腐敗臭
マルコ対ドミニクの試合が終わった後、換金を済ませて場内を散策した。外から見た時は結構狭いと思ったのだが、中を歩くと意外と広く感じる。
一回りした頃には、もう昼過ぎになっていた。仕事をするにも遊びに行くにも中途半端な時間だ。しばらく街をブラブラして、いつもより少し早い時間に店に帰った。
印刷工房の前を通りかかった時、フランツが印刷工房の中から出てきた。工房の前の道路で立ち止まると、フランツがこちらに気付いた。
「あ、ツカサ兄さん。ちょうど良かった」
フランツはそう言いながら、小走りで駆け寄ってきた。
「ちょっと待ってください。そのむず痒くなる呼び方は何ですか?」
「あ……姉さんがそう呼べって……」
俺が知らないところで、勝手に呼び名を変えられていたらしい。だいぶ気持ち悪いんだけど、戻させたらフランツが怒られそうだな。可哀想だから受け入れてやろう。
「なるほど……。まあいいですけど。何の用ですか?」
「エマ姉の小説です。見本誌ができたので、ウルリックさんから受け取ってきました」
フランツは、そう言って手元の紙の束を胸の高さに上げた。
「あ、もうできたんですね。どんな話でした?」
この本は、本人の希望によりエマの給料の一部を使って印刷する。部数は50部くらいになるだろう。売れなくても損は無いが、手間が掛かっている。できれば全部売り捌きたい。
「俺は読んでないんです。エマ姉に止められてて……」
エマは他人に読ませたくないらしい。ウルリックなら読んでいるはずだが、あいつに聞くくらいなら自分で読んだ方が早いな。
「では、とりあえず預かっておきましょう」
フランツから見本誌を受け取り、店に向かって歩く。
店の扉を開け、中に入る。
いつものように常連客が数人、カフェスペースでくつろいでいる。いつ仕事をしているのか分からない、謎のおっさんたちだ。金を落としてくれる大事な客なので、仕事について詮索したことは無い。このおっさんたちの金の出処は、永遠に謎のままだ。
おっさんが手を挙げて挨拶をするので、俺も手を挙げて応える。そのまま店の奥に足を進めると、ルーシアに呼び止められた。
「あ、お帰りなさい。闘技場はどうでした?」
「思っていたよりも楽しかったですよ。ドミニクさんの意外な一面が見られました」
「え……? どういうことです?」
ルーシアは、不思議そうな顔を俺に向けた。
「僕はもう見たくないですけど、愉快なパフォーマンスをしていましたよ。ここに来るときとは、ずいぶんと印象が違いました」
あ……愉快ではないか。とても不愉快なパフォーマンスだったわ。でも、印象が違うのは本当だ。悪い意味で。
普段のドミニクは愉快な守銭奴だが、競技場でのドミニクは不愉快なナルシストだ。実力は本物みたいだが、男からの人気はどこかに投げ捨てたのだろう。男からの人気は諦めているとしか思えない。
「そんなことを言われると、余計に気になります……」
ルーシアは、そう言いながら上目遣いで俺の目の前に立った。
「まあ、気が向いたら行ってみてください。人気があるというのは本当でしたよ」
「えっと……1人では怖いので、連れて行ってください……」
ルーシアは、目を潤ませて言う。闘技場は嫌いなんじゃなかったのか?
まあ、連れて行くのは吝かでもないんだけど、俺は本当に二度と見たくないんだよなあ……。
「分かりました。では、今度一緒に行きましょうか」
ドミニクじゃなければ大丈夫。他の誰かの試合なら、普通に楽しんで観戦できる。ドミニクの試合を楽しみにしているルーシアには悪いが、ドミニクの試合が無い日に行くよ。
「ありがとうございます。ところで、それはなんですか?」
ルーシアは、俺が持っているエマの小説に興味を示した。エマの小説だということは伏せた方がいいのかな。「読むな」って言っていたみたいだし。
「ウルリックさんから預かった見本誌です」
「あ……あの変な本でしたか。どうぞ、ごゆっくり……」
ルーシアは、微妙な表情を浮かべて後退りした。どうやら官能小説だと勘違いしたらしい。でも、後退りするのはどうなんだろう。
ウルリックの小説は、そんな不潔なものじゃないよ? 不純かもしれないけど。
事務所に入ると、椅子に座って見本誌をパラパラとめくった。
内容を把握したいだけなので、全部を読む必要はない。冒頭だけだ。雰囲気と方向性だけ分かればいい。
内容は、爽やかな青春から始まる恋愛ストーリーだった。幼馴染同士の恋愛というオーソドックスな話だが、読んでいくうちに引き込まれていく。
感情の機微が細かく表現されていて、まるで自分が恋愛をしているかのような気分にさせてくれる。ただし……男同士の恋愛じゃなければね……。
どうして登場人物が男しか居ないんだよ!
