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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第二章 : 青い瞳
6/60

1:対面

 空を飛んでいた。


 上へ上へと飛んでいた。


 澄み渡る青空の海を紫陽花は泳いでいた。両腕を広げ、長い髪に余すことなく風を走らせる。眼下に続く砂子市はみるみる小さくなっていく。こうしてみると大都市と言えど、その大きさはたかがしれていると思えた。

 空になりたい、か……。

 内原緑都の言葉がふいに脳裏をよぎった。

 内原緑都が最後に残した言葉。それを知っているのは緑都自身と紫陽花――おそらく二人だけだろう。あの静かで柔らかで諦めにも似た笑みから察するに、そう何人もの人間には言いふらしていまい。かと言って、当人を除けば自分しか知らないなど断言するのは自意識過剰以外のなにものでもないじゃないか。

 紫陽花は軽く嘲笑した。

 なぁーに考えているんだか。

 どうもスイマセンでした! とでも言うように、ちょっと舌をだして額をぺちりと叩く。

 だが、その茶目っ気じみた表情は数秒と保たずに消え失せた。

 でも、さ。

 こうも思わないか?

 私なら……。

 私だったら……。

 最後の言葉くらい、想いを寄せる人だけにでも伝えておきたいよね……。

 顔が火照るのを感じた。緑都が自分のことを好いているとついさっき、それも第三者である朱里に教えてもらったのだ。己では気付きもしなかったくせに、よくもまあ偉そうにそんなこと言うものだな。やっぱり自意識過剰なのか……。

 自己嫌悪に陥っていたその時、ヴンッ! という音とともに光の穴がぽっかりと空に開いた。

「――!?」

 その穴を認識する間もなく、意志とは無関係に飛行を続ける紫陽花の体は光の中へと飛び込んだ。



   *   *   *

 


 痛い。


 最初に思ったことがそれ。腹でも頭でも手でも足でもなく、

 目が、痛い。

 気がついたときには有無を言わさずそうなった。いや、そうならないはずがないのだ。

 真っ白な部屋。その片隅にぽつんと置かれたベッドに紫陽花はいた。壁も、床も、天井も、紫陽花が今し方まで眠っていたこのベッドでさえも。くすみ一つない純白は、磨き上げられたタイルのように目映いばかりの光を放つ。この眩しさは――あれだ。晴れた日の雪原だ。

 修学旅行で行った雪山もこんな感じだった。一面真っ白な世界が光を放ち、刺激する。目を閉じても残像が残る。真っ暗なはずの瞼の裏は夜明けのように薄明るかった。それが何故だか気持ち悪くて、その時は空を見上げた。真っ青な空は絵の具みたいに大袈裟なくらい鮮やかで、とても自然には思えなかったけど、心地の良い癒しの色だった。

 今ここに、見上げる空はない。どこに目をやろうとも、映るのは鋭利な白。目を閉じて逃げた先には真っ暗な薄明かり。

 最悪の状況下に置かれていることには違いない。

 二、三度瞬きする間に、部屋の様子はほぼ掴めた――というより、掴むほどのものがなさ過ぎるだけなのだが。

 十畳程の中途半端に広い部屋には、同じく真っ白なドアと、随分高い位置にある小さな窓――通風口と呼んだ方がしっくりくる――が一つ、紫陽花が眠っていたベッドに、誰かが看病していた気配が窺える机と椅子が一組、ベッド脇に静かに添えられていただけだった。

 一面の白が実際よりもさらに部屋を広く見せていたが、外と遮断されたこの空間は押しつぶされそうなほど息苦しい。まるで牢獄にいるみたいだ。

「朱里は……いるわけないか」

 ほんの少し期待してみたが、すぐに冷めた。意識を失う前に見た朱里の顔と悲痛な叫び――尋常ならざることだったのだろう。朱里は確かに茶目っ気があるが根は真面目だ。過ぎたおふざけをするような人でないことは自分が一番よく知っている。だから、あの出来事が夢でないことは容易に理解できた。

