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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第四章 : 再会と意思
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8:本当は

 湿った土の匂いが鼻をついた。雨雲が過ぎ去った空は濃紺に染まり、数多の星を散りばめている。

 水分を含んだ夜風が冷たくすれ違う中、竹織(たけおり)始境の樹湖(イーストリーフ)の森を抜けた。泉の辺に居た先客に驚きもせず、落ち着いた足取りで歩み寄った。

 地面から突き出た小岩に膝を抱えるように腰掛けた紫陽花(しょうか)は、どうどうと流れ落ちる滝をぼんやりと眺めていた。雨に濡れ、はり付いた制服からは所々肌が透けて見える。竹織を確認するとまた滝へと視線を戻した。

「夏場とはいえ冷えるぞ。風邪をひかんうちに――」

「……人は変わるのね」

 紫陽花はおもむろに口を開いた。会話をしているというよりは、自分に言い聞かせているようだった。

 竹織はゆっくりと息を吐いて月を見上げた。

「……良くも悪くもそうだな」

 紫陽花は背中を丸めた。伝い落ちた水滴が膝に跳ねた。

 緑都(ろくと)は誰にでも親切で優しくて、まずは他人を第一に考える――生前の彼はそんな人だったのだ。

 人間は所詮自分勝手だ、と竹織は独り言のように呟いた。

 紫陽花もそれは解っているつもりだった。人の本性は欲望の塊だと、いつかどこかの評論家が書いた本を読んだ気がする。だが結局、知らぬ間に「はいそうですか」で終わっていたのだろう。内原と会ったことで、紫陽花の表面上の知識がようやく現実味を帯びたのだ。

「死後はそれが顕著に出る。生前出来なかった事を死後の世界に求めるからだ。一転して狂気染みた姿になるのは珍しい事じゃない。無論、俺も例外ではないがな」

 紫陽花はうっすらと光る泉を眺めた。以前、馴染んだ明塚(あけつか)の町を映しだした泉も、今は魚の寝床でしかなかった。冴えない顔をした自分が、ゆらゆらと動く水面に見える。

「……ねぇ、チコ」

 指で軽く水面を弾くと、映った自分の姿は散り散りになった。

「自分が消えるかもしれないって、怖い?」

「……なんだ唐突に」

「……別に」

「…………」

 すぐに返事はなかった。竹織はじっと滝を見つめたまま、まるで自問自答するかのように細々と映る自分と向き合った。しばらくしてから「さあな」と呟いた。

「怖くないと言えば嘘になるのかもしれん。だがそれも運命だ。いちいち怯えていてはキリが無い――もっとも、恐怖など忘れてしまったがな」

「……寂しいのね」

「面白くはないな」

 風が強くなった。バサバサと臙脂のマントがなびいた。

 紫陽花は手を空へ翳した。細長い指の間から澄んだ星空が見える。

「私……分からなくなっちゃった。自分がどうしたいのか」

 冷たい風は容赦なく体を冷やす。重みの増した髪の先からはポタポタと水滴が落ちて小さな水たまりを作っていた。

「母さんも朱里(しゅり)も……きっとみんな心配しているのに、私、この世界じゃ何も出来ないのよ。どうしたらいいのか分からない……」

 この世界に連れて来られて、もう二週間経とうとしている。

 正規の死神でも死者でもない紫陽花はこの世界では完全なお尋ね者だ。鎌も無ければ、こうして養護されていなければ居場所さえ無いのだ。


 私は何をすればいいのだろう?


 私はどこに居ればいいのだろう?


 自分のことだというのに思考がまとまらない。この星空の数多の星々をたった一人で集めきるみたいだった。先がまったく分からない規模を前に立ち尽くしている。考えようとするたびにテレビの砂嵐が頭の中を襲った。考えることを、抗うことをだんだんと忘れ、何も考えず、ただ流れゆく日々に身を投じては、同じことを繰り返す。体の内側から、機械に蝕まれていくように、感覚が、感情が抜け落ちかけているみたいだ。

 まるで精神から死んでいくかのように。

 掴みどころのない恐怖に身が震えた。両腕を抱えて縮こまった紫陽花を尻目に、竹織は台本のような言葉を投げた。

「生き返れ。お前の居るべき世界はここじゃない」

 淡々とした一言が、あまりにも胸に刺さった。

 紫陽花はキッと竹織を睨んだ。

「無責任なこと言わないで! いい加減にしてよ! そりゃ、あんた達死神にとっちゃ、当たり前でしょうよ! 痛くもかゆくもないでしょうよ!! けどね、目の色ひとつで生きてるだなんて易々信じられるわけないでしょう!? そうやって誤魔化してッ……本当は私なんてもうとっくに死ん――――」







 バチッ!!







