増殖
今日の午前中はルーシアと長話をして出発が遅れた上に、美容液の配達もあった。そのため、帰りが遅くなってしまった。
店に着いた頃には食事の時間が終わり、ルーシアが洗い物をしていた。余計な手間を掛けさせて悪いとは思いつつ、夕食の準備をしてもらって1人で食事をした。
食事を終えた頃、2階からドタバタと物音が聞こえてきた。騒々しい音はどんどん近付いてきて、階段を駆け下りる音が聞こえる。
音の主はメイだ。紙の束を抱えて、大慌てで俺の近くに駆け寄ってきた。
「できました! 最初に読んでいただけませんか?」
メイは自信満々にそう言うと、紙の束を俺に差し出した。小説が書き上がったようだ。
しかし、メイには恥ずかしいという感覚が無いのかな。エマは誰にも見せたくないみたいだったんだけど……。人それぞれだなあ。
「僕は構いませんけど……逆にいいんですか?」
「はいっ! 自信作ですっ! 絶対に面白いですよ!」
えっと……メイが書いているのは、エマと同じように男同士の恋愛物語だよな? 俺が読んで楽しめるとは思えないんだけど……。まあいいか。
初めて見る手書きの原稿……。打ち消し線があちこちに入っていて、どこをどう修正したのかよく分からない。誤字と脱字もそこら中にある。ウルリックは、この状態の原稿から版を作るのか。大変な作業だな……。
心配そうなメイに見つめられる中、気合で読み進める。
1ページ目に目を通した段階で、予想通りの内容であることが分かった。エマと違うのは、スパイス程度の女性が出てくることだろうか。エマの小説ほどエグい内容ではないので、まだ少し読みやすい。『仲が良すぎるお友達』といった関係性だ。
ストーリーには大きな盛り上がりがなく、所謂『日常系』の構成になっている。これ、この国の一般人に受けるのかな……。まあ、エマの小説よりはマシか。
一通り目を通したところで、メイが俺の顔を覗き込んできた。
「どうですか? どうですか? 面白いですよね?」
「まあ、そうですね。好きな人は好きそうな話でした」
面白いかどうかは別として。
エマよりマシと言っても、やはり俺には理解できない世界だ。そして日常系の話なので、ここでも好き嫌いが分かれる。俺は楽しめたけど、自信を持って他人にお薦めしにくい内容だった。
でも、売れなくはないだろう。『エマの小説では重すぎる』という人には、メイの小説がちょうどいい。
「え……? 面白くなかったですか?」
「そんなことはありませんよ。僕は面白いと思います」
「やったっ! どんなところが面白いと思いました?」
そこ突っ込んでくる? 正直困るんだけど。そこまでのめり込んで読んでいたわけじゃないから、どこがと聞かれても答えられないぞ……。
返答できずに眉間にシワを寄せていると、ルーシアが笑顔で近付いてきた。
「メイさん、ツカサさんを困らせないのっ」
助かった……。このまま適当に誤魔化して切り抜けよう。
「なんというか、平和な物語ですね。いいと思います。原稿をフランツさんにお渡ししてください」
「ええ……? もっと詳しく……」
「メイさんっ!」
ルーシアは、笑顔のまま大きな声を出した。まるで笑いながら怒る人だ。怖い……。
「……ごめんなさい。では、フランツくんに渡してきます……」
メイはそう言って、しょんぼりと肩を落とした。少し気まずくなってしまったな。話題を変えよう。
「ところで、こういう話って、どうやって考えるんですか?」
ウルリックやエマもそうだが、よく書けるなと思う。その書き方に、少し興味がある。
「え? ただの想像ですよ?」
メイはさも当然かのように答えた。登場人物やストーリーの展開は、全てフィクションらしい。普段からそんな妄想ばかりをしているのだろうか。
もし俺が書くことになったら、きっとモデルを想定すると思う。具体的な誰かを主人公に見立てて、実際にあったことを織り込んでいくだろう。あ、これは小説じゃなくて伝記の書き方だな。
小説なら、実体験を元にしていても、上手くフィクションを織り交ぜて話を作らなければならない。俺には無理そうだ……。まあ、書く気は無いからいいんだけど。
「なるほど。特にモデルが居たりするわけじゃないんですね」
「あ……考えたこともなかったですね……」
メイは何かに気付いたかのように、ハッとした表情を見せた。
ん? もしかして俺、余計なことを言ったか? 今は完全なフィクションだからなんとか読めるけど、身近な人をモデルにされるとなあ……。本人の顔がチラついて、さすがに読めない。
「今の質問は忘れてください。今後も、登場人物は全て架空の人物で統一してくださいね」
「え? あ、はい。分かりました」
ふう……。これで身近な人を題材にするようなことは無いだろう。フランツやウォルターが登場人物になっていたら、きっと気持ち悪くて読めないからなあ。
メイは自室に戻ったので、俺も席を立つ。すると、今度はウォルターが食堂に現れた。