 紫陽花はがっくりと肩を落とした。我ながらなんと神経の図太いことか。この訳の分からない状況下で、叫ぶでもなく喚くでもなく夢であって欲しいと願うわけでもなく、あっさりと納得して動こうともしないのだ。よく言えば適応力に優れているのかもしれないけれど、まあ、単にずぼらなだけ。こんな時まで素の自分が出せるとは、いや天晴れ。

 眉間にシワを寄せてしっかと瞑る瞼の裏にはチカチカと星が光り始めてきた。

 鳥のさえずりが微かに聞こえた。木の葉が風に揺れる音も。まったく何もない所というわけではなさそうだ。

 だが、それが分かると途端に物足りなさを感じた。

「お腹……すいたな……」

 おかしいとは思っていた。さっきまでファミレスにいたのに、ここまで運ばれるのに時間がかかっていたとしても、自分はずっと眠っていたのに。

 何より自分は、あの時確かに体を抉られる感覚を覚えたというのに……?


 ガコン


 静寂は破られた。

 鉄扉独特の重く耳に引っかかるような音と共に、誰かが部屋に入ってくる気配を感じた。紫陽花は目を閉じたまま、顔だけを入り口の方へ向ける。その人物はベッドに座った紫陽花を見ると、弾むような声をあげた。

「おお、起きたのか! いやあ良かった良かった! なかなか起きないからすげぇ心配してたんだぞ? 気分はどうだ? 一応いくつか薬を持ってきたからな。遠慮しないで何でも言ってくれ!」

 少し早口だがはっきりとした男の声。弾むような響きが大らかな風合いを感じさせる。無邪気な子供ともとれるその口調から、ひとまず敵意はないとみて良さそうだ。

 男の気配が間近になった。紫陽花は一瞬警戒したが、ベッド脇の机に薬の類を置いただけのようだ。嬉しさ故か、微かに鼻歌も聴こえる。

「このまま起きないんじゃないかと気が気じゃなかったんだよー。アニスなんか『このまま起きなかったらあんたのせいだ』なんて言うしな――あ、アニスってのは俺の相方で、これがもう口は悪いし乱暴だしで俺は毎日毎日――」

「誰が、口は悪くて乱暴だって?」

 男が息を呑む音がはっきりと聞こえた。そう言えば、微かに聞こえていた足音が途切れたなと紫陽花は思った。

「い、いや。何も言ってないぞ。うん。俺は何も――いでっ!」

 バコッという生々しい音が響いた。乱入した声の主――アニスは聞えよがしにため息を吐くと、呆れ果てたように言った。

「バカなこと言ってないで、早いとこあいつを呼んできな」

「なんで俺が――」

「見知らぬ男と二人きりにさせる訳にいかないだろ。ここは私に任せて探してきてくれ。さっきから見当たらないし」

「お前……。探すの面倒になっただけだろ?」

「ご名答だ。だから褒美に探す権利を譲ってやるよ、いってらっしゃい」

「あーもう! 覚えとけよ!」

 文句たらたら、男が盛大な足音とともに部屋を離れて行った。静けさを取り戻した部屋は、さわさわと木の葉が擦れる音が聴けた。

「起きて早々に騒がせてしまったようだねえ。まったく、男ってのは口ばっかり達者なんだから。何年経とうが治りゃしないし、手際の悪さといったら計――」

「……あのっ……」

 黙っていれば延々と続きそうな言葉を遮って紫陽花は恐る恐る声をあげた。アニスは特に気にするでもなく「ん?」と訊き返す。

「眩しいんだけど……この部屋、壁も床も真っ白過ぎて」

「………………眩しい?」

 妙な間が空いた。そういえばさっきから目を瞑ったままだなと、アニスは眉をひそめた。

「そう。さっきから眩しくて目が開けられないでいるの。これじゃあなたの顔も見れないんだけど、なんとかなりません?」

「…………」

 返事はない。だが、すぐ傍にいるのは分かる。異様なものを見るような視線が突き刺さってくるのだ。……私は何かおかしなことを言っただろうか?

