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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第五章 : 銀髪の死神(疑)
32/60

4:決心

 砂子(いさご)病院の東棟屋上に竹織(たけおり)はいた。背負った大鎌が、傾き始めたばかりの日光を鋭く反射している。竹織とほぼ同じ高さの物干しは綺麗に整列し、干された白いシーツが風を受けて優雅に波打っていた。その脇を通り過ぎて、大通りの見える東側のフェンスへ飛び乗った。

 見下ろす街並みはいつもと何ら変わらない。少し先に見えるスクランブル交差点も、事故があったなど嘘のように止め処なく人や車が行き交っていた。

「――そんなとこに居たら落ちちゃうよ?」

 背後から声がした。思ったよりも早い待ち人の到着に、竹織はちらと姿を確認すると、ふわりと音も無く降りて、後ろ手を組む紫陽花(しょうか)の横を通り過ぎた。

「重力など無縁だ。お前もここまで浮遊してきただろう」

「……そうだけどさ」

 せっかく心配して言っているというのに、どうしてこいつはこうも綺麗に台無しにしてくれるのだろう。もやもやと疼く苛立たしさを抑えて、紫陽花はフェンスに手をかけ砂子市の街並みを眺めた。

 人も車も、絶えず動いていた。信号が変わって車が止まれば人が動き、人が止まれば車が動く。事故直後は立入禁止テープで仕切られていた交差点も、今は事故そのものを人々の流れで上書きされていた。

 あの交差点に、緑都に手向けられた花はまだあるのだろうか。

 ふとそんな考えがよぎった。事故からひと月くらいしか経っていない交差点は、いつも通りの時間の流れをとっくに取り戻していた。だからこそ紫陽花の目には、様変わりした大都市が明々と映っていた。


 取り残されるってこういう事なのかな……。


「生き返るかもしれない」という事は「今は死んでいる」という事だ。死んだ者が生き返るなど、普通はありえない話。だが死神達は生き返る可能性があるという。果たしてそれはどのくらい? 普通でゼロの事情を、彼らはどれほどの確率を見出して提言しているというのだろう? このままそんな根も葉もない希望にすがっていいのだろうか?

 生き返れたとして、この世界は私を受け入れてくれるだろうか。

 フェンスを握る手に力が入った。居るべきは生者の世界だと竹織も言ってくれはしたが、帰って浦島太郎になるのなら、いっその事ぽっくり死んでしまった方がずっといいのかもしれない。

 ガシャンと音を立てて紫陽花はフェンスに頭を付けた。

「どうすればいいのよ……」

 世界からの答えは無かった。ただどこかでクラクションがけたたましく鳴り響いているだけだった。

 強い風が吹いた。乱れ流れる髪に紫陽花は思わず目を瞑った。シーツがバラバラと音を立てて波打った。

「こっちだ」

 竹織は西側のフェンスの上に立って手招きしていた。紫陽花は重たい足取りで近づいて差し出された手を握った。竹織の助けを借りてフェンスによじ登ると涼しい風が全身を撫でた。

 紫陽花は出来るだけ下を見まいと胸を張った。砂子病院は十階建て。真下に広がる中庭に置かれたベンチがミニチュア同然だ。冗談抜きに高い。

「……ねえ。結構怖いんだけど…………降りない?」

「ああ」

 手をひいたまま、竹織がふわりと降りた――後ろじゃなくて、前に。

 紫陽花は息を詰まらせた悲鳴をあげた。グッと体の中から引きつけられる感覚に顔が強張る。

 だが思いの外、大々的な声になる前に落下はピタリと止まった。

 目の前の病室の大きな窓には、宙に浮いた黒服少年と黒髪女子高生が映っていた。

「あああああんた、びっくりするじゃないのよ!?」

 蒼白な顔の紫陽花に竹織は眉間にシワを寄せた。大きな階段を一段降りただけに過ぎない竹織には、わんわん騒がれるのが納得いかないらしい。責め立てまくる紫陽花をうんざりした顔で受け流した。

