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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第三章 : 桃翼のニケ
9/60

1:注意散漫

 民間グラウンドの更衣室。古びたロッカーに囲まれて、(さくら)は直立不動で監督を見据えていた。更衣室の左隅にポツンと据えられた事務用デスクを挟んで、五十代半ばの男がやつれた顔で座っていた。開いているのかよく分からない程に細い目で桜をじっと見つめている。

 男はおもむろに重々しい口を開いた。

「次の試合でメンバーを確定する。結果が出せなければ……佐伯(さえき)。惜しいがスタメンを外れてもらうよ」

「……はい」

 覚悟はしていた。ここ五試合まともに打てていない。前回の試合で当てたものの完全に内野フライコース。相手チームのエラーに助けられ、なんとか出塁出来たが、その日はそれっきり。今日も二打席目にバントを成功させたのみ。県大会を間近に控えた四番打者にはあるまじき事である。

 桜は右手の帽子を強く握った。

「まぁそう気負うな。まだ五日あるんだ。まずは家でしっかり休むこと。これが基本だよ。今日も妹さん来てくれていたんだろ? 色々聞いてみるといい」

「……そうします。ありがとうございました」

 深々と一礼し、桜はどんよりと古びた更衣室を後にした。

 グラウンドにスラリと立つ時計には羽虫が集まり始めていた。午後七時。まだ西の空に沈みきらない太陽は灼熱の光を背に当ててきた。ユニフォーム姿のまま、桜は帽子をかぶり直してスポーツバッグを担ぐと、重たい足を奮い立たせて家路を急いだ。

 家までは電車で二駅。つい先日、一駅前の砂子市で【死の電話(デスコール)】関連の自殺があったばかりだが、報道が騒ぎ立てるのと裏腹に、街は早くも賑わいを取り戻しつつある。事件があった交差点も封鎖を解除しているという。実際のところ、電話が来たなんて話を聞いたことがない人間にとってはただのオカルト話である。ホームの時刻表板横に貼られた【死の電話】警告ポスターを眺めながら、桜はぼそりと呟いた。

「警告されたところでどうしようもないじゃない……」

 改札を通り抜け、中央出口へ向かった。帰宅ラッシュの人混みの向こう、ようやく暗がりを見せ始めた外から駆けてくる少女がいた。夜にもかかわらず差している日傘がぼうっと白く浮かんでいる。

「お姉ちゃんお帰り!」

 おかっぱの少女は弾ける笑顔で桜に飛びついた。傘の骨が刺さりそうだ。桜は体を反らして腹にうずめられた頭を撫でながら驚いたように言った。

「桃葉。帰ったんじゃなかったの?」

「あ……、えーと、友達に偶然会ってね、買い物してたら、丁度良い時間になって……」

 顔を上げた桃葉(ももは)は言葉を探すべく目をフヨフヨさせていた。眉より上でパッツンと切りそろえられた前髪のお陰で、表情は丸わかりだ。桜はため息を吐くと、妹のピンクのワンピースを指差して言った。

「ずっと待ってたな? 夏になったとは言っても夜は冷えるし、危ないんだから外出は控えなさい」

「はぁい」

 桃葉は舌をペロリと出した。まばらな人影集まるロータリーまで出ると、傘をクルクル回して、頭ふたつ大きな桜の手を引いた。

 駅から家まではほぼ一本道。街灯は青白く光り、家々からは美味しそうな匂いが鼻をくすぐった。お腹は空いているが、食べられる自信がない。今日の夕飯は抜いてしまおうかと、桜はぼんやり考えた。

「お姉ちゃん大丈夫?」

「えっ、なにが?」

 不意に問いかけられ、桜はドキリとした。もしや監督からの通告をもう知っているのだろうか……?

 だがその考えは杞憂だったようだ。桃葉は眉根を下げ、恐る恐る付け加えた。

「……変な電話とか、かかってきてない?」

「ああ、そのこと」桜は胸を撫で下ろした。「大丈夫だよ。心配なら着信履歴見せようか?」

 あまりにも軽くあしらうことに憤慨しようと口を開きかけた桃葉の頭を、優しく撫でて黙らせた。少女は不完全燃焼の如く、口をすぼめてそっぽを向いた。

「いいよ、そこまでしなくても! お姉ちゃんの赤裸々な個人情報を知っちゃ悪いしね。彼氏に!」

「いや、いないから……って、何言わせるの!」

 顔を赤らめて冷や汗をかく姉を、桃葉はニヤニヤと見つめた。してやったりと言わんばかりの笑みを浮かべ、ご機嫌に鼻歌を歌い出した。

 桜とは対照的に、妹の桃葉は巷で話題のこのオカルト現象を信じていた。ついに隣町で事件があったからと、それからは毎日帰宅するたびに訊ねてくるのだ。少々鬱陶しいが、信じ切っているあたりが可愛らしい。桜は己の冷めた心を少しばかり嘆いた。

