだ。それに今回の小説だって、重版して値上げしたとしても、話題になっていれば売れると思う。
「まあ、今回は試しに安く売ってみてください。『初版限定の値段だ』と言えば、売りやすいでしょう?」
「そうですね。ありがとうございます。頑張ってみます」
エマへの配達はこれで終わりだ。軽く挨拶をして、工房を出た。
今日は特に予定を立てていないので、久しぶりにイヴァンの工房に行ってみようかな。
毎月定期的に行っている抜き打ち視察だが、先月はたまたまカレルとエマのところに用事があったので、視察をする必要がなくなった。そのため、イヴァンの工房だけは視察できていないんだ。
問題が起きたら報告が来るとは思うんだけど、「ちゃんと見てるよ」というアピールのために、定期的に顔を出さなければならない。これも経営者の仕事の1つだ。せっかく近くを歩いているのだから、寄ってみよう。