「相変わらず不思議な事を言うな。重力は無縁だと言ってるだろう」

「だから、チコはいつもそうやって――!」


「――いつもすみません。ありがとうございます」


 礼儀正しい声が紫陽花の耳に届いた。

 突如聞こえた第三の声に、用意していた馬事雑言が一気に吹き飛んだ。

 紫陽花は金縛りのように凍りついた。気のせいかもしれないのに、体は正直だった。微かでも聞き覚えのある声に無意識に耳を欹てる。

「ええ。時間が空いたので、顔を見に来たんです」

 間違いじゃない。なにより聞きたかった声――奈青(なお)の声だ。

「空いた時間くらいは居てやらないと……母親失格ですよね」

 え? なに。ちょっと待ってよ。顔を見るって、居てやるって……ここに母さんが居るってことは――?

 紫陽花は恐る恐る、窓のほうを振り向いた。

 スーツ姿の奈青と看護師が、紫陽花と竹織がいる正面の病室の入口で話していた。部屋には窓際にベッドとテレビ台、そして小さなタンスがあるくらいで飾り気もなく、ひどく殺風景に思えた。そのせいなのか、窓から一番近くにあるベッドに誰が眠っているのか気づくのが遅れてしまった。

 綺麗に整えられた布団に包まれるようにして、血の気の無い紫陽花が静かに横たわっている。

「――――――ッ!!」

 紫陽花は息を呑み口をおおった。瞬く間に体中に電流が走ったように身の毛がよだつ。覚悟をしているつもりだったが、目の当たりにすると恐怖に身が竦み嗚咽が漏れた。

 自分がいる。ベッドに同化してしまうほどの真っ白い顔の自分が、まるでセトモノのようにのっぺりした艶を放っていた。

 もはや人の形をした「入れ物」同然の紫陽花からは「時間」を感じなかった。つまりあれは――

「――死んでいない。仮死状態だ。あれは」

 紫陽花の心を読んだかのように竹織が後を受けた。

「幽体離脱した状態に等しい。ただ、お前の場合は三途の川を渡ってしまっているから自分では戻れない。おそらく何者か、外から魔力を入れて繋ぎ止めているのだろう」

 そんなこといったい誰が――言葉に出来ない代わりに紫陽花は目線で竹織に問いかけた。その返答は、奈青が看護師と一緒に病室に入ってきたことで遮られた。

 仕事帰りなのか走ってきたのか、奈青の薄い灰色のスーツは少しくたびれていた。看護師が差し出してくれたハンガーに上着をかけてテレビ台の引き出しの取っ手に引っ掛けると、パイプ椅子を出しながら、寝ている紫陽花の顔を覗き込んだ。変わらない娘の寝顔に安堵の息を吐くと、手にしたペットボトルを脇のテーブルに置いて静かに腰かけた。

「今日も特に変わったことはありませんでしたよ。ついさっきまでご友人がいらっしゃっていたのですが」

「あらあら。親子共々あの子には世話になりっぱなしね」

 苦笑いを浮かべる奈青の顔は少しやつれたようにも見えた。

「この前も仕事の時間気にして走って来てくれたのよ。汗だくになって。本人は『涼しいところで勉強出来るから』なんて言っていたけれど……きっと辛いでしょうね。こういうことは若い子のほうがショックが大きかったりするから……」

「そうですね……。私達のほうでも彼女のケアに努めます」

「お願いします。私も出来る限り時間を取ろうと思いますので」

 立ちあがって一礼する奈青はどこまでも礼儀正しかった。ほんの一瞬のためでも背筋を整える。それに未だ慣れないのか、看護師は少しどぎまぎしながら「こちらこそ」と頭を下げた。

