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不便

 情緒不安定気味のエマをルーシアに任せ、そのまま朝を迎えた。エマはルーシアの部屋に泊まったようだ。食卓に顔を出したエマは、目が腫れて少しやつれたような顔をしている。

 まあ、後は時間が解決するだろう。今日はエマを石鹸工房に移住させる。そこには広い住居スペースがあるので、実験用工房に住み続けるのは無駄だ。掃除係が居なくなるのは少し困るが、仕方ないな。


 エマを連れて石鹸工房にやってきた。エマは顔こそ酷いものの、平静を取り戻している。いつもどおりのエマだ。

 中途半端に準備された石鹸工房を2人で片付けると、石鹸作りの手順を教えた。


「では、この手順書のとおりに作業を進めてください」


 エマに渡したのは、メモ書き程度のレシピ。手順自体は難しいものではない。練習さえすれば、小学生でも作れるはずだ。


「本当に、これだけでいいんですか?」


 エマはそう言いながら、水酸化ナトリウムの白い結晶を摘み上げようとした。慌てて手首を掴んで止める。


「待ってください。素手で触らないでください。かなり危険な薬品なんです」


「えっ……? これ、石鹸の材料なんですよね?」


 石鹸は当然素手で触る物だ。そんな物に危険な薬品が使われているということが、信じられない様子だ。うん。俺も思った。推理小説で使われるような毒と油を混ぜるという話、小学生の俺には信じられなかった。


「油と混ぜると、安全なものになるんですよ。混ぜる前は危険なんです」


「石鹸って、そんな危ない材料を使っているんですね……」


 エマは、困惑したような様子で言う。危険と言っても、即死するような猛毒ではない。触らないことと、目に入らないこと、そして蒸気を吸い込まないことに注意すれば大丈夫だ。


「まあ、そうですね。扱いには注意が必要ですが、それさえ守れば大丈夫ですよ」


「こぼしたらどうするんですか? 拭き取るのも危ないんですよね……?」


「お酢を撒いてください。お酢の匂いが部屋にこもるくらい撒けば、安全になりますよ」


「……お酢? どうして……」


 エマは不思議そうに言う。説明しようにも、この国の一般的な化学知識が分からない。『中和』と言って通じるのかな……。


「水酸化ナトリウムは強アルカリなので、酸で中和するんです」


「強ある……? 酸?」


 通じなかった。説明が面倒だぞ。適当に濁そう。


「すみません、言い方を変えます。お酢とこの薬品が混ざると、違うものに変化するんですよ。それで安全になります」


「それって、油を撒いたらダメなんですか?」


 ……ん? その発想は無かった。油と混ぜて安全な物になるのなら、こぼしたところに油を撒いても問題ないじゃないか、と言いたいのだろう。


「油だと時間がかかりすぎるんです。石鹸を寝かせる工程がありますよね? その間に、ゆっくりと変化していきます」


 ついでに言うと、鹸化した油がこびり付いて酷いことになる。後が大変だ。お酢を撒いた後も酷いことになるが、お酢の方がまだマシ。


「なるほど……。じゃあ、できたての石鹸は使えないんですね」


「そういうことです。最低1日、できれば1週間以上寝かせてください」


「結構時間が掛かるんですね……」


「そうですね。待ち時間が多いと思いますので、暇があったら好きなことをしてもいいですよ。ただし、納期だけは守ってください」


 絶えず作り続けるのが理想だが、販売数を考えるとそこまでは作れないと思う。余った時間に遊んでいても、別に文句を言うつもりはない。


「では、いつから作り始めましょう……?」


「もうすぐ石鹸組合からの視察があると思います。それまでは、のんびりと練習してください。売り物にはできないので、気軽にやっても大丈夫ですよ」


「分かりました。やってみます」


 視察が終わるまでは、売り物を作ることができない。そのため、この期間を研究と練習にあてることにした。試作品は自分で使うか、試供品として配る予定だ。

 石鹸の説明はこれで終わり。カレルの時と同じように、しばらくは自分なりのやり方を模索してもらう。レシピさえ合っていれば、工程は自分で研究した方が効率が上がるはずだ。と言うか、自分で考えてもらわないと困る。


