フラフラ
臭う干物店からは結構離れたと思うのだが、まだ臭い気がする。鼻の奥に臭いがこびりついたみたいだ。買わなくて正解だったのかもしれない。家があの臭いに包まれたら、安眠できる気がしない。
臭いは気のせいだ……。そう言い聞かせて、漁師町の散策を続ける。
歩き回ること2時間ほど。ざっと見ただけではあるが、俺が期待していた鮮魚は手に入らなかった。見かけるのは加工済みの魚ばかりで、生の魚はどこにもない。
おそらく時間が悪かったのだろう。ここの漁師は、日本と同じように夜中に海に出て明け方に帰ってくるんだと思う。となれば、早朝に来なければ鮮魚は手に入らない。残念だが、また次回だな。
期待していた鮮魚は潔く諦めた。悔しいが、もう街に向けて出発しないと夕食に間に合わないだろう。思っていたよりも遠かったので、帰りにもまたそれなりに時間が掛かることが予想される。
「では、そろそろ帰りましょうか」
「もういいんですか?」
「これ以上長居してしまうと、今日中に帰れなくなってしまいます」
「それもそうですね……」
ルーシアは寂しそうに頷いた。漁師町が名残惜しいのだろうか。俺もまだ十分に散策できたとは思っていない。次こそは生の魚を持ち帰りたい。次回は泊まりかな。
どんなに思案しても、今日のところは帰るしか無い。ルーシアと並んで街に向かって歩き出す。
不意にルーシアに視線を移すと、かなり疲れた顔をしていた。今日1日歩きっぱなしだ。限界が近いのだろう。
「帰りは馬車にしませんか?」
「え? 私は歩いて帰っても大丈夫ですけど……」
ルーシアは作り笑いを浮かべて答えた。たぶん無理をしていると思う。
俺はまだまだ平気だが、ルーシアはそうでもないだろう。行きの時点ですでに疲れているように見えた。今から歩いて帰るのは辛いと思う。
「ははは。僕が疲れたんです。すみませんが、馬車にお付き合いください」
本人が乗り気でないのなら、俺のせいにしてしまえばいい。言い合いになっても面倒なので、俺が乗りたいということにした。それに、馬車がどんなものか気になるので、せっかくだから乗っておきたい。
「そうですか……ありがとうございます。どこかに馬房があると思うので、そこで馬車をお借りできます」
ルーシアの話を聞く限り、馬車のシステムは日本のタクシーと同じようだ。御者と一緒に馬車に乗せてもらい、帰りは空車で帰っていく。距離に応じて金額が変わるらしく、いくら掛かるかは聞いてみないと分からない。
漁師町が終わるあたりまで歩いていくと、前方に馬房が見えてきた。来た時は背面しか見なかったので、気付かなかった。
「あれは馬房ですよね? 馬車を借りられないか、聞いてきます」
俺はルーシアにそう告げて、馬房に近付いた。大小様々な馬が、屋根付きの個室に入れられている。個室の横にはちょっとした掘っ立て小屋があり、人の気配がする。おそらく事務所か住居なんだろう。
並んだ馬を観察していると、事務所の中から恰幅の良い中年女性が現れた。
「うん? 誰だい?」
おばさんはしかめっ面でぶっきらぼうに言う。かなり愛想が悪い。
「すみません、馬車をお借りしたいんですけど……」
「街まで?」
「そうです。できれば、街外れにある自宅までですね」
「ふぅん……? 街までだったら5000クランだよ」
結構高いな……。日本だったら、タクシーで2000円くらいの距離だと思う。やはり馬だとコストが掛かりすぎるんだな。まあ、渋っていても仕方がない。ここ以外に馬車を借りられそうなところは見当たらないし、さっさとお願いしてしまおう。
「分かりました。2人なんですけど、いいですか?」
「はいよ。あんた、商人だろ? 荷物があるんじゃないのか?」
おばさんは怪訝そうに言う。
「いえ、今日は買い付けに来たわけではありませんから。簡単な手荷物だけです」
「ふぅん。準備するから待ってな。おーい!」
おばさんは少し離れたところに居るルーシアを一瞥して、建物の中に声を掛けた。すると、中から中学生くらいの少年が飛び出してきた。マルコよりも少し若いくらいだろうか。
「はいっ! 何でしょう!」
少年は焦ったような表情で、大きな声を出した。
「客だよ。2人で荷物なし。街まで送ってやんな」
「はいっ!」
少年は元気に返事をすると、馬房の方に走っていく。彼が御者のようだ。ずいぶん若いが、慣れた手付きで馬を操っている。若くても、技術には問題ないだろう。
少年が準備をしているうちに、ルーシアが近くにやってきた。2人で馬車の準備を待つ。
しばらく待っていると、2人掛けの箱型の客車が付いた、高級そうな馬車が出てきた。貴族が乗っていそうなデザインの馬車だ。
「荷物が無いんなら、これでいいだろ?」
おばさんが言うと、ルーシアは恐る恐る呟く。
「いいんですか……?」
「なんだ、嫌なら荷物用の馬車に替えるよ?」
「いえ、とんでもないです。有り難く使わせていただきます!」
ルーシアは恐縮そうな顔をして、深々と頭を下げた。どうやら、普段乗れるような馬車ではないらしい。見た目の通り、高いのだろう。俺もおばさんにお礼を言う。
