慢性的漆黒
印刷機の手配を終えて時間が空いたので、気になっていたレヴァント商会の偵察に乗り出すことにした。
ウォルターから聞いた、健康食品についての情報を探るためだ。と言っても、レヴァント商会が関わっているという証拠はなく、俺が勝手にこの店を連想しただけ。ただし、食品を扱う大商会ということで、関わっている可能性は低くないと見積もっている。
だが、今日俺にできることは、店の中を見て回るだけだ。レヴァント商会の本部は首都にあり、この街のレヴァント商会はただの支店。唯一面識のある会頭が現れることも少ない。会頭が居てくれたら探りようもあるのだが、この街に来ているとは考えにくい。
せめて従業員に知り合いが居れば……。そう思うが、それも無理だろうな。どこかの店の店主なら知り合うきっかけがあるのだが、ただの従業員では接点がまるでない。
久しぶりにレヴァント商会の中に入る。内装はたいして変わっていないが、店内に貼られたポスターが、やけに目に付く。これはコータロー商店の真似をしたのだろう。
ローマ字で『OFF』や『NEW!』と書かれている。以前のこの店にはない、日本人的発想だ。値引きや新商品のアイコンとして採用したらしい。この記号が定着する日も遠くないだろうな。
続いて商品を見て回るが、変わった様子が見られない。強いて言うなら、季節が変わって旬の野菜が入れ替わったくらいだ。健康食品の噂との関わりは、俺の見当違いだったのだろうか……。これ以上の偵察は意味がないな。帰ろう。
ひとしきりの偵察を終えて店を出た。空が赤く焼けている。ちょうどいい時間になったようだ。今から帰れば、ルーシアが閉店の作業を始めるくらいの時間に店に着くだろう。
そう思って歩き出すと、建物の影で暗がりに紛れるように2人の男女が立ち話をしていることに気が付いた。カップルだろうか。聞きたくもない会話が耳に飛び込んでくる。
「あの……。以前からお話していた通り、今日は定時で帰ってもいいですよね?」
「何を言っているんだ? 帰っていいわけないだろ。他の連中は忙しく働いているんだ。休んでいる暇があったら、他の先輩の仕事を見て勉強しろ」
「そんな……話が違うじゃないですか。数日前はいいって言ったのに……」
カップルかと思ったのだが、どうやら会社の同僚らしい。口調から察するに、男が上司で女が部下だ。そしてここはレヴァント商会の裏。おそらく2人はレヴァント商会の従業員だろう。
思いの外面白そうな話題じゃないか。もう少し聞いてみたい。立ち止まって建物の隅にもたれかかり、聞き耳を立てた。
「お前が知らないところで、状況は変化しているんだ。お前はそれに気が付かないからダメなんだよ。いいからすぐに仕事をしろ」
「今日の自分の仕事は終えました。帰っても問題ないと思います」
「それを決めるのはお前じゃない。自分の仕事が終わったんなら、同僚の仕事を分けてもらえばいいだろう。仕事なんかいくらでもある」
「でも、今日は早く帰るために頑張ったんです。明日の準備も終わりました……」
「従業員はお前だけじゃないだろ? チームなんだよ。チームの一員として貢献しようと思わないのか? だからお前はいつまで経っても見習いのままなんだよ」
男は店にとって都合のいいことだけを押し付けているようだ。前回レヴァント商会に来た時は気が付かなかったが、どうやらブラック企業だったらしい。
聞けば聞くほど真っ黒、清々しいまでの黒。思想、言動、指導方針、全てが黒い。絵に描いたようなブラック企業だな。この国にもあるのか……。
面白い話が聞けそうだぞ。もう少し居座ってみよう。
「いつもは協力しています! 今日は本当に用事があるんです……」
「じゃあ、なぜそれが今日できない? 毎日貢献するんだよ。それができないならもう二度と来なくていい。お前の代わりなんかいくらでも居る」
「え……それは困ります……」
女の切羽詰った声が聞こえる。根が真面目な人なんだろう。ブラック企業に搾取される人間は、たいていの場合素直で真面目な人なんだよな。
もし俺がこの女性の立場だった場合、すぐに立ち去って本当に二度と行かない。「来るな」と言ったのは向こうだ。その命令に従っただけ。何の問題もない。代わりならいくらでも居るんだろ? だったら、向こうだって俺が居なくても問題ないはずだ。
みんなが俺と同じような行動を取れば、ブラック企業なんてすぐに駆逐されると思う。だが、それが容易でないことは百も承知だ。雇用側はあらゆる手段を駆使して会社に縛り付けようとするため、そこから抜け出すのは容易ではない。
「大商会というのはこういうもんだ。いい加減学べよ。あれこれ考える前に働け」
そんなわけないだろ。大企業の全てがこんな有様だったら、暴動が起きて国が滅びるよ。