 冷たい夜風が頬を撫でた。いつの間にか先々行っていた桃葉が家の前で手招きしている。今時珍しい、煙突のある家からはスパイシーな香りが漂っていた。

「晩御飯はカレーだよお」

 桃葉は急かすようにそれだけ言うと、さっさと家の中へ入っていった。

 お腹は正直に早く帰れと言っていた。迎えは要らないと言った手前、桃葉との他愛ない会話で随分と気持ちは軽くなった。今なら晩御飯も食べられそうだ。

 桜は駆け足で薄明かり灯る家へ飛び込んだ。


     *  *  *


 ニュース番組も終わりが近い。テレビでは「今日のうらなーい」と可愛らしいマスコットがはしゃいでいる。姿見の前で、桜はなんとか寝癖を誤魔化そうと格闘していた。短く切り揃えられた髪は、天然パーマも手伝ってあちらこちらに好き放題跳ねている。頭のてっぺんに押さえつけた櫛を離す。にょっきりアンテナが立ったところで諦めた。

 桜は八時前を指す鳩時計をチラリと確認した。

「そろそろ学校行ってくるね。昼からの練習にはそのまま向かうから」

「分かったー」

 ソファーで野球ボールのクッションを抱き、テレビに釘付けのまま返事をする桃葉に、桜は恨めしそうにため息を吐いた。

「通信制ってそういうところは良いよねぇ。毎日暑い中通わなくていいんだもの」

「お姉ちゃんこそ、夏休みに入ったっていうのに毎日補習で学校なんて御苦労なことで」

 あっさりと返され、ぐうの音も出なかった。

「ええ、どうも! 出来の悪い姉で苦労をかけますね! じゃ、行ってきます!」

 スポーツバッグをひっつかみ、さっさとリビングを出ようと背を向けた時、桃葉が大声をあげた。

「あーっ! お姉ちゃん大変! 今日の四月生まれは『運命的な電話があるかも』だって!」

 桃葉はテレビを指差して驚愕の表情を浮かべていた。桜は少し面倒くさそうにテレビに目線を戻した。画面には一二ヶ月全てに一言とラッキーカラーのついたリストが出ている。確かに四月生まれの欄には電話に関するようなことが書いてあった。

「運命的ねぇ。確かに監督から何か来るかもしれないし、すぐに電話に出れるようにはしておこうかな」

「お姉ちゃん! 真面目に言ってるんだよ!!」

 桃葉はソファーから身を乗り出して憤慨した。鬼気とした眼差しが桜の身体を突き刺している。一瞬その剣幕に驚いたが、所詮は小学生の純粋さ故のことだと割り切った。

「大丈夫だよ。何かあったらちゃんと連絡するから。ほら、もう時間だから今度こそ行ってくるね。外に出るときはちゃんと帽子と日傘だよ。忘れずにね」

 優しく妹の頭を撫でると、桜はそそくさと家を出て行った。

 残された桃葉は悔しさに涙を堪え、玄関が閉まると同時に大声で吐き捨てた。

「お姉ちゃんのばかっ!」


     *  *  *


 全室エアコン完備だというのが、この高校を決めた第二の理由だ。

 だが、その魅力的要素も連日の猛暑に()を上げたようで、現在故障中。教室の一番後ろで一台の扇風機が雀の涙ほどの風をせっせと撒いていた。

 教壇の上では、定年間近の数学教師が、つらつらと退屈な解説を述べ上げながら黒板にチョークを走らせていく。いつもより大きな教室というのもあって、前側へ座っている生徒は少ない。皆後方へ集まっては始まったばかりの夏休みの予定話に花を咲かせたり、夜更しの後遺症が生じていたりしていた。まだ受験意識の薄い二年生集団の中、この補習をまともに受けている者はほとんど居なかった。

 桜も例外ではなく、窓際の一番前の席で、数学の教科書を盾にボイスレコーダーをいじっていた。教壇に立った時の目線だと、この席が一番目に留まりにくいのだ。青色のイヤホンからは聞き慣れた声が語りかけてくる。

『四回のウラ。桜、重心やや高め。一球目……百四キロストレート。判定ストライク……えー、今の見にいっちゃダメでしょ――』

 解説者顔負けのしっかりとした口調が続く。今朝、馬鹿の捨て台詞を残した人物とはとても思えない。

『五回のオモテ。相手チームバッター二番、野津さん。ワンアウト、ツーボール、ワンストライク。北本さん、八球目。平凡なセンターフライ……桜、キャッチ……あー、少し左によろけたな――』

 選手名、進行回、球種……聞いていてもその試合が浮かぶほど、細かなところまでしゃべり続ける桃葉の声を桜はじっと聞いていた。しばらく聞いていたかと思うと、弾かれたようにノートにシャーペンを走らせ始める。場所などこだわらず書き走ったノートには『ルート五×三分のニ――五回表。センターフライキャッチの重心……』などと新たな公式と化していた。

 レコーダーが八回に突入した。自分の守備範囲内に打球が三球連続でやってきたところだった。二球目が封殺打となり、一挙ツーアウトにしたことで解説者桃葉のテンションが上がってきていた。

 不意に背中をつつかれ、反射的に振り返ると、桜の後ろに座っている女生徒が、苦渋の表情で控えめに前方を指差していた。桜がその動作の意味を理解した時には、目の端に立つ人影に凍りついた。レコーダーでは桜を含め三人が平凡なフライをお見合いしたところで、桃葉が悪態をブーブーついていた。教師の得も言われぬ眼差しの最中(さなか)、桜はゆっくりとイヤホンを外した。

「期待に応えようと努めるのは結構だが……頭も動かさないと試合に勝てないんじゃないのか? なぁ、佐伯?」

「……………………おっしゃる通りです」


 その日、休み明けのテスト実施を宣告された。

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