「ツカサよ。少し良いか?」
何やら用があるらしいので、椅子に座り直す。
「何でしょう」
「いや、ここでは話せぬ。事務所に行こう」
どうやら聞かれたくない話らしい。立ち上がって事務所に移動する。
真っ暗な事務所に明かりを灯し、椅子に座って話を始めた。
「それで、何の用ですか?」
「……その、例の小説なのだが……」
ウォルターは、そう言って言葉を詰まらせた。
「追加注文ですか?」
「いや、違うのだ。私の友人の話なのだが……」
なかなか話が進まない。言いたいことがあるなら、ハッキリと言ってくれないかな。
「ご友人の方がどうされました?」
「いや、ちょっとな。友人が『自分も書きたい』と言い出したのだよ。どうしたらいい?」
俺に聞かれてもなあ……。
「いいんじゃないですか?」
としか言えないよ。面白ければ印刷して売るし、つまらなかったら原稿をお返しする。それだけだ。
「そうか……。では、紙に書いて渡せば良いのだな」
「そうですね。フランツさんにお渡ししてください」
「いや……その、ツカサが受け取ってくれないか」
ウォルターは、バツの悪い顔で言う。
フランツには関わらせたくないようだ。教育に悪い? いやいや、そんなものは今更だろう。ウルリックの小説は、フランツも読んでいる。
まさかとは思うけど、ウォルターが書くわけじゃないよな……? 深く聞かないでおこう。世の中には知らなくてもいいこともあるんだ……。
「では、ウルリックさんに直接渡してください。話は通しておきます」
「うむ、助かる。そうさせてもらうよ。くれぐれも、他言無用で頼む……」
ウォルターは余程見られたくないのか、深々と頭を下げた。どんな内容なんだろう……。逆に気になる。まあ、俺は読んでもいいみたいだから、見本誌ができたら読ませてもらおう。
よく分からないうちに、本を出したいという人間が増えた。広告の印刷もお願いしているので、ウルリックは働きっぱなしになるだろう。人手が足りない……。
従業員を増やすべきなんだけど、どうしようかな……。
「ウォルターさん。申し訳ありませんけど、ご友人の息子さんに働き口を探している方は居ませんか?」
「ん? なんだ、突然。また従業員を増やすつもりか?」
「いえ、今回は印刷工房です。今後のことを考えると、ウルリックさん1人では回らなくなります」
エマは続編を書いていて、ウルリックも次回作をせがまれている。メイやウォルターの友人からも印刷の注文が入り、俺は広告の印刷を注文している。現時点でかなり忙しいだろうが、今後はもっと忙しくなるはずだ。
当初、印刷工房がこんなに忙しくなるとは、全く想定していなかった。俺が注文する広告と、店が注文する印刷物、あとは俺の伝手で広告を印刷する程度だと考えていた。その程度の仕事量なら、1人でも十分回る。
予定外だったのが小説の印刷だ。周囲の反応を見る限り、もっと増えると予想できる。今まで趣味で書いていた連中が、こぞって印刷を依頼してくるだろう。
「なるほど……。誰でも良いのであれば、1人はおるぞ」
俺が従業員に求めるものは結構多い。威圧感を与えない外見と最低限の礼儀、丁寧な言葉遣い、その上で真面目で信用できる人という条件を付けている。客前に立つ仕事なので、言動で人に不安感や不快感を与える人間はアウトだ。
だが、今回の採用条件はいつもよりも緩い。裏方作業なので、見た目は全く気にしない。言葉遣いが崩壊していてもいいし、礼儀が滅茶苦茶でも大丈夫。真面目で勤勉で素直であれば、どんな無礼者でも構わない。
いや、多少無礼者の方が、ウルリックと気が合うかもしれないな。ウルリックもかなりの無礼者だ。あいつはデリカシーをどこかに置き忘れてきたような奴だからな。
「信用できれば大丈夫です。どんな方ですか?」
「信用か……。親は信用できるが、本人はどうだろうなあ。まだ学生の12歳だが、とにかく勉強したくないと言っておる。すぐにでも働きたいそうだ」
ああ、ちょっと心配だな。あまり真面目そうには聞こえない。働きたいという意志が、本物ならいいんだけどなあ……。
でも、印刷工房なら大丈夫か。重要な版組の作業はウルリックがやればいいから、従業員の仕事は単純作業だ。言い方は悪いが、誰にでもできる。
機密情報を扱うわけでもないし、印刷機の存在は隠すつもりがない。変な奴だったとしても、大きなダメージにはならないだろう。それに、いざとなったら親に責任を取らせればいい。とりあえず仮採用かな。
「分かりました。ひとまず採用してみますか。本人と親の了承が得られたら、ウルリックさんの工房で働いてもらいましょう」
「うむ。では、明日にでも話をしてみる」
足りない人手は補充できそうだ。
印刷工房の問題は、これで解決できたかな……いや、まだだ。活字が圧倒的に足りていない。早く追加発注しないと、ウルリックの負担が増える。気が進まないなあ……。高いから。





