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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
終章
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終章

 早朝。リンゴいっぱいのバスケット片手に、薄暗い廊下をアニスは足早に歩いた。病室が連なるこの階は元々静かだが、まだ夜も明けきらない時間は特にがらんとしていた。

 死神王(ししんのう)交代の話題は瞬く間に広がり、先代の秘書が生きていたという事実は死神達に衝撃を与えた。椿(つばき)が正体を明かすことに最初は渋っていた杜若(もりわか)も、真実を伝えるべきだという彼女の揺るがない意志に賛同したようで、後日、先代王の事件からすべてを明らかにするそうだ。

 紫陽花(しょうか)の元にも死神達は押し寄せた。歴史を変えた人物となった彼女の生還を共に喜び、別れを惜しむ声も多かったと聞く。治療が立て込んだせいで会う時間は限られてしまったが、その時の紫陽花の表情は今までで一番生き生きとしていたように見えた。

 目的の部屋に着くと、アニスはひとつ息をついて、白い簡素な扉を勢いよく開けた。

「調子はどうだい? アジからリンゴをもらっ――」


「あっ……」


 指立て伏せをしていたカイがぱちりと目を瞬かせた。

 ゴロン。ごろん。とリンゴが音を立ててアニスの足元に散らばる。

 青ざめていくカイの耳に、ブチン! と確かに聞こえた。

「……ほう。あんたはよほど私に斬られたいらしいなあ? ――いいだろう。そんなにお望みなら、二度と動けなくしてやろうじゃないか。ん?」

 メラメラと殺気を立ち昇らせるアニス。

 カイは目に涙を溜めて、しばらく子犬のように震えていた。



 薄い朝日が差し込む窓辺は柔らかい風が肌を撫でてくる。包帯を丁寧に取り替えてくれるアニスの手が、少し冷たくてくすぐったかった。

「――アジにまで『ヒーローになりたい』なんて言ってたのかい?」

 唐突な問いに、するするとリンゴをむいていたカイの手が止まった。しばらくして思い出したようにはにかむと「まあな」と小さくうなずいた。

「本当のこと言えばいいじゃないか」

「おいおい。ヒーローになりたいのだって本当だぞ? いいじゃねぇか。そのほうが夢があるだろ?」

「あんたらしいねぇ」

 そう呟いたアニスの表情が、露わになった背中にわずかに曇った。

 褐色の背中には手のひらよりも大きな傷が、火傷の痕のように生々しく残っている。

「――なあ、アニス」

 リンゴに視線を投じたまま、カイはおもむろに口を開いた。刃先から放たれていく紅白の帯がくるりと螺旋を描いていく。

「お前は死神が人の死を左右できちまうって言ってたけど、案外、そればっかりじゃないのかもな。なんだって終わりが見えなきゃやる気にならないもんだろ? 人生だって、残りの時間が分かって初めて自分らしく生きようとする――時間一杯生きるのも、早く死ぬ道を選ぶのもそのひとつだって言うなら、俺達は死へ誘導しているんじゃなくて、生を後押ししてるってことなんじゃないかな? ――アジが俺達のことを『生きてる』って言ってくれたみたいにさ」

 そう語る後ろ姿が、急に大きく頼もしく見えた。朝日を受けた金髪が稲穂のようにまばゆい。穏やかな口調は、元気づけようとしてくれているのだとすぐに分かった。

 アニスは短くため息をついて、新しい包帯を手際よく巻いていく。

「――そうだといいねぇ。ヒーローさん?」

「……お前、馬鹿にしてるだろ?」

「そんなことないさ」クスクスと上品に笑うと、最後の結び目を整えた。「はい、終わり。あんまり動くんじゃないよ」

 救急箱を閉じてアニスは窓の外を眺めた。朝焼けの空は水彩のように淡く暖かい色合いをしている。山裾は空と一線を引くように白くなっていた。

「――新世界の創造、か。この身がもってくれればいいんだけどね……」

「まあそう焦るなって。あいつならやってくれるさ。俺達は、信じてやればいいんだよ。それに、どうせこれから忙しくなるんだ。今くらいのんびりしたってバチは当たらねえだろうぜ――よぅし、出来た!」

 弾んだ声をあげると、キョトンとするアニスの前に皿を差し出した。きちんと整列したそれに、彼女の表情も自然と緩んでいった。

「これからもよろしくな。アニス!」

 ヒーローは無邪気な笑顔で朗らかに言う。

 可愛らしいうさぎリンゴは、ほんのりと優しい味がした。

 

   *  *  *


「どうして逝かせてくれなかったの?」

「どうして逝こうとしたんですか?」

 柔らかいその響きに紫苑(しおん)は一瞬口を噤み、そっぽを向いた。

 天国の塔(ヘヴンズタワー)最下層。暗い鍾乳洞にぽつりと設けられた祭壇に、いつもの水晶の玉座はない。代わりに、絹のようになめらかな白衣をまとった紫苑が立っていた。どこからやってくるのか、まばらな光が祭壇の周りを蛍のように漂っている。

