デリカシー
印刷機は揃った。活字は足りていないが、すぐに印刷を開始することができる状態だ。それはいいんだけど……遂に恐れていた請求書が届いた。
まずはレベッカに依頼した原型から。1文字3000クランだった。意外と安いんだけど、これが42文字ある。12万6千クランだ。
次に活字。鋳型の作成が1文字5000クラン……この時点で苦しいんだけど、これは型だけの値段。活字の鋳造は材料費込で1文字300クラン、全部合わせて147万クランだってさ。キツイ……。
本体は2号機の製造中なので、まだ請求が来ていない。1台あたり10万クランという見積もりだけが来た。安く感じるから不思議だ。クソ高いんだけどね。
事務所の机に並べた書類を見つめていると、ルーシアが心配そうに話し掛けてきた。
「あの……顔が青いですけど、大丈夫ですか?」
「あ、大丈夫です。ご心配なさらず……」
全然大丈夫じゃないです。予想以上に高いです。本当に工房ひとつ分掛かったぞ……。活字の追加注文をしたら、500万クラン近く掛かりそう。追加注文はまだ先だな。
「疲れているのでしたら、ちゃんと休んでくださいね」
「大丈夫ですよ。休んでいますから」
疲れているわけじゃないんだ。あまりの請求額に、どっと疲れが押し寄せてきただけなんだ。
請求書の束を鍵付きの引き出しに仕舞い、店を出た。気分転換に少し歩く。
初期投資が予想以上に掛かっているので、なんとか金にしないと拙い。広告印刷の仕事を受けることでどうにかなると思うんだけど、そのためには専門の従業員が要る。
フランツにやらせたとしても、到底間に合わないだろう。当然メイとルーシアも店舗で忙しい。となると、また新しい工房主を探し出す必要がある。カラスかギンの客で、ちょうどいいやつが居れば楽なんだけどなあ……。
とりあえずカラスの客でも狙ってみよう。あいつらの客は基本金に困っているから、仕事を与えれば文句を言わずに働くはずだ。
いつもの公園に向けて歩いていると、向こうからウルリックがフラフラと歩いてきた。久しぶりに会う、元剣闘士の狩人だ。この国で、俺が初めて物を売った相手でもある。
「ウルリックさん、お久しぶりです。街に居るなんて珍しいですね」
狩人に転向してから、街では全く会わなかった。なんでも、狩人は街に居ることが少ないと聞いた。山や森に籠もり、獲物が捕れるまで帰ってこないそうだ。街に獲物を持ち帰っても、またすぐに森へと帰っていく。
そのため、街で狩人と遭遇するのは狩り道具の店と訓練場くらいだ。ウルリックの場合はムスタフを避けているので、うちの店にも訓練場にも現れない。引っ越したのかな? と思うくらい会っていなかった。
「ああ、しばらくぶりだな」
ウルリックは力無く返事をした。元気がない。ウルリックの姿をよく見ると、木の棒を松葉杖にして体を支えている。顔色も良くない。
「どこか具合が悪いんですか?」
「まぁな……」
ウルリックはそう呟いて、ズボンの右側を膝まで捲し上げる。
すると、物凄く太い脛に包帯がぐるぐる巻きにされていた。包帯を巻かれた脛だけが不自然に太い。骨折だろうか。
「どうされたんです?」
「見ての通りだ。思い切りドジった。狩りの最中に崖から転げ落ちたんだ」
ウルリックは大げさに手を振って、落ち方を再現した。その手振りを見る限り、結構な高さから転がり落ちたようだ。よく死ななかったな……。ドジのレベルじゃないぞ。
「それはお気の毒に……」
「まあ、死ななかっただけ御の字だよ。落ちている最中に本気で死んだと思った。怪我はそれほどでもなかったが、たまたま狩人仲間が通りかからなかったら、崖の下で餓死していたよ」
結構シャレにならない事故だったらしい。辛うじて助かったものの、怪我をした足ではしばらく働けないだろう。
「確かに、生きていて良かったです。でも、しばらくは何もできないですね」
「しばらくどころか、狩人は引退だよ。もう以前のようには動けない。歩くことは問題ないが、山の急斜面を駆け上がるようなことはもう無理だ」
右足の怪我は見た目以上に酷いようだ。それとも、この国の医療技術が低いのだろうか。とにかく、以前のようには動けない。
狩人で足が動かないのは致命的ではないだろうか。獲物を追いかけることはおろか、獲物がいるところまで移動することも困難だろう。
「それは大変ですね」
「この体で剣闘士に戻ることもできんし……どうしたものだろうな……」
ウルリックは遠くをぼんやりと眺めながら言った。
……ウルリックには不運だっただろうが、俺にとっては好都合だぞ。せっかく失業したのだから、このままうちで雇おうかな。
やってもらうのは印刷だ。配達などで歩くことはあるが、足を酷使する仕事ではない。デリカシーが無いのは心配だが、工房はこいつ1人だから大丈夫だろ。
「でしたら、うちで働きませんか? ちょうど従業員を探していたんです」