多少の残業なら、会社の発展に必要なことだ。しかし、常態化するのは拙い。そもそも、この国には定休日の概念が無いんだ。基本的に毎日働くし、毎日店を開ける。例外は毎月31日だけだが、この日があるのも夏のうちだけだ。
うちの店では、代わりの人間を立てることで休むことを許可している。だが、人手不足で簡単に休めないという問題が発生している。他人事ではないな。他人のふり見て我がふり直せ。今のままではかなり拙い。早急に対策を考えよう。
俺が1人で反省しているうちにも、会話は続けられている。
「でも……近くの商店で見習いをやっている友人は、夕方には仕事を終えて店主さんと遊んだりするらしいです。そこまでとはいいませんけど、それくらいの余裕はいただけませんか?」
楽しげな店だな。どこの店の話だろう。うちの店でも似たようなことをしている。閉店後にリバーシ大会を開いて、お互いに切磋琢磨している。まあ、あまりにも俺の圧勝になるので、最近は参加させてもらえないのだが。
「それはいいじゃないか。ライバルが遊んでいる時こそ差をつけるチャンスだ」
余裕が欲しいという意見は黙殺された。聞き入れられる可能性はゼロだな。
しかしこの男、たまに正論を挟むから厄介だぞ……。今の話は正しい。成功したいなら、遊ぶ時間を削って何かを学ぶべきだ。
間違っているのは、『上司が部下に強制する』という点だ。これは他人に強制されることではない。自発的にやるから意味がある。学ぶ内容は仕事に関することでもいいし、全く関係なくてもいい。決して残業しろという意味の言葉ではない。
「でも、たまには息抜きも必要です……」
「寝ることとメシを食う以外の息抜きは甘えだ!」
男は突然声を荒らげた。とんでもない意見だな……。これは自分を律する言葉としてはいいかもしれないが、他人に強制する言葉ではない。本気で言っているのだとしたら、正気を疑う。
「でも、他の店だと……」
「そんなにその店がいいなら、そこに行けばいいだろうが! そのかわり、お前の夢は叶わないと思え!」
男は女を突き放すように言った。話を聞く限り、女の方はまだ見習いの歳。年齢で言うと16、7歳くらいだろうか。日本ならまだ遊びたい盛りの年代だ。夢を人質にとられてこき使われているらしい。
「でも……」
「お前は自分の店を持ちたいんだろ? だったら大商会で修行するのが一番の近道じゃないか。お前は勝ち組のレールに乗ってんだよ。他人を羨んでいる暇なんかないだろ」
何かを言い出そうとした女を遮って、男が強引に丸め込んだ。この女性は、カレルのように自分の店を持つことを目標にしているようだ。
男の言葉は一見正論のように思えるが、ちょっと待ってほしい。この話は何の根拠も裏付けもない、ただの推論である。
大企業に勤めるメリットは大きいが、勝ち組が保証されたわけではない。大企業で学べることも多いが、それが全てでもない。この男は自分の価値観を押し付けているだけだ。ただの洗脳教育でしかない。こうやって会社の信者を増やしているんだろう。
だいたい、こいつはただの従業員だろうが。開業することを何も知らないくせに、よくここまで言い切れるな。
「そうなんですけど……」
女はまだ納得できておらず、反論する材料を探しているようだ。だが、如何せんまだ若すぎる。この男に反論するには経験が足りていない。たぶん何も反論できないだろうな。
「言いたいことは分かったから、早く仕事に慣れろ。半人前のくせに店のやり方に口を出すな。お前はまだ使い物にならないんだから、黙って『はいはい』と頷いていればいいんだよ」
案の定何も言い返すことができないままでいると、男は冷たい口調で女を諭した。絶妙にイラッとする内容だったな。攻撃的ではないにせよ、完全な人格否定だ。
レヴァント商会の内情がなんとなく分かった。まず、ブラック企業であることは間違いない。パワハラとモラハラが横行している。もっと詳しく聞けないかな……。
いや、俺はブラック企業の内情を探りに来たんじゃない。健康食品の噂を探りに来たんだ。危ないところだった。いつの間にか興味がブラック企業に移っていた。でも気になることは気になるんだよなあ。もう少しこの場に残ってみよう。
「でも……」
女はまだ食い下がる。だが、またしても男が遮った。
「ああ、もう分かったから、しばらくそこで頭を冷やせ。帰るなよ? しばらくしたら見に来るから、それまでそこに立ってろ」
男は面倒臭そうにそう言い放つと、カツカツと足音が聞こえ始める。その足音は少しずつ小さくなり、扉が開閉する音とともに消えた。どうやら男は店内に入ったようだ。
ここからは見えないが、今は女が1人残された状態のはずだ。これはちょうどいい。上手くいけば、レヴァント商会の内情や健康食品の噂が聞けるかもしれない。ちょっと声を掛けてみることにした。





