自信過剰
石鹸工房の視察から数日が経った。ブライアンの店はオープンに向けて順調に進んでいる。もう少しでオープンできるだろう。
告知できないのがもどかしい。新聞は高いし、自前で広告を準備するにもコストがかかる。ブライアンには広告を書かせているが、100枚準備するだけでもやっとだ。
印刷技術が本気で欲しいぞ……。活版印刷なら、どうにか再現できるんじゃないかな。本気で開発に乗り出してみよう。
それはさておき、隣のババアからの嫌がらせが止まらない。ババアの旦那らしきジジイも参戦してきて、それはもう収拾がつかないものになっている。
少し目を離したら店外のカフェスペースのテーブルがひっくり返っているし、夜になったら石が飛んでくる。決定的な証拠が無いが、間違いなくとなりのババアだ。余程暇なんだろう。
「ツカサよ。今日も石が投げ込まれているわけだが、これはなんとかならんのか?」
ウォルターは庭に投げ込まれた大きな石を眺めながら、呆れたように言う。
でも、俺は嫌がらせをやめさせることは諦めている。隣のババアには何を言っても無駄だ。
「証拠が無いんですよね。それに、目立った実害もありません」
嫌がらせが地味なんだよ。イラッとする以外に特に実害がないというのが問題だ。もっと派手に動いてくれたら、大手を振って仕返しするんだけど。
「ふむ……。それはどうしようもないな。飽きるのを待つしか無いか」
「まあ、近いうちに対策を練りますよ」
と軽く答えを濁したが、いい加減鬱陶しくなってきた。そろそろ潰すための工作を始めようかな……。
営業開始の前に、投げ込まれた石を除去する。俺はこの作業を朝の準備運動のかわりにしている。投げ込まれているのは漬物石くらいの大きさで、一つ一つが結構重い。どこかから探してきているのだろうが、かなりの重労働だ。マジでご苦労さまだな。
敷地外に捨てたらどうせまた投げ込まれるので、庭の隅に積んである。1日数個程度だが、すでに山積みになっている。嫌がらせが終わったら、まとめて始末するつもりだ。
ただ、今日は特に量が多い。隣のババアの本気を感じる。いつもの倍以上、50個近い石が投げ込まれている。今日はフランツにやらせるべきだったな……。
せっせと石を移動させていると、カラスが近付いてきた。
「兄さん、お疲れさまっす」
眠そうに目を腫らしながら、ぼんやりとした様子だ。たぶん徹夜だったのだろう。
「おはようございます。どうされました?」
カラスが朝から店に顔を出すのは、かなり珍しい。ましてや徹夜明け。絶対に何かの問題を持ち込んできたはずだ。
「物件に空きが出たんすよ。見ます?」
「店の近くだったら考えますよ。見させていただきます」
カラスには、この近辺で空き物件が出たらすぐに教えるように言ってある。放置しても売れ残るだろうが、何かの間違いで買われてしまったら困る。自分が使いたいという理由の他に、変な店ができたら、こっちの売上にも影響が出るからだ。
ライバル店ができるのも当然厄介なのだが、他にも暴力の専門家が事務所を構えたり、悪臭や騒音を放つような物を扱う店が建ったりという可能性も考えられる。
可能性として一番高いのは、コータロー商店が買うことだろうか。今も事業の拡大を強引に進めているようだから、目を付けられたら厄介極まりない。
近いと言うだけで余計なリスクだ。安く買えるのであれば、できればうちの店で確保しようと思う。まあ、自分で使わなくても誰かに貸せばいい。俺の損にはならない。
「じゃあ行きましょうか。めっちゃ近いっすよ。びっくりするっす」
と言って歩き出したカラスを引き止めた。せっかくの男手だから、石の除去を手伝わせる。
「あ。その前に、石の除去を手伝ってもらってもいいですか?」
「え……? いいっすけど……これ、何の石っすか?」
カラスは怪訝な表情を浮かべて聞く。
「ちょっとした嫌がらせですね。別に困るようなことでもないので、放置しています」
「マジっすか? 兄さんの店に嫌がらせって……死にたいんすかね?」
いやいや、殺しはしないよ。それに、相手が俺じゃなくても嫌がらせはアウトだろ。
カラスの手伝いもあって、作業はすぐに終わった。軽くお礼をしたら、さっそく案内してもらう。
カラスの後について数歩進むと、カラスはスッと立ち止まった。
「ここっす。どうすか?」
隣だった。ババアの店が潰れたらしい。
「本当ですか? 前の店はどうなったんです?」
「あ、聞いていないんすね。昨日の夜、莫大な借金を抱えて逃げたっすよ。今はギンたちが必死で追ってるっす」
昨日の夜も元気に石を投げ込んでいたはずだが……。どうやら最後っ屁だったらしい。これで嫌がらせが終わったのか。
これから本気で仕返しをしようと思っていたのに。残念と思うべきか、嫌がらせが終わったことを喜ぶべきか。
「あ……ギンも金を貸していたんですね」
