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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第四章 : 再会と意思
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6:不穏な気配

 小さなくしゃみが濁流へ呑まれた。

 川は勢いを増していた。雨粒はそれほど大きくないが、吹き荒ぶ風に乗って存在感を強め、くすんだ水面へ同化していく。

「さっきまで天気よかったってのに……」

 手にした櫂は重量を増し、流れに逆らう小舟は木の葉同然に波に煽られていた。アニスはフードを被り、短い袖や裾を目一杯伸ばして丸くなっていた。

「折角の早あがりが台無しだぜ!」

 錆びついたレバーを力ずくで押し込むように漕ぎながらカイが叫んだ。雨と汗にずぶ濡れになりながら、一メートル先もまともに見えない視界に目を凝らしている。

「代わろうか?」

 振り向いてアニスが言った。語尾にくしゃみがくっついた。

「こいつはお前じゃ無理だっ……! それより、寒いなら俺のコートも一緒に被っとけ。濡れてるけど無いよりマシだろ。風邪ひくなよっ!」

「……もうひいてそうだけど」

 どんよりした顔で、アニスは隅に投げられていたカイのコートを手繰り寄せた。気休めに絞って水気を切ってみたがあまり意味はないようだ。もそもそと着込むと、さすがに大柄なアニスでもすっぽりと包まれた。女性用サイズももう少し大きいものがあればいいのに――自身の体格を恨めしく思いながらアニスはため息を吐いた。

 前を閉めようとして、キラリと光る物があることに気付いた。カフスボタンが、何故か袖口ではなくコートの一番上に付いている。

「……あんた、こんなもの付けてたの?」

 赤い花弁の中心を黄色い宝石であしらったデザインのカフスは、指先程の大きさながら上質な輝きを持っていた。

「あ、それ。このまえ椿姉さんがくれたんだ」

 アニスはガクッと頭を落とした。あいつから貰ったんかい!

「なんでそんなもの後生大事に持ってんだい!」

「え、だってそれ結構イイもんじゃん。捨てるなんて勿体ねえよ!」

「この貧乏性っ!」

「うわ、やっべ! どっか捕まれ!」

 カイが叫んだ。アニスが咄嗟に舟の淵に捕まったと同時に、前方に大きな岩礁が現れた。間一髪、左にかわす事が出来たが、一瞬ほぼ垂直に立った舟は着水の反動で思いきり水しぶきを被る羽目になった。

「……わりぃ」

「……もう怒る気力は無いさ」

 ずぶ濡れになった頭を抱えてアニスはうなだれた。今は余計な事を考えるのはやめよう……。コートを着なおすと、光るカフスに手をかけた。

 轟々と唸る濁流の中、それが聞こえたのは奇跡に近い。

 ささめくノイズが走った。

「…………?」

 気のせいか?

 アニスはカフスを耳元へ近づけた。目を閉じ、集中して耳をすますと、微かだが、確かに波とは違う雑音が聞こえた。

 アニスは顔をしかめた。

「……盗聴器……?」

 噛みしめるように呟いて、アニスはカフスを慎重に観察した。とは言えあからさまに解る程安っぽい作りではないらしい。宝石部に小難しい顔をした沢山の自分が映っていた。

「なあ、カイ。これって――」

 振り向き様に声を張り上げて訊ねようとした、その時だった。

「どわっ!」

「あっ……!」

 またしても舟が揺らぎ大きく傾いた。その拍子に、手にしていたカフスが綺麗な放物線を描いた。咄嗟に伸ばした手は空を掴み、カフスは水中へ消えた。アニスは舟から身を乗り出して後方を見たが、荒れ狂う水面が渦巻いているばかりだった。

 呻き続ける水面をアニスは静かに睨んだ。

 椿のカフス。それに、あのノイズ……。確証は無い。が、何の目的で盗聴器など仕掛ける必要があったというのか。

 アニスは目の端でカイを捉えた。

 椿のことだ。男への贈答くらい珍しくはないだろう。

 カイの性格を知っていれば、渡すだけでカイ自身が使うことは解っていたはずだ。その上で常備物に使える物を渡したということは、おそらくカイ個人宛の用件だけではなく、周囲の会話を盗聴する目的もあると考えたほうがいい。

 舟の淵から身を引いて、アニスは座りなおした。

「やっぱり気を抜くわけにはいかなそうだね、あの女……」

 椿の高笑いが聞こえるかのように、波は爛々と踊り狂っていた。

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