腐ったミカン
石鹸工房に行っているうちに、店を閉める時間になっていた。店の中では閉店の作業が進められているだろう。
そう思ったのだが、店の扉を開けると、ルーシアがカフェスペースの椅子に座り、紙の束をパラパラとめくっていた。
……あれ、エマの小説だよな……?
またフランツがやらかしたのだろう。そのフランツは、カウンターの奥でバツが悪そうな顔をして突っ立っている。
「あ、ルーシア。おつかれ。何読んでるの?」
エマはまだ気付いていないようだ。笑顔でルーシアに歩み寄り、手元の小説を覗き込んだ。すると、みるみるうちに顔色が変わっていく……。
「ルーシア! やめて! 読まないでっ!」
エマが目に涙を浮かべて叫ぶ。耳元で叫ばれたルーシアは一瞬ビクッとしたが、そっと顔を上げて優しく微笑んだ。
「あ……これ、やっぱりエマが書いたのね」
「違うの! 読んでほしくなかったの!」
エマはルーシアに向かって言うと、ルーシアは怪訝な表情を浮かべて質問を返す。
「え? エマが書いたんじゃないの?」
「それはそうなんだけど……フランツくん! どうして見せちゃったの!」
フランツは慌てて顔の前で手を合わせ、勢いよく頭を下げた。
「ごめん! 姉さんが勝手に読んじゃった!」
「誰にも見せないでって言ったじゃない!」
「だから、ごめんって! でも、エマ姉が叫ばなければバレなかったんじゃないの?」
「そういう問題じゃない!」
現時点で、小説を書いているのはウルリックとエマだけだ。官能小説でないとすれば、その小説はエマが書いたものであることはすぐに分かる。
フランツ……迂闊すぎない?
「フランツさん。どうしてそんなにすぐバレるんですか……」
毎度のことながら、フランツは脇が甘すぎる。
「だって、姉さんが勝手に持ってっちゃったんですもん」
フランツは、そう言って眉間にシワを寄せた。まるでルーシアが悪いと言っているかのようだ。
「ルーシアさん、本当ですか?」
俺がそう言うと、ルーシアは小説をテーブルの上に置いて困ったような表情を浮かべた。
「休憩室に置きっぱなしになっていたんです。あの変な本じゃなかったので、中が気になって……」
ルーシアは活字中毒なのか? 本があったら読まないと気が済まない的な。
まあとにかく、休憩室なんて目立つところに放置する方が悪い。
「フランツさん、どうして片付けないんですか。せめて倉庫に持ち込めば、ルーシアさんの目に触れることなんて無かったんじゃないですか?」
「あ……えっと……後で片付けようと思って……」
忘れていた、と。すぐに仕舞えよ。
呆れ顔でフランツを眺めていると、ルーシアが申し訳無さそうに口を開く。
「ねえ、エマ。面白かったわよ? 何が気に入らないの?」
「……本当に?」
「うん、本当。でも、どうして男同士なの?」
「え……」
エマは返答に困っている。ルーシアには理解できなかったらしい。でもたぶん、それが一番重要な要素だと思うよ。
「普通に男女の恋でいいじゃない。それならもっと面白くなると思うわよ?」
「……それじゃダメなの……。もう! だから見せたくなかったんだから! ね! フランツくん!」
エマは今にも泣き出しそうな顔で、フランツに怒鳴った。
「ほんとにごめん! 勝手に読むなんて思わなかったから……」
うぅん……フランツに見本誌を任せたのは俺だ。なんだか責任の一端が、俺にもあるような気がしてきたぞ。とりあえずフォローしておこう。
「まあまあ、エマさん。ルーシアさんの趣味ではなかったということで、いいじゃないですか」
俺がそう言うと、エマの意識は俺に向いた。フランツは、そのスキを突いて休憩室に逃げ込んだ。「責任持ってこの場に残れ」と言いたいところだが、あまりにも居心地が悪かったのだろう。エマが落ち着くまでは避難することを許可する。
「うぅ……恥ずかしい……」
エマがもじもじと手を動かしながら言うと、ルーシアはエマを励ますようにエマの背中に手を添えた。
「でも、いい話よ? この幼馴染が女の子だと思ったら、すっごく面白いの」
それは俺も思う。どうしてスタンダードな書き方をしないのかなあ。まあでも、それがエマの個性なんだろう。
「……男女の恋なんて、巷に溢れているじゃない。それじゃダメなの」
エマはあくまでも男同士に拘りたいらしい。この件に対して、俺はもう興味を失っている。需要があるということは分かったので、あとは好きに書いてもらって構わない。まあ、後で確認することはあるんだけどね。
「それはそうと、閉店作業はいいんですか?」
「あ、そうでした。メイさんに任せっきりでしたね」
ルーシアは、そう言って周囲を見渡した。メイを探しているのだろう。その動作に合わせ、俺も周囲を見回してメイを探す。
メイが妙に静かだと思ったら、カフェスペースの奥の席にちょこんと座っていた。顔を真っ赤にしながらエマの小説に集中している。その姿を見たエマが、叫び声を上げた。
