印刷技術
大きな笑い声をあげながら会話を続けるジョシュと工房主。今まさに2人は雑談を始めようとしている。これは拙い。俺の存在が完全に無視されているみたいだ。二人の会話を遮って口を挟む。
「お話し中失礼します。僕の用事も聞いていただけませんか?」
「ん? あ、そう言えばあんたも用事があるって言ってたな。なんだ?」
2人の会話に水を差したようだが、これも必要なことだ。このまま放置したら、俺の用事を済ませることなく解散の流れになってしまう。
「その前に、お名前を伺ってもいいですか?」
「あ、言ってなかったか。悪ぃな。オレはアンドレだ」
アンドレはバツの悪そうな表情を浮かべ、人差し指で頬を掻いた。
俺の名前はさっき名乗ったばかりだが、聞いていたのか心配だな。念のためもう一度名乗っておくか。
「よろしくお願いします。僕はウォルター商店のツカサと申します」
「さっき聞いたよ。そんで、用事ってのはなんなんだ?」
聞いていたらしい。だったら無視するようなことをするなよ……。まあ、いいけどさ。
自己紹介が必要ないのなら、さっさと本題に移ろう。
「作ってほしい物があるんです。ちょっとこれを見ていただけませんか?」
そう言って、ざっと書いた設計図を見せた。俺はそれほど絵が上手くないので、ちゃんと伝わっているか心配だな。
この印刷機に関しては、強く口止めするようなことはしない。というのも、俺はこの印刷技術を使って利益を出すことは考えていないからだ。この情報が漏れて普及するのであれば、それでもいいと思っている。
版を作るのが簡単だと言っても、面倒な作業であることには違いない。安く印刷してくれる業者がいるのなら、全部任せてしまいたい。
印刷工房を自前でやろうと思うと、工房を買って工房主を探して……という一連の作業が必要になる。確実に儲かることは分かっているが、さすがにキャパオーバーだ。俺はそんなに働けない。
アンドレは設計図をまじまじと眺めて不思議そうに首を傾げると、ゆっくりと口を開いた。
「これ、西の方の技術だろ。鉄で作ってどうするんだ。木で作るもんだぞ」
「……え? あるんですか?」
「ん? 知らんで作ろうとしていたのか? それはそれですげぇけど、鉄じゃ無理だろ。どうやって削る気だよ」
アンドレは呆れながら言う。俺が知らないだけで、印刷技術は既に確立していたらしい。ただ、アンドレの口ぶりでは木版印刷のことを言っているようだ。もう少し細かく聞きたいな。
「その技術なんですけど、詳しく聞かせていただけませんか?」
「俺も詳しくねえよ。俺が知ってんのは、紙作りが盛んな街の技術ってだけだ。本を作る時に使ってるらしいぞ」
面倒臭そうに答える。俺が見たことのある本は、ルーシアが持っているものだけだ。それを見る限り、印刷技術を使っていないようだった。誰かが勝手に複製した本なのかな……。
「どうして普及しないんですかね……。かなり使える技術ですよ?」
「そんなん、俺が知るわけねえだろ。たぶん職人が居ねえんじゃねぇの? 木工職人の中でもかなり特殊らしいからよ」
版を作る技術を持った職人が少ないらしい。レベッカの腕を見る限り、木工職人の彫刻の技術力は高いと思う。やろうと思えばできるはずだが、何かできない理由があるのだろう。
考えられるとすれば、手間の割に儲からないとかかな。本や新聞くらい大量に刷るならいいだろうが、広告みたいな小規模な印刷ではそれほど金を掛けられない。
いや、単純に仕事が無いからかもしれない。本を作るには大量の紙が必要なので、紙を生産している街でやらないと効率が悪すぎる。その街に技術者が集中するのは自然の摂理だな。
「教えていただき、ありがとうございます。参考になりました。でも、僕が作りたい物とは違いますね」
俺が作りたいのは広告専用の印刷機だ。活字は木でも作れなくはないが、耐久性と量産を考えると鋳造以外に考えられない。
「ふぅん。オレに話を持ってきたということは、鋳造だろ? 版を鋳造するにしても、基になる木型は木で作るもんだ。意味ねぇぞ」
おおよその形はイメージしてもらえた。この人の中では、組版の部分が木版に置き換えられているのだと思う。それなら、組版の仕組みを説明するだけだ。
「いえ、1文字のブロックを大量に作って、その都度入れ替えて使うんです。文字は再利用できますので、丈夫な鉄を使いたいと思っています。それに、鋳造なら量産が簡単ですから」
文字の種類は28種、句読点と記号を合わせて36種類ある。活字の大きさは1cm四方程度に決めた。それに合わせて罫線の活字も作る。現在、帳簿用紙は手書きで罫線を引いて使っている。地味に面倒なので、印刷できるならそうしたい。
当然、文章は1文字では成り立たない。各文字は、最低でも100個ずつは作りたい。合わせたら結構な量になる。一つ一つ手作業で作っていたら、とてもじゃないが間に合わない。そこで目を付けたのが鋳造だ。原型さえあれば、いくらでも量産できる。
