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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第七章 : 門と鍵
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11:秘書として

 揺り動かされて紫苑(しおん)は目を覚ました。

 リリーの〝清歌(せいか)〟に打ち負かされた反動でそのまま気を失っていたらしい。杖をしっかり握りしめたまま仰向けに横たわっていた。二度三度瞬きをして鮮明になった視界に飛び込んだのは、血に染めた長髪を垂らす女の姿だった。

 紫苑は悲鳴をあげて跳ね起きた。

「ちょっとちょっとぉ。それはあんまりじゃなあい? 心配していたのにぃ」

 覗き込んでいた頭を引っ込めて椿(つばき)が不満げにぼやく。紫苑はすぐさま手にした杖を突きつけて椿を睨んだ。

「……なんのつもり?」

「ええ? 何が?」

 椿は軽い口調で訊き返したが、どこかにもたれていないと体をろくに起こしていられないようだ。バルコニーの縁に浅く腰かけた彼女の白い顔には、血を含んだ汗がだらだらと流れていた。

「とぼけないで! 何故貴女が私を心配する必要があるの!?」

「アラ。そんな冷たいこと言わないでよ。同業やってたよしみで仲良くしましょ? 別にアタシ、紫苑ちゃんに恨みなんてないしねぇ」

 そう言って椿は手にした自分の目玉を月明かりにかざした。血に染まった眼球はルビーのように艶やかな輝きを放った。

「……貴女が夏恵(かけい)様なら尚更だわ。私は大王の秘書だというのに……!」

 苦々しく顔を歪める紫苑を椿はキョトンと見つめ、やがてふっと笑みを零すとのんびりと言った。

「本当真面目なんだから紫苑ちゃんは。そういうとこ好きよ?」

「茶化さないで! 私は――……」

「ま、どうしても理由が欲しいなら、あのひょろっちいぼーやに聞きなさいな」緑都(ろくと)を顎でしゃくると、苦笑交じりに続けた。「アタシもさっき叩き起こされてねえ。紫苑ちゃんが起きるまでそばに居てくれって、すっぱく頼まれちゃったのよ。――見かけによらず紫苑ちゃんもやるわねえ? いつの間にあのぼーやを口説いていたのかしら?」

 そう冗談半分のニヤついた顔を咲かせて見せる。緑都がはずしたのだろう。手錠は無造作に床へ転がり、椿は自由になった手で扇子を弄んでいた。

 紫苑は食って掛かるどころか、まるで真逆の命令が同時に出たように、あらゆる動作を停止させていた。

 椿は肩をすくめると、突き付けられた杖の頭をそっと抑えた。一切の抵抗なく主の手から滑り落ちた杖は、軽い音を立てて床へ転がった。

 それは、紫苑の戦意が完全に断たれた瞬間だった。

 椿は再び眼下の死闘に視線を投じ、うっとりと眺めた。すべてを拒絶するような気迫を放つ死神王(ししんのう)に向かって、死神達が休む間も与えずに攻撃を続けている。多勢に無勢のはずだが、死神王にはまるで全部スローで見えているかのように、繰り出される攻撃をその双鎌(そうがま)で難なく受け止めては、次々と薙ぎ払っていた。

「若いって良いわねえ。ゾクゾクしちゃう!」

 椿は声を弾ませた。空っぽになった左目を握り潰さんばかりに抑え、興奮に身を震わせながら殺気立つ光景に酔いしれている。

「――ねえ、紫苑ちゃん。この世界はとっても退屈よ。縦社会で身分に縛られて、毎日毎日同じことの繰り返し――統治する側としてはとても理想的だわ。……でもね、用意された道を延々と歩くなんて、この上ない苦痛なだけよ。〝時間〟の概念を逸脱したこの世界ならなおのことね――」

 ずっと恋焦がれてきた。命をなげうってでも得たいと思う一分一秒そのものに。

 ずっと探し求めていたのだ。死んだように安穏とした日常を一蹴する、死すら厭わぬこの生き生きとした時間を。

「ああ……たまらないわ……!」椿は天を仰いだ。

 この腐った眼にも分かる、眩しくて仕方ない世界が今、ここにある。

 紫苑は座り込んでうなだれたままだった。投げ出された杖を拾うこともなく、抜け殻の如くぴくりともしない。

「立ちなさい、紫苑」首を戻した椿が、背を向けたままはねつけるように言った。「アナタは秘書としてちゃんと務めを全うした――それだけのことよ」

 紫苑の肩が大きく揺れた。そして思い出したように震えが全身を駆け巡った。

「アナタが罪悪感を抱く必要は無いわ。禁忌を犯すのも、体ごと存在を捨てるのも、生き返る道を選ぶのも、結局最後は本人次第なんだから。――そこまで面倒見きれるほど、死神なんて出来ちゃいないわよ」

 紫苑は石畳の床をひっかいて拳を握りしめた。擦れた指先から血がにじみ出る。押し殺してきた恐怖が、後ろめたさが、涙となって滔々と零れ落ちていった。

 先代王殺害を止められなかった。それを繰り返すように、紫陽花(しょうか)に白羽の矢を立て、竹織(たけおり)に罪を犯させ黙認してきた。そして今、すぐにでも戦いに参加して王を援護しなければならないというのに、人質がまさに逃げていこうというのに、身がすくんで一歩も動けないでいるのだ。


 ……私は秘書として一体何をしただろう?


 椿はバルコニーの縁へ上がった。紫苑のようやく絞り出した掠れ声が、すがるようにその背中を追いかける。

「…………私は…………どうしたら…………」

 一瞬の間。椿は短い息を吐いて手にした扇子を広げた。

「知らないわ、そんなこと」

 きっぱりと言い放ってから、でもね、と付け加える。

「最後まで責任を持ちなさい。秘書としてじゃなく、一人の人間として。撒いた種がせっかく芽吹いたのに、摘み取るなんて勿体ないでしょ?」

 そしてゆっくり振り向くと、口元を綺麗に纏めて微笑んだ。

「アナタの人生は、アナタにしか決められないんだからね」

 それだけ言い残すと、椿はマントを翻して飛び降りた。

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