「どうして読むのっ!」
「……え? 何がですか……?」
メイは怪訝な表情を浮かべて顔を上げ、こともなげに呟いた。
「読まないでって言ったのに……」
「ごめんなさい……。面白かったので、つい……」
メイは椅子に座ったまま頭を下げる。だが、手に持った小説は手放そうとしない。最後まで読むつもりなのだろう。
「本当に……?」
「はい。面白かったです。でも、この2人は逆だと思います。主人公がグイグイ行くのは違うと思うんです」
メイは登場人物の2人を指さして言う。すると、エマは眉毛を釣り上げて怒りを顕にした。
「違わないっ! 弱気な人がグイグイ行くからいいんじゃない! ギャップよ!」
「でも、この主人公なら強引に押されて押し切られた方が……」
「良くない! そんなんじゃ、他の男に言い寄られたらそっちに行っちゃうじゃない!」
物凄くどうでもいい言い争いをしている……。そんなの、どっちでもいいじゃん。
「そんなことはどうでも良いですから、落ち着いてくだ」
「良くないです!」
エマとメイの叫び声が、同時に俺の言葉を遮った。2人にとっては一大事だったらしい。よく分からない世界だ……。邪魔しない方がいいのかな。
とりあえず、フランツがやらかしたことについては有耶無耶になった。それだけでいい。大声で議論を続ける2人を放置して、こっちは勝手に話を進めよう。
「ところでルーシアさん。ちょっと聞きたいんですけど……」
ずっと気になっていたことを聞く。これを確認するまでは、安心してエマの小説を売ることができない。
「なんでしょう?」
「あの本は大丈夫なんですかね……」
「何がですか?」
「宗教的に、です。同性愛を禁止する宗教は、結構多いと聞いたことがあるんですよ」
同性愛については、過去にさまざまな宗教で迫害されてきた。この国の主流の宗教でも禁止されている場合、エマの小説はおおっぴらに売ることができない。コソコソと売る必要がある。印刷もそうだ。コソコソと隠れるように印刷しなければならない。
「あ……他所の国だと危ないかもしれませんね。でも、この国は大丈夫ですよ」
「そうなんですか?」
「はい。儲けになりそうなことなら、禁止になることはありません。この国の教えだと、お金になれば何でもアリなんですよね……。それはそれでどうかと思うんですけど、信じている人は多いみたいです」
ルーシアは困ったような表情を見せた。
拝金主義とでも言うのかな。この国には妙に詐欺師の技術が発達しているような気がしていたが、この宗教の影響かもしれない。良く言えば自由だが、何をしても咎められないのは拙い。まあ、それでもガチガチに縛られる宗教よりはマシか。
「ルーシアさんはどうなんですか?」
「私は……あまり熱心ではないですね。そもそも、この街の人たちは熱心ではありません。コンシーリオよりも西に行くと、かなり盛んですよ」
「なるほど……。とにかく、エマさんの小説に問題が無いことが分かって、安心しました」
こっちの心配も杞憂に終わった。心置きなく売ることができるぞ。
「だったら私が書きます!」
突然メイの叫び声が轟き、俺とルーシアの会話を遮った。ルーシアと話をしている間に、メイとエマの議論はさらに激しくなっていたようだ。
「最初っからそう言いなさいよ!」
「ツカサさん! 私も書きますから、紙を売ってください!」
メイは興奮して語気を強めた。
えっと……どういう経緯でそうなったのかな?
「いきなりどうしたんです?」
「エマさんのお話に、どうしても納得できなかったんです……」
どういうことなの? 何の説明にもなってないんだけど……。まあ、書きたいというのは分かった。問題は、どうやって売るかだ。
「せっかく書いても、この店では売れません。メイさん個人の力で売れます?」
俺がそう言うと、エマは自分の胸をポンと叩きながら口を開いた。
「あ、それなら大丈夫です。私が自分の本と一緒に売ります。メイの本と比べてもらって、2人で勝負します!」
何がどうなって、そういう話に行き着いたんだろう……。気にはなるが、売るのは問題ないみたいだから書かせておこう。どう転んでも俺の損にはならない。
「なるほど。それなら大丈夫そうですね。伝票用の紙でしたら、自由に使っていいですよ。使った枚数はメモしておいてください」
「ありがとうございます……」
メイは神妙な面持ちで頭を下げた。
よく分からないうちに、書き手が1人増えたぞ。本当に売れるのかは分からないが、とりあえず印刷してみようと思う。
ただ、どれだけ売れるかは未知数だ。官能小説は男全員が対象になるが、エマやメイの小説は読み手が限られている。ルーシアの反応はイマイチだったし、メイみたいに激しく反発する人が他にも居るかもしれない。官能小説と違って、ずいぶんハイリスクだな……。
いや、普通の小説を書いてくれよ! 誰か! 頼むから!