 その祭壇を仰ぎ見るように、緑都(ろくと)が苦笑交じりにぼやいた。

「人に存在がどうこう言っておきながらそれは無いでしょう。ひどいなあ」

「……どうしようと私の勝手よ。――それより、君はこんなところに来ている場合じゃないんじゃないの? 彼女、今日帰るんでしょう?」

「あなたこそ最後まで本当にお節介ですね。どうしようが僕の勝手、ですよ」

 紫苑が今度こそ苛立ちに顔を歪めたので、「冗談です」と謝罪した。

「伝えることは伝えましたから。それに、見送るのは僕の仕事じゃないですしね」

 そう答える青年の表情はとてもさっぱりとしているようだった。

 今回の一件で緑都はめでたく正式な死神となった。竹織(たけおり)の王位継承儀式が済んでいないため、まだ武器もブローチも持たないが、背に流れた真新しい臙脂のマントがすらりとした青年にはよく似合っていた。

「……あんなに消えたがっていたのにね。少し驚いたわ」

 感慨深げに呟くと、ぱちりと目を瞬かせた緑都は言葉を濁して肩をすくめた。

「いいじゃないですか。あんな王様が造る世界をこの目で見てやるのも悪くない」

「相変わらず変な子ね」紫苑はやれやれと息をついて少し皮肉めいた口調で言った。「それで? その報告にわざわざ来たの?」

「いいえ」緑都は即答すると紫苑を見据えた。「あなたを見送りに」

 あまりにも真っ直ぐな言葉に、意表を突かれた紫苑は目を丸くした。

「……本当に覚えていたのね?」

「言ったでしょう。僕は約束を守るって」

 紫苑は小さく笑うと、眼鏡を外し、ひっつめた髪をほどいた。

 開花するように散る髪は、光を浴びて金色に輝いていた。

 かつての相方も同僚もここにはいない。目の前には、苦手なはずだった、まだ鎌すら持たないお節介な新米死神。


 それでも、いい。


 やっと自由になれたのだ。


 漂う光が沸き立ちだした。再生の時が来たようだ。祭壇ごと紫苑を包むように、溢れ出る光がベールとなって柱を作っていく。

「――ひとつだけ、お願いしてもいいかしら?」

 光の奥の紫苑はいつになく小さく、華奢に見えた。後ろ手を組むと、ステップを踏むようにクルリと振り返って、一言――

「私がこの世界に居たこと、覚えていてくれる?」

 別に特別な感情なんてない。自棄(やけ)になっているわけでもない。

 でも、不思議ね。

 君なら聞いてくれる気がしたの。

 紫苑が見つめる先で、能面のような用意された緑都の表情が緩く崩れていく。

 作ってなどいない、彼の素直な微笑みは、女性のように美しく見えた。

「もちろん」

 その言葉に自然と紫苑の顔も綻んだ。長らく忘れていた、純粋で無垢な笑顔。溢れてきた涙も全く気にならないくらい、気持ちは晴れ渡った。

 うっすらとした光の柱がすっかり紫苑を包み込んだ。柱全体が発光を始めると、彼女の姿は影すら見えなくなった。

 強烈な金色の光を、緑都は瞬きもせず見続けた。

 柱がスクリーン代わりとなるように、緑都の頭に紫苑との時間が点々とフラッシュバックしていく。

 ほんの一瞬の出来事だったが、何分もそうしていた気分だった。

 光が弱まると同時に柱は細く収束していく。そこにはもう、紫苑の姿は無かった。

「――忘れませんよ。だって、あなたの……シオンの花言葉は――」

 やがて一本の糸となると弾けるように空気に霧散した。

 黄金色の淡雪がしんしんと降り注ぐ。

 緑都は手のひらに降った光をそっと握りしめた。

 

≪あなたを忘れない≫


   *  *  *


「……嘘でしょ?」紫陽花がひきつった顔で呻く。

「案ずるな。重力など無縁だ」竹織の答えは機械のように平坦だった。

 突き出た岩場は孤島のようだった。川から流れてきた水は岩を避けるように二手に分かれ、どうどうと唸りをあげてすぐ足元を落ちていく。始境の樹湖(イーストリーフ)の奥地にあった小さな滝の上に二人は立っていた。

「なんで帰るために滝壺バンジーしなきゃいけないのよ!?」

「それしか帰る方法がないそうだ。諦めろ」

 すっぱりと切り捨てられ、紫陽花はうなだれた。椿が言うのなら仕方ないのだろうが、それにしても、この高さから飛ぶ必要性はどこにも感じられなかった。

 背を押すように吹く風に促されて顔をあげると、十字架の城(クロスカスター)の街並みが一望できた。朝日を受けた建物が白い砂浜みたいにきらきらとしている。まるで新しい世界の始まりを祝福するかのような光景は、今まで見たどの景色よりも綺麗に映った。