別に内容はどうでもいい。男同士じゃなかったら普通に面白い恋愛小説だったし、個人の趣味に文句を言うつもりは無い。そういう話が好きなのなら、自由に楽しんでくれたらいい。それこそ個人の自由だ。他人が口を出す問題じゃない。
でも! ほとんどおっさんしか来ないこの店で、どうやって売ればいいんだよ! 絶対売れないわ!
よし。エマにわけを聞きに行こう。どういうつもりなのか問い詰めたい。小一時間ほど問い詰めたい。
その前に、この小説を売り捌く方法を考えなければ……。
倉庫の中に居たフランツを休憩室に呼び出して、見本誌をテーブルの上に置いた。
「フランツさん。これを読んで、売る方法を考えてください」
無茶振りである。それは分かっている。でも、フランツのスキルアップのためだ。難しい挑戦だからこそ、やる価値があるんだ。決して面倒を押し付けたわけじゃないんだ。
まあ、俺も手伝うし、エマにも手伝わせるつもりだ。さらにメイとルーシアにも手伝ってもらう。ここまでやれば、売れなくはないだろう。
「え……? 俺が読んでもいいんですか?」
「あ、読むなと言われていたんでしたね。では、今からエマさんを連れてきましょうか。それまで預かっていてください」
本人を連れてきて、あらすじを説明させる。内容を知らないと売りようがないんだ。読ませたくないのなら、それくらいしてもらわないと困る。
「はぁ……。分かりました」
見本誌をフランツに託し、エマの工房へと急いだ。
石鹸工房の扉を開け、中に居るはずのエマに声を掛ける。
「こんにちは」
「あ、お疲れ様です。どうしたんですか?」
工房の中から眠そうな顔をしたエマが出てきた。
「例の小説なんですけど……」
「まさか! 読んだんですか!?」
エマは目を見開いて叫んだ。眠気が一瞬で吹き飛んだみたいだ。
「はい。内容を把握しなければなりませんからね」
「読まないでって言ったのに……」
俺は聞いてない。それに、責任者として読まないわけにはいかない。
「それはすみませんでした。でも、内容を知らないと売れませんから」
「え? 店で売るんですか?」
エマは驚いて聞き返した。売る気が無かった? いや、本にしたいと言ったのはエマだ。売る気が無いとは思えない。印刷の費用はエマが払っているので、売らないと大損するはずだ。
「僕は売り物のつもりで許可を出したんですけど……」
「そうなんですか……?」
「手間が掛かっていますから、少しでも多く売りたいんですよ。ルーシアさんやメイさんにも読んでもらおうと考えています」
俺がそう言うと、エマは必死の形相で俺の腕を掴み、大声で叫んだ。
「それはやめてっ!」
敬語を使う余裕すら無くなったようだ。
「どうしてです? 2人にも手伝ってもらいましょうよ」
「それだけはカンベンしてくださいっ!」
エマは俺の腕を強く掴んだまま、強い口調で拒否した。
「ルーシアさんはお友達なんですから、いいじゃないですか」
「友達だからですよ……。こんなものを書いているなんて知られたら、恥ずかしくて顔を合わせられません!」
自分が書いた小説なのに、こんなモノ扱いをするなよ……。堂々と見せればいいじゃないか。いや、ウルリックも自分が書いたとは言いたくないみたいだったし、作者にしか分からないジレンマなのかな……?
「読ませるのが恥ずかしいなら、あらすじを説明していただくだけで結構ですよ。今から店に来ていただけませんか?」
「え? あ……その……それも困ります……」
エマは言葉を詰まらせ、黙り込んだ。この後、何か用事があるのかもしれない。でも今日はダメだ。責任を持って売る方法を考えてもらう。
「忙しかったですか? 申し訳ありませんが、今日はこちらを優先してください。エマさんには、販売も手伝っていただかなければなりませんから」
「……すみません、全部私に売らせてください。私の知人に、欲しがりそうな人が居るんです」
あ……販売先が決まっていたのか。手書きの小説で小遣い稼ぎをしている人がいるという話を、以前ウルリックから聞いた。エマは元々似たようなことをしていたのだろう。
それなら話が早い。すでに販売先が決まっているのなら、俺やフランツが知恵を絞る必要は無い。エマを問い詰める必要も無いな。
「なるほど……了解です。販売はエマさんに一任します。でも、店には来てください。見本誌をお渡しします」
「分かりましたから、誰にも読ませないでくださいね? お願いですから!」
エマはそう言うと、ゆっくりと手を離した。用事があるのではなく、あらすじを説明するだけでも嫌だったらしい。本人にしかわからない、複雑な思いがあるのだろう。
何にせよ、誰も買わないのでは? という不安は杞憂に終わった。同じ趣味を持った仲間が居るのであれば、問題なく売れるはず。エマに任せておけば大丈夫だ。
しかし、心配事はそれだけじゃない。販売方法に気を取られていたが、内容に問題がある可能性がある。それを確認するまでは、安心して売り出すことはできない。早く帰ってルーシアに聞いてみよう。





