表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第三章 : 桃翼のニケ
17/60

9:九回ツーアウト

 河川敷から球場まではさほど遠くない。距離にして約一キロを歩けば着く。鉄橋を過ぎゆく電車の音さえ無ければ、球場からの歓声が聞こえることだってある。遮るものも特に無く、球場自体がよく見えるので迷うことはまずない。

 そんな単純な道のりを桃葉(ももは)は相当の時間を費やして歩いていた。

 松太(しょうた)達と別れてものの十分もしないうちにバッティングの代償が来たのだ。めまいを起こし、空き地が途切れる頃には吐き気を感じ、結局隅っこで吐いてしまった。たった三十段の不揃いな石段をやっとの思いで登りきったが、舗装された道から伝わる熱で視界がさらに揺らめき、体力は削られる一方だった。

 どのくらいの時間が経っただろうか。ついに球場の敷地にたどり着いた。既に試合開始から二時間程経っている。相当白熱した試合展開になっているに違いない。建物の外には誰もいなかった。球場から響くアナウンスは選手を読み上げるばかり。どちらが優勢なのか桃葉には検討が付かなかった。

 ようやく目的地に着いたことに安堵した矢先、桃葉は急激な眠気に襲われ、近くのベンチへよろよろと崩れ落ちるように腰掛けた。

 このまま死ぬのかなあ……。

 朦朧とする意識の中、桃葉はそんなことを考えた。敷地に入ったとはいえ建物までまだ五十メートル以上ある。立ち上がって歩を進める力はもはや残されていなかった。

「眠たいなあ……」

 微睡むことに逆らいもせず、桃葉はぼんやりと呟いた。ベンチ横の(くすのき)が心地よい木陰を提供してくれている。砂漠を何日も旅してきたような桃葉にとって、そこは天国に等しかった。

「――眠ってしまうのか?」

 桃葉の手がピクリと動いた。低く、はっきりとよく通る声。桃葉には聞き覚えがあった。

「…………死神……さん……?」

「如何にも」

 閉じゆく瞼をこじ開けて見ると、灼熱に揺らめく景色の中、目の前に銀縁の真っ黒いコートを着込み、大鎌を背負った銀髪の少年と、セーラー服姿の少女が立っていた。桃葉が姿を確認したと分かると少年は一歩引き、洋風の一礼をした。

「迎えに来たのね……?」

「まあな」少年は殆ど唇を動かさずに言った。

「思ったより普通の人……。骸骨だと思ってた……」

「それは人間の偏見だな」

 桃葉は小さく笑うと再び目を閉じた。

「丁度良かった……。あたし、すごく眠たいの……。迎えに来たのなら連れて行ってくれる……?」

 時が来たようだと、自分でも解った。いつもの『眠たい』と違う。体から全ての力が抜けていく。もう、唇を動かすこともやっとだった。微かな声が、ますますか細くなっていく。少年の気配が近づき、鎌が喉元に突きつけられた。

 そして――



「……本当に、それでいいのか?」



 少年は訊ねた。桃葉は思わず「え?」と聞き返した。

「それでいいのか、と訊いている」

 気配が一歩引き、喉元からひんやりした感触が離れた。

「確かに今日、お前は死ぬ。先日電話した通りにな。だが、あくまで宣告したに過ぎない。あの電話を受け、信じるも信じないも、時間いっぱいに生きるも生きないも、お前次第だ」

 少年はまた一歩下がり、鎌をすっかり背負い直した。

 予想外の事態に、桃葉は心の中で訊ねる。

 なんでしまっちゃうの? 迎えに来たんでしょ?

「日付が変わるその時まで、お前に時間は残されている。本当にやり残したことは無いんだな?」

 家族との時間も大切にしたし大丈夫だよ。松太にも最後に会えたし良かったよ。やり残したことって言ったってもう眠たいんだもん。疲れたんだもん。早く――

「家族と過ごし、野球をしたいという願いを叶え……お前はそれで、本当に(・・・)満足したんだな?」

 心臓が大きく脈打った。

 雷に打たれたように、全神経が覚醒した。

 あたしは何を言っているんだ?