「――この世界をチコが変えていくんだよね……」

 たったひと月ほどのことなのに、懐かしさで胸がいっぱいになっていく。新たな旅立ちのように、誇らしさと寂しさが入り混じった不思議な気持ちだった。

「……まったくとんだ迷惑だ。本当に王にされてしまうとはな」

 たいそう恨めしげにため息をついて竹織が呟いた。清々しさを取り戻しかけていた紫陽花の表情にまた影が差した。

「ちょっと。なによそれ。人のせいみたいに言わないでくれる?」

「まあ、お前が死んだ暁には俺が直々に迎えに行ってやる。せいぜいそれまで悔いなく生きてこい。自殺なんぞしたらすぐに地獄に叩き落とすからな」

 ムッとする紫陽花に全く気付く様子もなく、竹織は淡々と続ける。

「世話になった。感謝している。元気でな」

 まるで俳句のようだ。ついに紫陽花の堪忍袋の緒が切れた。

「あんたねえ! 感謝してんの? 馬鹿にしてんの!?」

「……何を怒っている?」竹織が真面目に訊き返した。

「他に言い方ないのかっつってんの! こういう時は笑って送り出すのが常識でしょ!?」

 叫びながら空しくなってきた。こいつは死神で王様で化け物なのだ。人の常識を押し付けたって意味がないことはもう充分に分かっているはずじゃないか――この数秒の間に十年分老けこんだような気分だった。

「……もう行くわ。それじゃ、チコも元気でね」ぐったりと呟いて紫陽花は踵を返した。

 飛び込み台のような岩場から見た滝壺は、水飛沫がうっすらと霧になって立ち込めていた。さっきまでの恐怖が嘘みたいに消えている。今ならすんなりと飛び込めるだろう。

 ――結局最後まで喧嘩腰になっちゃったなあ……。

 鉛が付いたような重たい足取りで進む紫陽花の背中を、竹織は無表情で見つめていた。

「――お前の常識など知らん」冷たく言い放ち、鋭い目を一層細める。「だが――」

 ぐいっと紫陽花の手を掴んで引いた。不意にくるりと回転した体に驚いた紫陽花の思考が止まる。次の瞬間には、よろけて膝を折った紫陽花をそっと抱きしめていた。

 耳元で小さくはっきりとした声が届く。








「ありがとう。紫陽花」








 凛とした、優しい響きだった。

 日の香りがする。

 小さな手は少しだけ震えていた。


 紫陽花が我に返ると同時に竹織は離れた。そこには見慣れた小生意気な顔があった。

「さらばだ」

 さくっと一言、紫陽花を思い切り滝壺へ突き飛ばす。

「――――――っ!」

 伸ばした手が、空を掴んだ。


 

 ああ。


 なんであんたはそうなのかな。


 すっごいチビで子供のくせに。


 ずーっとお前って言ってたくせに。


 いっつも澄ました顔してたくせに。



 世界がスローモーションに見えた。

 視界が滲み、雫が舞い上がる。

 それでも、相方の表情ははっきりと焼きついた。



 ほらやっぱり、笑ったほうが似合ってるよ――。



 空気が滑るように肌を撫でる。迫りくる滝壺は白く光って、まるで太陽みたいだった。

 またねと小さく呟いて、少女は静かに飛び込んだ。



















 真っ白な世界。


 それが病院の天井だと気付くのにそれほど時間はかからなかった。

 窓からは朝の柔らかい日差しが差し込んでいる。少しだけ開いた隙間から吹き込む風に、白い薄地のレースカーテンがなびいていた。

 ――長い夢を見ていた気がする。

 ゆっくりと体を起こした紫陽花は、そのまましばらくぼんやりとしていた。

 眉あたりで切りそろえていたはずの前髪は視界を覆い尽くし、テーブルに置いてあった愛用の腕時計をはめてみると、ベルトの穴が二つも内側になっていた。

 眠っている間も、体はずっと時を刻んでいたのだ。

 鳥のさえずりを無意識に聞きながら、紫陽花の思考は一点から動かなかった。

「……お腹……すいたな……」

 ご飯を持ってきてもらいたい一心でナースコールを押した。押してから、発信元の部屋が分かったナースステーションで慌てふためく看護師達の顔が頭に浮かんだが、今はどうでもよかった。

 涼しい風を背に受けて、紫陽花はおもむろに枕元の壁を振り向いた。

 八月のカレンダーは、美しい海辺の写真よりも日付のほうが目を引いた。

 一日ひとつ、丁寧に形作られた折り紙が、何もない病室を明るくしているようだった。

 紫陽花は膝の上で手を組んだままそれを見つめる。


 これだけの時間が過ぎた。


 けれど。


 帰ってくる場所はずっと守られていたのだ。


 慌ただしい足音が近づいてくる。





 三十一日。




 八月の紫陽花は、今日で満開を迎える。

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