「それは有り難い……いや、悪いがそれは無理だ。お前んとこ、ムスタフさんが出入りしているだろ? 顔を合わせたくないんだ」
それは知っている。いい加減和解しろよな。いろいろ面倒だから。あのジジイだって根に持っていないぞ。
「いい機会ですから、和解しましょうよ」
「いや……遠慮しておくよ。合わせる顔も無いからな」
ウルリックは首を横に振って頑なに拒む。何が気掛かりなのかは知らないが、無理強いするようなことでもないかな。
「分かりました。別に無理にとは言いません。働いていただくのはうちの店ではないですからね」
「どういうことだ?」
「うちの隣の食堂が潰れたのはご存知ですか?」
「そうらしいな。最近行っていないが、噂で聞いたよ。それがどうかしたか?」
「空き店舗になったので、うちで買い取ったんです。そこで働いてもらおうと思っています」
「食堂で働くのか? 無理だろ。俺が作れるのは狩人料理くらいだぞ」
なにそれ、気になる。日本で言うところのジビエ料理みたいなものかな。それはそれでいいじゃないか……って、今探しているのは料理人じゃないぞ。
しかし、今のは誤解を与えるような言い方だった。ちゃんと説明しないと拙いな。
「今は食堂ではありません。印刷工房にしました。広告の印刷をやってもらおうと思っています」
「おいおい、もっと無理だろ。一から修業し直せっていうのか?」
「後で詳しくお話しますが、大掛かりな修業は必要ありません。立ちっぱなしにもなりませんから、負担は少ないと思います」
活版印刷は、言ってしまえば誰にでもできる。文字を並べるだけだ。特殊な技術が要るわけではない。
強いて言うなら文章力と構成力が必要になるのだが、原稿を作るのは俺だ。ウルリックの仕事は、原稿に合わせて版を組み、それを印刷するだけ。
「そうか……。どうせ他に行くあてもないし、試しにやってみようかな。もしダメだったとしても、文句を言うなよ?」
「大丈夫だとは思いますけど、ダメでも文句は言いませんよ。代わりを探すだけです」
「うん、そうしてくれ。それはそうと、今日は嫁と一緒じゃないんだな」
「嫁?」
「ああ、店番があるのか。店を持つってのは大変だからなあ」
ウルリックは俺の疑問を意に介さず、勝手に話を進めた。
「ちょっと待ってください。僕は結婚した覚えがありませんけど……」
「ん? お前、ウォルター商店の婿養子じゃなかったのか?」
おかしな誤解をしているぞ……。いや、割と自然な誤解なのかな。俺は未婚の女性がいる店に居着いて、長男を差し置いて店主になっている。傍目には婿養子だと思われても仕方がないかもしれない。
「僕はただの居候です。立場は店主ですが、代理みたいなものですから」
「そうなのか? てっきり結婚しているものだと思っていた。さっさと結婚しろよ、ややこしいから」
大きなお世話だ。ルーシアだって、そんなことは考えていないと思うぞ。歳が離れすぎている。俺は30歳で、ルーシアはまだ20歳くらいだ。恋愛が成り立つ年の差ではないと思う。俺は構わないけど、ルーシアが嫌だろう。
ウルリックのこういうところが気掛かりなんだよなあ。デリカシーがなさすぎる。気さくで話しやすいのだが、余計な一言が多い。
「妙なことを言わないでください。ルーシアさんにも迷惑でしょう?」
「そうか? あのお姉ちゃんは満更でもなさそうだったぞ?」
「ウルリックさん……。そういうことを言うと、女性に避けられますよ?」
「え? は? なんで?」
ウルリックは焦って聞き返す。
「気遣いの問題です。女性はそういう話に敏感ですから、余計なことは言わない方が身のためです」
と言うか普通にセクハラだからな。日本ならアウトだ。こういう悪気のないセクハラが一番手に負えない。本人は良かれと思って言っているのだから、反省のしようがないんだ。
「わからん。何が悪いのかわからん……」
心からの言葉だ。まあ、直らないだろうな。そういうものだと思って接した方が気が楽だ。関わることは少ないだろうが、うちの女性陣にも警告しておこう。
「うちには若い女性が居ますから、発言に気をつけてくださいね」
「……ああ。何を気を付けたらいいのか分からないが、気を付ける」
ウルリックは神妙な面持ちで頷いた。余計な一言は完全には無くならないだろうが、少しは改善されるだろう。
ウルリックは準備があるということで、一度別れた。後日、荷物を持ってうちの店に来るそうだ。
印刷工房の引き取り手が決まった。建物と印刷機の持ち主はうちの店で、工房の名義は俺。カレルの工房と同じ扱いだ。違うのは、うちの店以外からも仕事を受けることを許可したこと。誰の仕事でも受けてもらう。
どれだけ稼げるかはウルリック次第だ。営業は得意じゃなさそうだから、仕事をとってくるのは俺やイヴァンの役目になるだろう。早いうちに初期投資分だけは回収したい。





