文字
ブルーノの店を出た後、講習会の準備をするために店に戻った。このままでは何度手間になるか分かったものではないので、集客のアドバイスを始める前に講習会を終わらせるつもりだ。
しかし、昼間からうちの店に居るのは物凄く久しぶり。いつもは外回りをしているし、時間があれば実験用工房に籠もっている。せっかくだから、フランツの様子でも見ようかな。
フランツが作業場にしている倉庫に移動した。
「フランツさん、調子はいかがですか?」
「えっ? なんで居るんですか?」
フランツは短い期間でずいぶんと従順になった。形だけだとは思うが、敬語も上手く使えている。
「用事があったので、戻ってきたんですよ。今日はこのまま事務所に居ると思います。何か聞きたいことがあればどうぞ」
「聞きたいことって……いきなりそんなことを言われても……」
すぐには思い付かないか。それもそうか。あまりに突然な質問だったな。質問を変えよう。
「思い付いたら事務所に来てください。ところで、お仕事はどれくらい覚えました?」
「在庫の管理方法と、発注のやり方……あとは帳簿の付け方を少しです」
「なるほど。順調みたいですね。フランツさんが書いた帳簿を見せていただいてもいいですか?」
現在、店の帳簿はサニアとルーシアに丸投げしている。俺が毎日確認しているのは、サニアが書いた総勘定元帳とルーシアが書いた売上帳だけだ。費用と売上を確認するだけなら、この2種類を見るだけで事が足りる。
しかし裏ではもっと大量の書類を書いていて、その一部はフランツに任されているらしい。信用に足るものか、確認しておく必要がある。
「いいですけど……」
フランツは気が進まない様子だ。何か問題でもあるのだろうか。
「間違っていても怒りませんから、安心してください」
ただのミスなら特に問題ない。手書きの伝票でミスが起きないなんてことは、絶対にあり得ないからだ。まあ、わざと間違えやがったらドツき回すけどね。というか、わざと間違えていたら横領だから。犯罪だから。即、クビを切るよ。
「そうですか……。それなら」
そう言って、近くの棚から紙の束を取り出した。さっそく確認する。
フランツが書いているのは商品管理台帳のようだ。商品名から始まり、取引先、仕入値、入庫日、出庫日が書き込まれていると思われる。入荷した商品を書き込むだけの簡単な帳簿だ。
ただ、字がめっちゃ汚い! 文字を覚えたての俺より汚いってどういうことだよ。ギリなんとか読めるけど、まるで暗号だ。解読に時間を要する。
サニアとルーシアは、これを見ながら仕事をしているのか……。大変そうだな。
「書き方に問題ありませんけど、字が汚すぎますよ。もっと丁寧に書いてください」
「え? 読めるからいいじゃないですか」
「読めないんです! 自分は読めるかもしれませんが、自分だけの書類じゃないんですからね。読む人に配慮してください」
「……怒らないって言ったのに」
フランツは不愉快そうに呟いた。間違っていても怒らないのであって、字が汚いのは話が別だ。
字が汚いことが悪いとは言い切れない。頭の回転が早い人ほど字が汚くなる傾向があるとも言われている。ペンの速度が思考力に追い付けないからだ。
だが、これは思考が伴う内容に限った話だ。事実を事実のまま書き留めるだけの帳簿には当てはまらない。情報を整理するのは書いた後だし、そもそもその役割はサニアと俺が担っている。
「書き方は間違っていませんから、そのことについては何も言いません。でも字が汚いと問題があるんです。今日から毎晩、文字の練習をしましょうか」
「えぇ……? 子どもじゃあるまいし……」
「場合によっては子どもよりも下手ですよ? 最低でも、人に見せて恥ずかしくない文字を書いてください」
「ぅはい……」
フランツは物凄く不満げな表情を浮かべながら不承不承に頷いた。
普段の文字が汚いのは構わないが、きれいな字が書けないのは問題だ。ビジネスマンにおいて、字が汚いのは大きなハンデになる。
たとえパソコンで印刷できる日本だとしても、手書きの文字を全く書かないということはない。お礼状は手書きが基本だし、取引先にメモを渡すことも考えられる。その時に字が汚いと損をする。
そう言えば、他人が書いたパスワードが読めなくて詰んだことがあったな……。暗号をさらに暗号化すんなよ、と思ったが、セキュリティ的には正しいのかもしれない。まあ、本人も読めていなかったわけだが。
閑話休題。フランツが居る倉庫を離れ、事務所に籠もる。
約半日を要して、A4用紙一枚分くらいのテキストを書き上げた。内容は、今後俺がよく使うであろうマーケティング手法について。さっきブルーノに説明した内容も含まれている。
ここでふと気が付いた。テキストを書いたはいいのだが、これ、俺が複製するの……? 大変すぎない?