 再び腰かけ直した奈青は、鞄から小さな正方形の紙を一枚取り出した。それが折り紙だと気付いたのは片一面の薄紫色が目についたからだった。

 子供の頃、風邪をひいて寝込む度に奈青は折り紙で紫陽花(あじさい)を作ってくれた。一日ひとつ作ってはカレンダーの日付の上に貼っていき「治る頃には満開になって綺麗よ」なんて励ましてくれたのだ。

 どうやら今も毎日折っているらしい。壁に掛けられた大きなカレンダーには八月なのに紫陽花(あじさい)が満開を迎えそうになっていた。

 新たにひとつ貼りつけるのを看護師が暖かな眼差しで眺めた。

「アジサイがお名前なんて素敵ですね。確か娘さん、六月のお生まれでしたよね?」

「ええ。それもあるけれど――元々私が好きなんです。この花」

 上下左右同じ色が重ならないように三色で折り分けられた紫陽花(あじさい)は、何もない部屋を唯一彩る代物だった。奈青もカレンダーを眺めながらどこか懐かしむような柔らかい表情を浮かべた。

「アジサイってほら、小さな花がたくさん集まって綺麗に見えるでしょう? 自分ひとりじゃ大変なことでも周りにたくさん支えがあるから輝ける存在になれる……。そういうの、いつかこの子にも分かって欲しいと思って付けたけれど、どうも口より先に体が動く子みたいだから、手を焼かされてばかりよ」

 困ったものよねと苦笑交じりに看護師と顔を見合わせて、奈青は窓の外の空に視線を移した。晴れ渡る空に自分の娘が浮いているなど知るはずもなく、カラカラとした景色に目を細めた。

 紫陽花(しょうか)は目が合ったような気がしてどきりとした。

「結構な時間が経って不安なのは嘘じゃないけれど……あの子がこうして逝ってしまわないでいるのは、私達の知らないところで支えてくれる人達に出会えたから――そんな気がする。あの子の性格ならきっと大丈夫。帰ってくるその日を信じて私は待っているわ。これでも母親だもの」

「母……さん…………」

 唇が震えているのが自分でも分かった。みるみる熱くなる目の奥を抑えるように顔を覆った。小さなしゃっくりはどうしても止められなかった。


 待ってくれている。

 帰る場所がある。


 まるで見えているかのように、奈青は空に――紫陽花に向かって優しく微笑んだ。

 私は何を迷っていたのだろう。時間に流されて、不安になって、逃げるように悲観的な考えに浸かりこんで……なんて馬鹿なことをしていたのだろう。

 家出なんて初めてじゃなかったじゃないか。話し合うのが苦手なことくらい母さんは誰よりも知っているじゃないか。だから母さんも待っているんだ。迷う必要なんてない。帰る家があるんだから帰ればいい。帰って、謝って、ちゃんと話し合うんだ。

 これは、ちょっと帰りの遅い家出なのだから。

 紫陽花は涙を拭って顔をあげた。その瞳に凛とした光を宿して。

「チコ。連れてきてくれてありがとう。私、もう迷わない。絶対、絶対生きて帰る」

 竹織は横目で紫陽花を見つめた。看護師がカーテンを閉めて病室の中が見えなくなると小さく息をついた。

「――そうか。それは良かった」

 竹織は独り言のように呟いて、近くでバラバラと離陸したヘリコプターに首を向けた。そのまま飛び去っていくヘリをしばらく見つめると、やがて思い出したような口調でぽつりと言った。

「カイを呼んでいるから一緒に帰れ。多分そこら辺にいるだろう」

「え? チコ、まだ何か用事が――」

 振り向いた紫陽花の言葉がふっつり消えた。

 竹織の体の周りを無数の光の粉が舞っていた。包まれるように立つ竹織の疲れたような哀しげな表情は、一瞬で脳裏にこびりついた。

「俺は――先に逝く」

 竹織の小さな体がふわりとよろめく。

 光の粉が、真昼の星のように瞬いた。

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