#1 Greasy People Concerto <Ⅰ>
#1 Greasy People Concerto
アル・マムラカ・ル・アラビーヤ・ッ・スウーディーヤ―――
通称、サウジアラビア王国という国がある。三百二十万平方キロ米という広大なアラビア半島の大部分を占める絶対君主制国家であり、世界でもっとも多い原油埋蔵量を所有し、名立たる大国の中で唯一、武力以外の力でもって(・・・・・・・・・・)アメリカ合衆国を黙らせることのできる存在でもある。
宗教はイスラームを国教とし、国民のその他の宗教への信奉を認めない。
憲法・法律など各種規定においてはイスラームの聖典『クルアーン』及びスンナを基準に、厳しい戒律と固い結束によって国内の情勢は保たれている。
強い仲間意識と華やかなアラブ人富豪たちの幸せの土地――――それが、サウジアラビアという国である。
ただし、そのなかに女性が含まれることは無い。
照明の落とされた部屋の中央に、青白い光源。
ところどころに埃が纏わりついたノートパソコンの液晶には、中央に二筋の影を落とした真っ白な部屋が映し出されている。像は非常に粗く、端に見切れた家具と思しき物体も、その傍らの小さな影も、そのなにかというのは判断ができない。あるいはそこにあるものを文化的な違いから、認識することそのものが困難であるためかもしれないが、しかし、第三者の解説なしでは、少なくとも中央に移りこんだ二つの影が男性と女性の二人の人であることと云うのは、到底気付くことなどできない事実であった。
実際に、現在この光源を覗き込んでいる―――幼さの残った顔立ちの、ハンチング帽を被る少年と、長い髪を頭頂部近くに結わえている妙齢の女性―――加えて、少し離れた位置で安楽椅子に揺られている、鼻の低い、お世辞にも整った顔立ちとは言えない真黒なジャケットの男。この三人は、傍らでハンダ付けに勤しんでいる、目元まで隠れたマッシュルームカットの白衣からその仔細を耳にするまで、自分たちが何を見せられているのかさえ知りえなかったのだった(もっとも、ジャケットの男の視界に画面が入っているのかが怪しいところではあるが)。
「そこに映ってる・・・そう、左の方ね・・・・それが目的」
錫が融点に達したことで立ち上る臭気と白煙を舞わせつつ、マクフィー・レミントンは八重歯をちらつかせて三人に語りかけた。声をかけられた方のうち二人は押し黙ったまま、液晶の内部で繰り広げられることの顛末を見逃さんとしている。離れている一人は、つまらなそうに足を投げ出している。
マクフィーは三人から反応がないことについては何の興味も示さず、むしろ目の前の工作が順調に進んでいることからくる喜びを微かに口元に露わにしながら、さらに続けた。
「左の黒い影が、アメリ・テルメリ。エジプト人女性。出稼ぎってことで、サウジの名門サウーズ家の家政婦をしてる。右のが、メフメト・グーズイン・サウーズ。この家の主人だ。その国の、たっくさんいる王族の一人」
「金持ちか?」
安楽椅子の男が、顔を上げた。
「金持ちってレベルじゃないな。確認しているだけでも、エドモントのスタジアムがひとつ丸々入りそうな豪邸を少なくとも六件。彼自身は何も生産しちゃいないし、毎日道楽にふけっているだけなんだけれどね」
「仲良くなったら飯でも奢ってくれるかもな…あいつら、気前だけは良い。金持ちのそういうとこ、嫌いじゃないんだ」
「兄貴、前に『宗教と金持ちがこの世で一番嫌いだ』って言ってませんでしたっけ」
「『もし殴ることができるならばイエスとマホメット、それからビル・ゲイツ』とも言ってましたね、フロイトさん」
二人の会話に割って入ったのは、映像と睨めっこを続けていた少年と女性だった。
口火を切った方のコルト・K・シュリヒト少年は、辟易を満面に浮かべる。対してその隣で未だ光を放つディスプレイに釘付けでいる女性―――バルトロメア・バルテルミーは、その穏やかな相貌を寸毫の変化もないまま、そこに浮かび上がらせている。
フロイトはコルトから注がれる白い視線を、少しばかり口角を上げて「当たるなよ」と往なして見せる。同時にひらひらと揺らす左手は―――なるほど、数時間前に催されたカードゲームの残滓へと目線を運ぶ動きだった。連日連戦、昼食後に彼らの間で行われるババ抜きはコルトの連敗に終わっているのである。
少年はますます不機嫌そうな顔つきのまま、ルルに倣って液晶画面へと向き直った。
鋭い視線が途切れたのを確認すると、フロイトはお気に入りの安楽椅子からおもむろに立ち上がり、ストレートチップが奏でる軽快な靴音とともに二人の後ろに周って行った。
「画質はガキが作ったモザイクアートに違いないが―――音声だけは明晰だろ?王族の御坊ちゃんが、嫌な趣味嗜んでるのが良くわかる。そうだろ、フロイト?」
「これって―――」
「―――家政婦への虐待。パワーハラスメント…になるんですかね、兄貴」
「別に珍しいことでも無いさ。だからといって誉められたことでも無いけどな」
「特にサウジアラビアはね」
サウジアラビアの『カファラ』は、湾岸諸国一円の特殊な労働契約システムである。
フィリピンやエジプト、インドネシア、その他さまざまな国からこの地域に流入してくる外国人出稼ぎ労働者の多くは女性であり、王族や石油の管理・利権により富を得ている富裕層は、彼女らを家政婦として雇い入れる。そこで機能する『カファラ』は、国際的に「人権という概念が崩壊した国家」として高名なサウジアラビアという国の「人権」を、判然と示してみせるものである。まず非常に理解しやすい例を挙げるとすれば、出稼ぎ労働者の海外渡航が雇用主の承諾なしには禁止されているという点だ。
「彼女たちは、逃げられないんだよ。故郷に帰ることすら許されてない。逃げ出そうとしたらパスポートを取り上げられたとか、手首を切り落とされたとか、そんな話だってある」
ハンダ籠手を片手に、マクフィーは大して気の毒そうな顔もせず言った。
煙の充満しつつある部屋に、陽光が差し込む。
鉛を含んだ刺激臭に耐えきれなくなったコルトが、黄ばんだカーテンを開き、続いて小窓を開け放とうとしているところだった。暗くて湿った部屋を気に入っていたマクフィーは「あー」と情けない声を上げてそれを止めようとするが、それは空しく終わった。
澄んだ空気が部屋に流れ込み、埃を巻き上げる。舞い上がった塵芥を吸い込んだルルは小さく咳き込んでから、ノートパソコンを閉じる。真後ろに居たはずのフロイトの姿は、すでにそこには無かった。
風と一緒に、ディフェンダーの低いエンジン音が部屋の中を駆けまわった。