「あの……?」

「――え? ああ、ごめんごめん。眩しい……んだね? ちょっと待って。今直すから」

 アニスは部屋の入り口まで戻ると、扉の左横の壁を軽くノックした。

 直後、パタパタという音が部屋中を駆け巡った。まるで無数のタイルが裏返っていくかのように。

 紫陽花の瞼の暗闇が深みを増した。

「もう大丈夫だろう。目を開けてごらん」

 アニスの落ち着いた声に促されるままに、紫陽花はゆっくりと目を開けた。澄んだ青色の瞳が二つ、部屋にぼんやり浮かび上がる。

 一面真っ白だった部屋は一面薄い灰色に変わり、ますます牢獄らしくなっていた。ベッドが白いままなのがせめてもの救いだった。

 コツコツと靴音が響き、紫陽花はその方へ目をやった。アニスと呼ばれた長身の女がベッド脇で足を止めた。声からおおよその人物像を勝手に描いていたが、あながちずれてはいないようだ。

 緩いウェーブがかかったキャラメル色の髪は歩く度に宙を踊り、銀縁の黒コートですっぽりと覆われた体はスラリとした理想的な体型をしている。その立ち姿と整った顔立ちは、姉御肌である印象を受けた。

 ただひとつ、予想を大きく覆されたのは、彼女の深紅の瞳だった。深紅というには鮮やかすぎるほど純粋な赤――鮮血の色。とてつもなく魅力的で、とてつもない恐怖がそこにはあった。


 あれは人間の瞳ではない――。


 紫陽花はその女を見つめたまま動かなかった。直感から芽生えた恐怖に凍りついたのもひとつだが、アニスにも驚きの色が映り自分を捉えていたのが分かったからでもある。

「嘘でしょう……?」

 アニスの口からぼそりと言葉が漏れた。信じられないとばかりに頭を振ると、紫陽花にぐっと顔を近づけた。揺れる髪からほのかに漂う柑橘系の香り。彼女の鮮やかな瞳に映る紫陽花の瞳の色が混ざりあい、紫と化していく……。

 近くで見るとやっぱり綺麗な人だと思った。彼女の強い視線にドキリとする。もし自分が男だったら、このままキスをしてしまっているかもしれないなぁ、と思ってみたり。

 それはさておき。

 なぜ彼女が驚くのか、何が信じられないのか、紫陽花にはさっぱり分からなかった。いや、そもそも分からないことだらけだ。ここはどこなのか、なぜ自分はこんなところにいるのか、朱里はどうしたのか――訊かねばならんことは山ほどある。

 だが、今の紫陽花にはそんなことどうでもよかった。さっきから我慢しているがそろそろ限界だ。

「あんた……その瞳は……」

 アニスが注意深く紫陽花を見据えて口を開いたちょうどその時――




 ぐきゅるるるるるるるるるるる――――――!!




「……………………あ?」

 アニスの目が点になった。

「お腹が空いた。何かもらえると嬉しいんだけど」

 紫陽花は特に照れるでもなく、しれっと訴えた。アニスはよろりと一歩後ずさると、ぷっつりと張りつめた糸を切られたように腹を抱えて笑い始めた。しっかりとした声は高らかに響いた。

 ひとしきり笑い終えると、呼吸を整えつつも余韻の笑いを起こしながら愉快に続けた。

「これは気づかなくて失礼。腹が減ってはなんとやらってね。積もる話はそれからにしよう。簡単なものだけど、すぐに持ってくるから待ってて頂戴な」

 アニスは紫陽花の頭をくしゃくしゃと撫でると、大股に部屋を出ていった。

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