「お気遣いありがとうございます」
「馬車の中で何をしてもいいけど、汚したら承知しないよ」
おばさんは笑顔で言った。冗談のつもりらしい。こんな狭い馬車の中で、いったい何をしろというのか……。
「ははは。汚しませんよ。では出発しましょうか。よろしくお願いします」
おばさんに代金を支払い、馬車に乗り込んだ。すると、御者席から少年の声が聞こえる。
「街道はちょっと飛ばすんで、揺れが酷かったら言ってください」
「了解です」
街と漁師町を繋ぐ街道は、人通りが少ないからゆっくり走る必要がないのだろう。ただ、街道に施された石畳の舗装はいい加減で、かなり揺れることが予想される。ケツを痛める覚悟はしておいたほうがいいかもしれないな。
馬車がゆっくりと走り出した。今のところは揺れが少ない。本当にかなり良い車体を出してくれたみたいだ。
「いい馬車みたいですね」
ルーシアに声を掛けると、苦笑いを浮かべて答える。
「ご存じないですか? クーペっていう馬車なんですけど、庶民が乗るような馬車じゃないんですよ。かなり高いです」
「へえ……」
日本でクーペと言えば、2ドアのスポーツカーを連想する。だがこの馬車は、日本のクーペ並みに狭いけど高級車みたいだ。
雑談をしているうちに、馬車は街道に出た。次第に速度が上がる。
速度は自転車くらい。歩くよりは早いが、格段に早いわけではない。ただし、揺れはなかなか酷い。ガクンと来るような揺れではなく、バネでふわふわするような揺れだ。酔いそう……。
ふわふわと揺れるくらいなら、ガツンと揺れてもらった方がむしろ助かる。縦横無尽に揺れる客車は、俺の三半規管を無造作にかき乱した。
「ルーシアさんは平気ですか?」
「何がですか?」
「この揺れです。僕はちょっと厳しいんですけど……」
「え……? この馬車は全然揺れませんよ? 心地よいと思っていたくらいです」
ルーシアはあっけらかんと言う。酷い揺れを物ともしない、強靭な三半規管を持っているらしい。
「これが……?」
「ツカサさんは、普段どんな馬車に乗っていたんです? これ以上高性能なサスペンションなんて、見たことが無いですよ?」
俺が乗っていたのは、原始的な馬車じゃなくて近代的な自動車。問題はバネじゃない。
「えっと……ダンパーとかショックアブソーバーというものは聞いたことがありませんか?」
「え……初耳です」
やっぱりか。バネはそれなりに高性能だと予想できるが、ショックアブソーバーが無いんじゃ揺れるわけだ。高い技術が要求されるから、この国では作れないのだろう。
「バネの伸縮を抑える装置があるんです。それがあれば、こんなにふわふわとは揺れません」
「なるほど……。でも、これに慣れたら気持ちいいですよ? ゆりかごみたいじゃないですか」
ゆりかごではない。ゆりかごは、こんなに不規則には揺れない。俺は慣れそうにないな……。
喋る余裕もないまま揺られること約40分。吐きそうな気分を必死で堪えていると、少年の声とともに馬車が停車した。
「着きましたよ!」
店の前ではなく、少し離れた場所だ。
俺の乗り物酔いは最高潮を迎えている。早めの停車は有り難いのだが、できれば目の前まで連れて行ってほしい。もう歩ける気がしないんだ。
「家はもう少し先なんですけど……」
吐きそうになりながらも、なんとか声を絞り出した。
「ここよりも奥に行ったら、引き返すのが大変なんですよ」
うちの店の前は大通りなので通行できるのだが、Uターンできそうな場所が無い。下手をしたら、Uターンのために街の外まで行かなければならない可能性すらある。賢明な判断だな。
「なるほど。ではここでいいです。ありがとうございました」
ルーシアと一緒に馬車から下りた。だが、まだ揺れているような感覚が残っている。気持ち悪い……。
「漁師町に来た際は、是非またご利用ください!」
御者の少年は、そう言って馬を動かす。
「ありがとうございました! ぜひ利用させていただきます!」
ルーシアは満足げな表情を浮かべて礼をした。しかし、俺は二度と乗りたくない。俺は荷物用のゴッツゴツの馬車の方が向いているかもしれない。
「あの……大丈夫ですか?」
ルーシアは、心配そうに呟いて俺の背中を擦る。
「大丈夫です……早く帰りましょう」
強がっては見たものの、真っ直ぐ歩ける気がしない。一歩足を踏み出すごとに、地面が揺れているような感覚に襲われる。
「近くで少し休みましょうか……?」
辺りはもう暗くなり始めている。食事の準備は終わっているだろう。早く帰らないとサニアに迷惑が掛かる……。でも、歩けそうにないのは事実だ。こんなことなら、食事は断っておくべきだったな。
「それには及びません。ご迷惑をかけてすみませんが、肩をお借りしてもいいですか?」
「もちろんいいですけど、無理して帰らなくてもいいんですよ?」
「いえ、帰りましょう。みなさんが心配します」
「そうですか……」
ルーシアは、一瞬だけ残念そうな表情を浮かべて俺の腕を掴んだ。そしてルーシアの肩の上に回す。我ながら情けない姿だ……。遠くに外出する時は、夕食を断ろうと固く誓った。