 右頬に電流が走った。

 睨んでいた目線はいつの間にか泉へ向いていた。

 じんわり赤く染まる頬を抑えてゆっくりと振り向く。手を振りぬいた竹織が無言で立っていた。

「……何するのよ。あんたはいつもそうやって――!!」

 ばふっと音を立てて視界が暗くなった。竹織がマントごと、自分のコートを投げて寄こしたのだ。紫陽花は覆い被さったコートの中でもがき、出口を探した。やっとの思いで顔を出そうとした紫陽花の両肩を、竹織が正面から勢いよく掴んだ。

 紫陽花は思わず目を瞑った。


「――疲れたなぁ」


 強張った体中の筋肉がすっと緩んだ。

 おもむろに顔をあげると、すぐ近くに竹織の顔があった。いつもの鋭さは消え、柔らかく優しい無表情がそこにあった。


 ああ、そうか。

 全部お見通しだったのか――。


 力無くうつむくと、膝に一粒、零れおちた。

 竹織は肩の手を背に回して引き寄せた。

「……泣けばいい。お前にはその資格がある」

 引き金が引かれた。竹織の胸に頭を当て、紫陽花は嗚咽と一緒にボロボロと足元に零れていく涙をただ見ていた。

「……泣いたって……どうにも……ならない、じゃない……」

「同感だな」竹織は深く息をつくと静かに目を閉じた。「ならば泣いても問題ないだろう」

 背を叩く手は緩いリズムを刻んでいた。

 これまで堪える必要すらなかったのが信じられないほど、涙はどうしようもなく溢れ出した。子供のように、赤子のように、相方の胸に顔をうずめて大声で泣きじゃくった。


 本当は、信じられなかった。


 自分が生き返れるかもしれないことが。


 本当は、不安だった。


 自分は生きているのか、と。


 本当は、怖かったのだ。


 現実をすんなり受け入れてしまう自分が、なによりも。


 日の香りがするコートはほんのりと温かかった。人のものだとはお構いなしに、紫陽花はすっぽりと身をくるめて泣き続けた。

 緑都に会ってから、抑え込んでいた恐怖が表に出た。死の世界に来てしまったという確信。「生き返れるはずがない」という現実的な思考。母や友人を悲しませ続けていながら、前向きに振舞う自分への罪悪感……ずっとしたたかに降り積もって来ていたのだ。

 特例の自分は帰れるのが当然と構えていたからこそ、この世界を楽しんで明るく過ごせていた。だが、時折襲う、本当に死の世界に来てしまったという現実。大蛇のように忍び寄り、ゆるゆると実感なく巻きついて締めつけ始めていた恐怖。気づいた時にはもう、泣いたところでどうにもならないと、泣く事をやめたのだ。

 竹織はずっと前から、むしろ最初から、気づいていたのかもしれない。自分でも知らぬ間に閉めていた扉の鍵を見失わぬように、手放さぬように、見守っていたのかもしれない。

 リズムを刻んだ手を止めて、竹織は僅かに頭をもたげた。

「――感情を失ったその瞬間、化け物の仲間入りだ。そんなものはいつだって成れる。涙を流せるのなら、お前はまだ人の子だ。それを忘れるな」

 囁いた言葉はぶっきらぼうで心に染みた。

 竹織は体を離し、うずくまる紫陽花を眺めた。少女の小さくて丸い背中に、誰にも聞こえない声で語りかけた。

 お前は俺のようになってはならない、と。

 小さなしゃっくりが続いた。ずっと海底に沈んでいた気がする。四肢が鉛と化した重さが全身を襲い駆け巡り、地に引き付けようとする。紫陽花は長年の歳月から目覚めたように遅々として体を起こした。

「……チコ……」

 疲弊した体では今にも消え入りそうな声しか出なかった。喉はからからに乾いて空気がまとわりつく。呼吸の仕方さえ分からなくなりそうだった。焼けるような痛みに顔を歪めながら、紫陽花は絞りだすように叫んだ。

「私まだ、死にたく、ない……! 絶対、生き……返るから……っ!!」

 腫れた目元から止まりなく溢れる涙は頬にたくさん筋を作った。

 みっともないのは分かっている。きっと今の私は人生で最悪な面をしているに違いない。

 それでも竹織は紫陽花をじっと見据え、一度も目を逸らさなかった。

 頭がぐらぐらした。体が熱い。たった今、自分が何を言ったのかもうわからなかった。

「――それでいい」

 竹織は立ち上がって静かに言った。

 初めて見た竹織の体格は、その幼い容姿に似合わず、鍛えられた筋肉で引き締まり、腕にはいくつもの古傷の痕が走っていた。

 俺自身が輪廻から外れている――。

 試験場で聞いた竹織の言葉がよみがえる。桃葉(ももは)の死期を延ばそうとした時に見せたのと同じ、憤怒の形相が浮かぶ。

 おそらくあれは自身に向けたものではないのだろう。

 生き返る権利を失った者の行きつく先が見えているから。

 だから彼は歩んでいるのだろう。

 強制的に用意された道を、たった一人で。

 この孤独で歪んだ運命を歩む者を、これ以上出さないために。

 その小さな体に背負うには大きすぎるに違いない。刻まれた傷が物語る茨の道。それでも止まらないのは、竹織という人間の最後の足掻きなのかもしれない。

「お前が生きることを望むなら――」

 竹織は傷だらけの腕を伸ばして紫陽花にその手を差し出した。

「約束しよう。その身を守ると。元の世界へ戻してやると。そのために俺達は居る」

 膝丈のワンピースになった相方のコート。少し短い袖口を握りしめて紫陽花はフードを深く被った。

 赤く腫れた目を擦るとまだ少し痺れを伴う。

 差し出された手を取ると、竹織はぐいと紫陽花を立たせた。

 その角ばった小さな手は、少し冷たくて力強かった。

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