「そうじゃないっす。ギンは情報屋として手を貸してるだけっすね。貸したのは、もっと大口の金貸しっすから」
なるほどね。ババアはシャレにならない額を踏み倒したわけだ。これは地の果てまで追われるやつじゃないか。最後まで自業自得なやつだったな。
買うかどうかの判断だが、ここはうちの店の真隣。変なやつが買ったら大問題だ。資金に余裕があるなら買っておきたい。
しかも資料を見ると、破格の値段だった。すぐにでも現金化したいということなんだろう。かなりお買い得だ。
「まあ、いいでしょう。この物件は買いますよ」
「マジすか! マジで助かるっす……。ここの持ち主、この辺りの金貸しのボスみたいな人なんすよ……」
カラスはうんざりしたように言った。カラスはただの仲介屋なので、本来の持ち主は別にいる。寝不足の原因はこの件だったようだ。街中の金貸しが総出でババアを追っているらしい。見つかるのは時間の問題じゃないかな。俺には関係ないけど。
ただ、生きた状態のババアと会うことは、もう二度と無いだろうなあ。少しは仕返ししたかったんだけど、実に残念だ。
カラスは改めてお礼を言うと、眠そうにふらふらと歩いて去っていった。
新しい物件を手に入れたはいいが、使い道に困る。広さはうちの店と同じくらいで、飲食店に最適化された構造になっている。
今の構造を活かすためには飲食店をやるべきだ。カフェスペースを移動させるのが最善なんだと思うが、それだと人手が足りない。誰かに貸すか……。
とりあえず店に帰って考えよう。
「お疲れ様です。お忘れ物ですか?」
店に入ると、ルーシアが怪訝な表情を浮かべながら声を掛けてきた。
「いえ。物件を手に入れたので、その報告と契約の準備です」
「え? また買ったんですか?」
「はい。まだ用途を考えていませんので、いい案があったら教えてください」
「買い過ぎじゃないですか……? 大丈夫なんですか?」
ルーシアは心配そうな表情を浮かべた。
買い過ぎであることは自覚しているが、今のところは問題無いはずだ。
「確かに、急激に事業を広げることは危険を伴いますね。ですが、広げるにもやり方があるんですよ。大事なのは、自分のキャパシティを過信しないことです」
「どういうことでしょうか……?」
「上手くいっている事業が傾く要因の多くは、資金の枯渇、従業員の裏切り、信用の失墜です。これらの問題は、自分の仕事量が許容量を越えた時に発生します。それぞれの仕事に目が行き届いているうちは、そうそう失敗しませんよ」
過剰な借り入れ、従業員の不正行為、会社ぐるみの隠蔽でフルコンボ。よく聞く話だ。俺はこれらを避けるように注意している。
現金の流れは徹底的に管理していて、物件の購入は内部留保だけで賄っている。資金の枯渇は考えられない。従業員に関しても、信用を重視して選定している。裏切られる可能性は極めて低い。店の信用は言わずもがな。常に誠実に営業しているし、そのことは各工房にも徹底している。
「でも、上手くいっているときほど気を付けろ、という話がありますけど……」
「それは間違いありません。調子に乗っていると、キャパオーバーしていることに気付かないんです。『自分はなんでもできる』という錯覚に陥り、その結果自分の許容量を超えた仕事に手を出すんですよ」
必ずしも悪いと言い切れないのが怖いところだ。キャパオーバーは自身を成長させる要因にもなるので、急成長したいならある程度許容しなければならない。
だが、地盤がユルユルな今、急成長を狙うのはリスクが高すぎる。リスクを取るのは今じゃない。
キャパオーバーしないためにまず大事なのが、仕事量を増やしても働く時間が増えないこと。俺の仕事は多少増えているが、残業を余儀なくされるレベルではない。週一回のトレーニングが普通にできるくらいの余裕はある。
次に大事なのは、従業員に裁量を任せること。自分の仕事を増やさないためでもあるが、現場を円滑に回すために必要なことだ。
それらを踏まえた上で一番大事なことは、信用できる従業員に的確に教育を施すこと。俺が広げた事業は、全てがアイディアだけの単純作業だ。言ってしまえば誰にでもできる。そのため、とにかく信用だけを重視して人を選んだ。
「なるほど……。ツカサさんは大丈夫と言いたいんですね?」
ルーシアは不安げな表情を浮かべたまま言う。
「絶対とは言い切れませんよ。気を抜いているわけではありません。ルーシアさんも、気が付いたことがあれば何でも言ってください」
外的要因が無いとは言えない。隣のババアの嫌がらせが良い例だ。実害がなかったからいいものの、狡猾な相手だったら危なかった。それに、気付かないうちに自信過剰になっていることも考えられる。
ルーシアの指摘どおり、今回の物件購入は迂闊だったかもしれない。気を引き締めた方が良さそうだな。