「では、僕はこれから用がありますので、そろそろ行きますね」


「はい……。何から何まで、ありがとうございました」


 エマは深々と頭を下げた。しばらくは仕事に没頭してもらおう。



 石鹸工房から出ると、次はギンを探す。エマの父親に金を貸してもらうためだ。しかし……邪魔な時は顔を出すくせに、必要な時に限って姿を現さない。面倒なやつだ。

 こういう時に携帯電話があれば……。日本は本当に便利だったんだな。この国に来て、そう痛感する。



 街を一通り歩いたものの、今日は本当にギンが見つからない。どこに居るんだよ……。

 闇雲に歩いていても仕方がないので、一度店に帰る。


「あれ? お早いお帰りですね。もしかして、話を聞きました?」


 ルーシアが戸惑いながら言う。いつもなら外回りをしている時間。あまりにも早い帰還に驚いている様子だ。


「何の話です?」


「ランプ職人さんから、荷物が届いていますよ」


 あ……やっと届いたのか。オイルストーブの量産品だ。蒸留器を追加発注したせいで、かなり遅れていたんだ。本当なら先月末に届くはずだった。


「届いたんですね。助かります。さっそく店に出しましょう」


 オイルストーブは、注文以上の出来だった。火力は強化され、火力調整機能まで付いている。お湯が沸くまでの時間が短縮され、さらに保温までできるようになった。


 これは商品だが、一部は店の備品にする。俺が持ち出す分と、カフェスペースで使う分だ。

 カフェスペースで提供されるお茶は、ルーシアが休憩室で淹れている。そこで使われているのは、従来のオイルストーブだ。これが新しくなる。手間が少し減るはずだ。


「2台はカフェスペースのために使ってください。残りは店に出しますが、一部はカップやケトルをセットにします」


「セット……?」


「はい。このオイルストーブ、初めて買う方々はカップやケトルを一緒に買っているんです。ですので、最初からまとめて陳列します」


 基本的に外で使うので、金属製のカップや小さなケトルが必要になる。俺が適当に選んで持ち出した物なのだが、みんなそれを真似して買っていた。

 だったら、最初からセットにして売った方が早い。食器にまで拘りたいなら、バラで買えばいい。


「なるほど……。でしたら、保管用の袋が欲しいですね」


「あ……そうですね。誰か縫製ができる人を知りませんか?」


 持ち運び用のセットなんだから、袋は絶対に要るじゃないか。失念していた。ついでに、おしぼりの縫製も依頼したい。


「あれっ? 聞いていませんか? イヴァンさんの奥様、結婚前は針子をやっていたそうですよ。今でも縫い物が得意だそうです」


「そうなんですか? それは知りませんでした。お願いしてみますね」


 イヴァンは商品の調達で頻繁に店に来るから、ルーシアと親しくなったようだ。俺はプライベートな話をしていないんだよな。

 蒸留水工房も待ち時間が多い。ライラはかなり暇しているだろうから、縫い物は全て任せよう。



 そうと決まれば急ぎたい。すぐに蒸留水工房に向けて出発する。店の扉を開き、店外のカフェスペースを横切った。

 すると、すぐさま俺の視界の外から誰かに話し掛けられた。


「兄さん、お疲れさまっす」


 ギンだよ……。満面の笑みを浮かべたギンが、ゆっくりと近付いてきた。


「どこに行っていたんですか……。さっき探したんですよ?」


 探している時は居ないくせに、用ができた瞬間現れる。狙っているんじゃないかと思うぞ。まあ、先にこっちの用を済ませるか。すぐに済む内容だ。


「え? なんか用っすか?」


「ちょっとお金を貸していただきたいんです」


「珍しいっすね。なんかあったんすか?」


「僕が借りるわけではありませんよ。僕の代理で貸してほしいんです」


「マジっすか? いいっすよ! いくらでも貸します!」


 ギンは小躍りするようなテンションで言う。妙に嬉しそうだ。俺が金貸しとしてのギンを頼ることは少ないからなあ。


 話を上手くぼかしながら、事の顛末を説明する。金を貸す相手はエマの父親だが、支払いの名義はエマ。しかし、少しややこしいことに、実際に金を払うのは俺だ。給料から天引きしてギンに渡す。

 さらに、追跡調査の依頼も済ませた。情報料は一月(ひとつき)5000クラン。かなり高いが、これでもかなり安くしてくれている。これも給料から天引きだ。


 エマの家族には、俺とウォルター商店の名前を伏せる。あくまでも、エマが直接依頼したことになっている。エマの居場所を特定されないための予防線だ。


「というわけです。毎月1日にお支払いしますので、取りに来てください」


「了解っす。楽でいいっすわ。兄さんが支払いを滞納するって、想像できないっすからね」


 ギンはニヤニヤしながら言う。普段は取り立てで苦労しているらしい。カレルの時も苦労しているようだったし、意外と貸し倒れが多いのかもしれないな。


「支払いは期日に。商人として当然ですね」


「本っ当に、世の商人どもが兄さんと同じ考えだったらいいんすけど。じゃ、オレは行くっす」


「ちょっと待ってください、今日は何の用です?」


 勝手に帰ろうとするギンを引き止めた。今日は俺の用を優先して話したが、ギンにも何か用があったはずだ。


「え? 用?」


 ギンはトボけた顔をして声を漏らす。


「……用があって来たんじゃないんですか?」


「……なんかあったような気がするんすけど、忘れたっすね。大した用じゃなかったんじゃないっすか?」


 いい加減すぎる……。まるで他人事じゃないか。まあ、重要な方の話はできたんだ。また思い出した時に話してもらおう。



 俺の依頼を遂行するために、ギンはいそいそと去っていった。俺も本来の用事に戻る。イヴァンの工房へと急いだ。

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