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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第七章 : 門と鍵
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13:ファンタジーの正体

 二つの強大な力は爆ぜ、かまいたちとなって部屋中に飛び散った。軽快な音を鳴らして石造りの客席が次々に多面体へと変貌する。その断面は恐ろしく滑らかで美しかった。

 乱雑に吹き荒れる風の刃の中、杜若(もりわか)は子猫のように紫陽花(しょうか)の首根っこを掴むと、血の海を広げる緑都(ろくと)の元へとんだ。半ば投げる勢いで紫陽花を下ろし、早口に呪文を唱えて胸の前で手を編んだ次の瞬間、そのしわがれた手から狼煙の如く立ち昇っていく無数の銀色の文字列が、蛇がとぐろを巻くようにして三人を包み込んだ。文字列はゆっくりと渦を描きながら、かまいたちがぶつかるたびにゴクンと呑み込む音を鳴らした。

「内原! しっかりして! 内原――!」

 紫陽花の呼びかけに緑都は小さな呻きをひとつ漏らして薄く目を開けた。紫陽花が一瞬、クッと喉を鳴らす。

「…………やだなあ……。そんな顔されたら……ますます……好きになってしまう……」

 続く「馬鹿じゃないのあんた!」を制して、緑都は自力で起き上がった。

「……ほう。動けるのか」

 杜若は緑都を一瞥して、感心したように呟いた。

「……切り口が綺麗だったのが幸いでした。見た目ほど大したことはありません。それよりも――」

 見つめた先では、竹織(たけおり)双鎌(そうがま)の連撃に圧され始めていた。

「あの様子だと、もう体が限界でしょう。長引けば命に関わります。特に――」

「――〝若獅子(わかじし)〟のほうか」杜若も視線を戻す。

「ええ……。魔力共有の間はお互いの五感すべてを共有しているも同じと聞いています。……今立っているだけでも奇跡だというのに、このうえ魔力共有なんて自殺行為です。おそらく空焚きのような状態でしょう。あれでは、いつ壊れてもおかしくない……!」

 死ぬ、と表現しなかったことが逆に紫陽花の背筋を凍らせた。

 杜若はしばらく黙考してから、確認するようにゆっくりと訊ねた。

「――お前さん。まだ竹織の足となれるか?」

 緑都から嘲笑にも似た短い笑いが零れた。

「――正直言うと、貧血で感覚が麻痺してきてまして。ほとんど何も見えてません。あと一回走れれば御の字ってところですよ……」

 落ち着いた口調だったが、もう体を起こしていることそのものが厳しいのだろう。立ち上がった緑都の表情はひどく青ざめて強張っていた。

「……まあ、僕に限ったことじゃありませんからね。それじゃ、彼女を頼みま――」

 飛び出そうとした瞬間、緑都は思わぬ力に引き戻された。驚いて振り向くと、紫陽花が袖をつまんでいた。

「……分かんないよ」

 震えた声とは裏腹に、少女の怒りに燃えた眼差しは、真っ直ぐに緑都を捉えていた。

「……私には内原の考えてることが分かんない。【生き狩り】に協力してたわけでもないし、死神になったばっかのあんたが王様に恨みがあるはずないじゃない。なのになんで……? なんでそこまでするのよ? どうして簡単に命かけようとするわけ? 好きだから? 馬鹿にしないで! 絶好の機会だとでも思っているなら、あんた大馬鹿者よ! そうまでして……そんなに自分のこと消したいの!?」

 穏やかな性格で誰にでも分け隔てなく、面倒なことも頼めば嫌な顔ひとつせず引き受けてくれる――それがたとえ表向きであろうとも、生前の緑都は誰から見ても優しい青年だったことに違いはない。


 だが今は、緑都のそんな態度が無性に腹が立つ。


 そして、どうしようもなく涙が溢れてしまうのだ。


「どうしてこんなことになっちゃったの……? 私が帰るって言わなければ……! チコもアニスもカイも、みんなだって……!」


 こんな、命の危険にさらされることもなかっただろう。

 今までとなにも変わらずに平和に過ごせていただろう。


 なのに、どうして――?



 この世界をめちゃくちゃにしているのは私のはずなのに……。



 掴まれた腕を緑都は振り切ろうとはしなかった。ただ感情の無い顔で紫陽花を見つめ返す。

 やがておもむろに背を向けると、ぽつり、呟いた。

「――君には、この世界がどう見える?」

 紫陽花は思わず聞き返した。

「魔力という非科学的な術が行き交うファンタジー……そう僕は思った。恐れなんて無かったし、その(ことわり)を使って僕自身の存在を消してやろうと思った。そのために僕は死神という道を選んだ――けど、思い通りになんていかなかった。その代わりに、ファンタジーの正体を知ってしまったんだ」

「……ファンタジーの……正体…………?」

 袖がするりと抜けたことにも気付かないまま、紫陽花は呆然と緑都の背を見つめた。

「僕だって、こんな世界を鵜呑みにするほど頭が柔らかくなくてね……。本当に、初めはなんのいたずらかと思ったさ。想い人まで具現化されるなんてびっくりだろう? ……でも違った。僕の前に現れた君は間違いなく本物(・・)だった。だから、君と僕は学校での記憶を共有出来てしまったんだ。この世界で(・・・・・)異端とされる(・・・・・・)姿をした(・・・・)――君とね」

 微かに語尾が揺れた。静かに握られた拳には血管が青白く浮かび上がっている。そこには取り繕うことに長けた青年の感情が剥き出しになっていた。

 緑都も同じだったのだ。その変わり果てた深紅の瞳に恐怖した紫陽花のように、彼もまた、変わらない紫陽花の青い瞳に戦慄し、そして確信した。

「ここはファンタジーなんかじゃない。いずれ君達がやって来る、現実の世界(・・・・・)だ――!!」


〝魔法〟という夢のような力を与えられたからこそ人は神となれた。

 だがそれは、決して開けてはならないパンドラの箱だったのだ。


 死神をなめるなよ、小僧――!


 あれは脅しなんかじゃない。

 なぜなら死神は、なにも出来ない神様だから。

 彼らはずっと抗い続けてきたのだ――そして、これからも。


 世界の王様にではなく。


 生きた命すら摘み取れてしまう悪魔の力を手にしてしまった、自分自身に。



「栗栖さん。僕はね――」


 カラになりたかった。


 でもそれは、決して一人になりたかったわけではなくて。



 ただ自分の生き方を、自分で選びたかっただけなんだ。



 もう少しだけワガママが許されるなら、願ってもいいだろうか――。


 ふっと口元が緩む。

 やっぱり君はすごい人だよ、栗栖(くりす)紫陽花。こんな気持ちになったのは初めてだ……。

 緑都は紫陽花に向きなおり、真っ直ぐに彼女の瞳を見た。小さく動いたその唇から零れた言葉は、今まで聞いたどの声よりも澄んでいて、とても穏やかで、優しかった。


「――生きたいと、思ったのさ」


 綺麗な微笑を浮かべ、緑都は結界の中から姿を消した。

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