 桃葉は歯を食いしばり、声にならぬ声をあげて死神を睨みつけ、全身の血を煮えたぎらせ、固まりかけた体を叩き起こした。

「――いい顔だ」

 上等の獲物を前に血が騒ぐ狼のような目をした死神が不敵な笑いを漏らすのにも構わず、桃葉は日傘を杖に立ち上がった。生まれたての小鹿同然の足取りで、数センチずつの歩みを進め始めた。

 球場から、メガホンを打ち鳴らす音がこだました。

「八回裏が終わったようだな」

 死神は球場を見上げた。その脇を遅々たる歩みの桃葉が通っていく。追い抜き際、ひゅうひゅうと空気が抜ける喉から絞り出した声で呟いた。

「見て……なさいよ……。あた……しは…………」

 ガリガリと傘が敷石をこする音でほとんどかき消された。死神はゆっくりと首を戻して、今にも崩れそうな少女の背を見つめた。その表情にはもう獣の気配は微塵もない。死神はゆったりと語りかけた。

「勿論だ。お前にはまだやることがあるのだろう? 時間の許すその限りまで、俺達が見届けよう」

 静かで、とても柔らかな言葉だった。

 途端に目の奥が熱くなった。唸り声が嗚咽に変わった。桃葉の足元にボタボタと水滴が落ちた。しょっぱさが口いっぱいに広がり、視界が見る見る滲んでいった。

 この四日、死への恐怖に怯えながら生きた。それ以上に、家族に心配をかけること、桜の大会へ影響することを恐れた。本当は言いたかった。怖いと。もうすぐ死ぬかもしれないと。皮肉にも意地っ張りな性格がそれを許さず隠し通してしまったのだ。誰でもいいから、桃葉が最後まで全力で生きたことを見て欲しかった。慰めて欲しかった。そして今、あろうことかにっくき死神が、それを引き受けてくれると言うのだ。まったく、悔しいったらありゃしない。

 まったく、嬉しいったらありゃしない。

 入口まであと二十メートルのところで、桃葉の足が止まった。球場前は広場のように拓け、日が高いこの時間に日陰を作るものは何も無かった。アナウンスがはっきりと聞こえる。九回表の攻撃はあっさりと終わり、九回裏、一点を追いかける明塚高校の攻撃が始まろうとしていた。

「なんだ……負け……てるじゃん」

 桃葉は呟くとがっくりと膝を折り、四肢を投げ出してうつ伏せに倒れ込んでしまった。

 レンガが敷き詰められた地面は鉄板のように熱かった。柔らかな頬が、腕が、体が、じゅうじゅうと音を立てて焼かれている気がした。もう立てる気はしない。桃葉はアナウンスに耳を傾け、戦況を読むことにした。

 遠のきかける意識と戦いながら試合を推測するのは並大抵の事ではなかった。結局二度、意識が飛んではヒットの快音と歓声で現実に戻りを繰り返し、気づけば満塁になっていた。ランナー出塁の歓声に頭が疼き、三たび意識を失いかけた時、アナウンスが次の打者の名をあげた。

『四番、センター。佐伯桜さん』

 脳みそを氷水に突っ込まれたように、桃葉は現実へ引き戻された。

「お……ねえ……ちゃん……?」

 状況を飲み込もうと桃葉は目をキョロキョロさせた。球場から湧き上がる歓声に紛れて、吹奏楽部の演奏が聞き取れた。桜が登場に使っている曲に間違いない。桃葉は最後の力を振り絞って身をよじり、カバンから携帯を取り出した。自分のすべき事は分かっていた。

 擦り傷を嫌というほど作りながら携帯を顔のところまで持ってくると、桜の番号を引き出して迷わず電話をかけた。桜は今バッターボックスに立っている。おそらくすぐに留守電サービスに繋がるはずだ。呼び出し音が淡々と鳴り響いた。

 自分は何のためにここに来た? どうして松太達と野球をした? 自分のため? 満足するため? 孤独を紛らわすため?


 違う。


 桃葉は携帯を握り締めた。涙が滝のように溢れた。

 お別れをしたかったんじゃない。

 あたしは、応援したかったんだ。

 大切な人達が、これからも野球を愛し、続けて欲しいと願うから。

 バッターボックスでは桜が息を潜めてバットを構えていた。ツーアウト満塁で回ってきた四打席目は、変化球を見切ってからのファール二発でフルカウント。一打出ればサヨナラ。ベンチでは皆が立ち、最高の結果を祈っている。桜の頬に汗が伝った。

 マウンドのピッチャーが振りかぶった。放たれると同刻――携帯が留守電サービスに繋がった。迷いなんてあるもんか。

 桃葉は全ての力をかけた。

「打てっ……! 桜あ――――――ッ!!」






 静寂が訪れた。






 快音は空に溶け、風に乗った白球は満員のスタンドを超えた。






 球場が揺れた。観客は立ち上がり、選手はベンチから飛び出した。歓喜と祝砲に包まれて、不振の四番は復活を遂げた。桜はゆっくりと、仲間が迎えるホームベースを踏み込んだ。


 明塚の町に勝利の賛美歌が響き渡った。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