というわけで、今回もルーシアに助けてもらう。
「ルーシアさん。申し訳ありませんが、お手伝いをお願いできませんか?」
フランツには頼まない。頼めない。だってあいつ、字が汚すぎるんだもん。誰にも読めないと思うよ。
「いいですよ。また広告の複写ですか?」
「違いますけど、それに近いです。今回はこれです」
そう言って、書いたばかりのテキストを見せた。
「え……っと。これは何でしょう?」
ルーシアは戸惑いながら言う。
「訪問するたびに教えるのがあまりにも手間なので、ここに集めて教えようと思ったんです。これはそのための教材です」
「なるほど……。チラチラと理解できない言葉が並んでいるんですけど……」
「ああ、聞きたいことがあったらその都度聞いてください」
まるごと写せと命令できたら楽ではあるが、拙い理由もある。手書きの突貫工事で書き上げた文章なので、誤字脱字がそこらじゅうにあるような気がするのだ。ルーシアからの質問を受け付けながら、文章校正をしたい。
「それではさっそく……。このイノベーター理論というものなんですけど、伺ってもいいですか?」
これはマーケティング手法の中で、広く普及している理論の中の1つ。スタンフォード大学の教授が提唱した理論だ。
「新しい商品が生まれた時の購入態度を、早い順に5つのタイプに分類したものです。詳しく説明しますね」
そう言って、説明を始める。
まずは2.5%のイノベーターが真っ先に採用し、次に13.5%のアーリーアダプターが飛び付く。ここまでが最初の目標だ。
それが上手くいった後、34%のアーリーマジョリティが食い付き、最後に34%のレイトマジョリティが採用する。残りの16%はラガードと呼び、この人たちは何をしても見向きもしない。
「イノベーターというのは?」
「新商品を真っ先に試す人ですね。新しいものにとても敏感で、誰にも知られていない時期から買うような人です」
「アーリーアダプターとはどう違うんですか?」
ルーシアから矢継ぎ早に質問が飛んでくる。説明文が足りなかったようだ。これは書き直しかな……。
「イノベーターは新しさや革新性だけを重視するのに対し、アーリーアダプターは実用性や利便性も考慮します。この層に受け入れられることが、普及の鍵になります」
「なるほど……。では、アーリーマジョリティとレイトマジョリティは何が違うんでしょう。そもそもマジョリティって何ですか?」
「マジョリティは多数派ですね。アーリーアダプターの行動を見て判断する人たちです。その中でも、受け入れが早い人をアーリー、遅い人をレイトと言います」
どうでもいいけど、この手の専門用語って横文字多すぎない? この国の言葉に変換するのがいちいち手間だったよ。途中で面倒になって、普通にカタカナ読みで書いたったわ。今はローマ字みたいになっている。
そのせいで理解が遅れているみたいなんだけどね。やっぱり書き直しだな、これは。
「分ける理由が分かりませんけど……」
「レイトマジョリティが手を出し始めると、普及が緩やかになるんです。他店がやっていることに便乗する場合、この人たちが手を出し始めていたら手遅れです」
「では、このラガードというのは何でしょう」
「完全に普及するまで動かない人です。場合によっては死ぬまで手を出しません。こういう方に営業を掛けるのは悪手ですね」
「ありがとうございます。なんとなく分かりました」
ルーシアは深々とお辞儀をした。ひとまずは理解できたようだ。
「それから、ターゲット層を把握することも大事ですよ。これはターゲット層を絞った後の話ですから」
要は女性向けの美容液なのに男性を分母に入れたらおかしくなるということだ。
ついでに言うと、アーリーアダプターとアーリーマジョリティの間には果てしなく深い溝がある。
アーリーアダプターが宣伝してくれないと、一般層に普及させることは難しい。その溝を飛び越えるために、インフルエンサーマーケティングを利用するのだ。
説明を終えると、インフルエンサーについても聞かれた。面倒ではあるが、ブルーノに説明した内容をルーシアにも繰り返した。
そして全ての説明を終えた時、ルーシアは恐る恐る声を出した。
「あの……この話、弟にもしていただけませんか?」
嫌だ! それは面倒くさい!
「近いうちに店主さんを集めて講習会をするので、その時に参加させてください」
「分かりました。そう言っておきますね」
ふう。二度手間は回避した。そして説明している間に誤字脱字を山ほど見つけた。こっちの二度手間は甘んじて受け入れる。どうせ全部書き直しだ。
原本を書き直し、改めて複写をした。念のため10枚、かなりの手間だ。夜中まで掛かってしまった。印刷機の開発が急がれる。誰かが作ってくれたら楽なのになあ。作ってくれないかなあ……。
いや、コータロー商店に作られたら嫌だな。今受けているコンサルタント業務が終わったら、本格的に開発に乗り出そう。