「へえ……なるほどねぇ。面白ぇじゃねぇか。それなら鋳造がちょうどいい。でも、ちいせぇな……。物凄く難しいぞ」
「無理ですかね……?」
「んなわけねぇだろ。オレにできねえことはねぇよ。木型さえ持ち込んでくれたら、いいように作ってやる」
アンドレは得意げに答えた。鋳造に絶対の自信を持っているらしい。任せても良さそうだな。
ただし、木型の作成はかなりの手間が掛かると思われる。これはレベッカに任せることになるだろう。嫌な顔をしながら引き受けてくれると思う。彫刻の技術が高いのは確認済みだから、特に心配はない。
最後に、材質について相談しておこう。
普通、鋳物用の鉄は炭素を混ぜて溶けやすくしてある。それだと硬くなりすぎるので、とても割れやすい。かと言って炭素が少ない軟鉄や鋼鉄を使うと、溶かすための温度が高くなる。鋳物用の炉にも限度があるだろうから、溶けにくい鉄では無理だ。
「ありがとうございます。材料なんですが、硬さはそれほど重要じゃないので、溶けやすくて柔らかい鉄がいいんですよね。何かいい鉄はあります?」
「変な注文をするなあ。そもそも鉄に拘る必要はあんのか? 鉛で作りゃあいいじゃねぇか」
アンドレはあっけらかんとした顔で答えた。
一理ある。鋳物といえば鉄だと思い込んでいた。ただ、鉛だと柔らかすぎる気がするんだよなあ。落としただけで変形してしまう。
「鉛ですと、たぶん長持ちしないでしょうね……。硬くて溶けやすい金属があれば、それと混ぜた方がいいかもしれません」
「ふぅん……。心当たりがある。試してやろうじゃねぇか」
アンドレはニヤリと笑って答えた。
「ご協力ありがとうございます。木型ができたら、改めて依頼しますね」
「おう。待ってるぜ」
話を終えてふと気付いたのだが、コータロー商店が発行した大量の広告は、印刷技術を使ったのかもしれない。国が関わっているのだから、印刷技術のことを知っていても不思議じゃない。
手書きでチマチマやって勝てるわけがないじゃないか。くそ。こんなことなら印刷機の開発を急いでおけばよかった。
挨拶を済ませてアンドレの工房を出たのだが、ジョシュは鉄鍋をいくつも抱えて重そうにしている。
「持ちましょうか?」
「悪ぃ、助かる。頼むよ」
ジョシュは苦笑いを浮かべて言った。
俺も無関係ではないので、そのうちの3つを引き受ける。そのまま2人でジョシュの工房へと歩き出した。
歩きながら金物店の今後について考える。金物店のプランは、思った以上に上手くいきそうだ。それに関しては心配ない。危ういのは店主のオーバーワークについて。
この調子で仕事を受けていたら、ジョシュは寝る暇も無くなるだろう。今のうちに対策しておいた方がいい。
「ジョシュさん、本格的に忙しくなる前に、従業員を雇うことをお薦めします」
「従業員……? ふん、うちにそんな余裕はねぇよ」
ジョシュは少し息を切らしながら言う。鍋が重いのだろう。普段の運動が足りていないんじゃないかな。
いや、そんなことはどうでもいい。今は従業員問題だ。
「お子さんでもいいんですけど……」
「3人居るが、1人は嫁いで、あとは修行中だよ。来年あたりに1人帰ってくるんじゃねぇかと思っている」
来年じゃ遅い。しかも未確定だ。うちのフランツみたいに、途中で打ち切って連れ戻した方がいいかもしれない。
「早めに戻ってもらえないですかね?」
「無理じゃねえけど、そんなに急ぐこともねえだろ」
ジョシュは気のない返事をした。当事者感覚が薄いみたいだ。オーバーワークの恐ろしさを理解していないのだろう。
「修理が予想以上に忙しくなりそうなんですよ。店主さん以外に修理できる人が居ないんですから、店番や雑務を任せられる従業員が必要です」
このままでは忙しくなりすぎてパンクする。そうなってからでは手遅れだ。教育する暇がないので、従業員が育たない。余程優秀な奴を雇ったとしても、満足に働けるようになるまで長い時間が必要になる。
たまに『見て覚えろ』とか言う雇い主が居るが、そんなのは教えるのが面倒臭いだけ。怠け者の言い訳だ。基本を知らない人間は、どれだけ見たって覚えられるわけない。
「うぅん……まあ、考えておくよ」
ジョシュはいい加減な返事を繰り返した。
拙いな。問題を先送りにして動かないパターンだ。無理強いできることでもないし、俺からはもう何も言えない。
この店も要経過観察じゃないか。放置したら潰れてしまうぞ。店がじゃなくて、この店主がだ。仕方がない……。今後もちょくちょく様子を見よう。
まあ、今日のところは印刷機を優先したい。往復が面倒だが、金物店に鍋を届けたらもう一度職人街に戻る。
物凄い手間が掛かる気がして先送りにした印刷機だが、いざ動き出してみたら意外と簡単そうだ。大急ぎで作れば今月中に作れるんじゃないかな。





