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八月の紫陽花  作者: 鷹羽慶
第三章 : 桃翼のニケ
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7:一生のお願い

 砂子(いさご)市と明塚(あけつか)町を分断する川の幅はおよそ四百メートル。水平線の向こうには高層ビルが立ち並び、針山のように、全体がまたひとつの建物を形成しているかに見える。一方、明塚側は住宅地だが自然も多く、小高い山もそびえている。高層マンションは二棟程しかなく、あとは一軒家か五階建て以下の団地ばかり。河川敷は広く、上部はウォーキングロードとしてきっちり舗装されていた。ジョギングや散歩コースの定番であり、休日は下部の空き地で小学生が野球をしているのをよく見かけるものだ。

 夏休みとあって、平日の今日でも少年達は白球を追いかけていた。コンクリートは太陽光の反射がきついため、桃葉(ももは)は邪魔にならないように空き地のはしっこを歩いていた。

「危ない!」

 直後、桃葉の数十センチ先の草地にぼすっと白球が刺さった。千切れた草が幾つか舞い、ワンピースの裾が微かに揺れた。その場に立ちすくんでしまった桃葉は「すいませーん」と駆け寄ってくる声で我に返った。

「大丈夫ですか――って、なんだ、桃じゃん」

 見ると見慣れた顔がそこにはあった。典型的な、幼なじみで家が隣同士というやつだ。桃葉は広い上げたボールを、差し出された手にわざとどっしり押し付けて返した。

「へたくそしょーた」

「うるさいなあ」

 (しょう)()は少しむっとした様子で野球帽のつばをつまんだ。

「何してんの? こんな所で」

「野球」

「見ればわかるわよ!」

 松太はケラケラ笑い、機嫌が戻ったようだった。仲間の元へボールを投げ返すと「続けていてくれ」と叫んだ。

「今度、砂子小と試合することになったんだ。うちのチーム、今年は四年ですごいやつ入ったし、みんなやる気なんだ。今日は……自主トレなんだけどな」

 松太は誇らしそうに鼻を鳴らした。弱小チームと名高い明塚小野球クラブのキャプテンとして、希望の光が見えたのが嬉しいのだろう。そこまで期待される子を見てみたいと桃葉は思った。

「そういえばお前、最近どうかしたのか?」

「え? な、なにが?」

 急な問いに桃葉はギクリと身を固めた。松太はなんでもない風を装った顔で桃葉を見ていたが、見つめ合っていることに気づくと目を逸らした。ほんのり染まった頬を指で掻きながらぼそぼそと呟いた。

「ほら、ここ何日かゴミ出しん時合わなかったからさ、その……ちょっと心配してた」

 通信制でクラスメイトのいない桃葉にとって、松太は唯一の同級生だった。日課の朝の散歩も彼がゴミ出しをする時間に合わせ、学校の話を聞くのが密かな楽しみでもあった。松太も桃葉の事情を知っていたので快く話してくれたし、今勉強している範囲を示唆してくれた。

 だがこの四日は、残された時間を家族に費やそうと、朝の散歩も控えて引きこもっていた。案の定それに気付いた桜が訊いてきたが適当に誤魔化していた。松太にも心配されるだろうと思っていた手前、いざ言われると罪悪感に苛まれた。

「……ま、無理に言わなくてもいいけどさ。思ったより元気そうな姿、見れたしな」

 胸中を察したのか、松太はそう言って桃葉の肩をぽんと叩いた。松太の無垢な優しさが身に染みる。桃葉はなんとか笑ってみせたが、ますます罪悪感がのしかかってきた。

「さてと、俺も戻るか。引き止めて悪かったな。今日、桜さんの大会なんだろ? 早く行ってやれよ」

 松太は帽子を被り直した。以前試合に負けて丸めた頭もやっと伸びてきたようで、ふんわりとした茶髪が刹那見えた。グローブをバスンと鳴らして一歩踏み出した時、ユニフォームを掴まれていることに気づいた。

「……? どうした?」

 首だけ向けると、桃葉が俯いた状態で服をつまんでいた。

「打たせて」

「はあ!?」

 反射的に振り返った松太を桃葉はスタスタ抜かして練習集団に混じろうとしていた。不意を突かれた松太は慌てて追いかけ、桃葉の肩を掴んで歩みを止めた。

「馬鹿、お前そんなことしたら――」

「大丈夫よ。一球くらい」

「『くらい』じゃないだろ!? 大体どうして――」

「お願い」

 桃葉は振り返って松太の目を見据えた。肝の据わった女性とは恐らく彼女のような人を言うのだろう。無に近い表情から読み取れるのは曲げるつもりのない意思だった。

「一生の、お願い」

 桃葉は静かに繰り返し、キャプテンの返答を待った。松太は困ったような泣きそうな表情を浮かべて口をパクパクさせていたが、揺るがない眼差しに松太も腹を決めた。

「……一球でいいんだな?」

「うん」

「全力でやるぞ」

「うん」

 小学生野球と言えど、プラスチックバットではない。運ぶには持ち慣れているが、振るとなると勝手が違う。バッターボックスに立った桃葉は武者震いしていた。

 突然の女の子の登場にチームはざわついた。中でもとりわけ当惑していたのはピッチャーだった。常にバッテリーを組み信頼を寄せている松太の頼みとはいえ、華奢な少女を前に「全力で投げてくれ」を一度で承諾するわけにはいかなかった。度直球一球勝負を条件に渋々、渋々頷いた。

 松太が桃葉の後ろでグローブを構えた。ピッチャーの距離は思っていたより近く感じた。たくさん滑り込まれ、汗の染み込んだ土の匂い。アイコンタクトを取り合いキョロキョロするピッチャー。後ろから感じるキャッチャーの緊張感と息遣い。呼応するように立つ鳥肌と武者震い……。

 すべてが新鮮で、憧れてきたもので、輝かしいもので、羨んできたもので、大好きなもの――

 あたしは、野球が好きなんだ。

 人生初のバッターボックスは人生最後のバッターボックスになるかもしれない。ならば全身全霊で打ってやる。ダテに試合を何百何千回と見てきたわけじゃない。握りの位置、重心、インパクト、踏み込み……。口先だけではないことを証明してやろう。

 ピッチャーの足が、上がった。ビュッと空を切る音が聞こえた。


 そして――





 キンッ





 大陽と重なった。


 芯を捉えた球は高々と空へ溶けていった。松太は立ち上がり唖然として呟いた。

「すっげぇ……」

 打球はピッチャーはおろか、センターを守る小柄な少年の上をも軽々越え、やがて彼方でポチャンと音を立てた。

 歓声とどよめきが入り混じった。桃葉は振り切った体制のまま、口の端をつり上げ髪を風に任せて立っていた。ざわつくチームを前に、桃葉は松太にしか聞こえない声で言った。

「やり方さえ解っていれば、あたしでも出来るのよ、こんなこと」

 松太が自分を見たのを感じた。振り返らなくたってわかる。

ずーっとあなたを見て来たんだから。

「松太が引っ張るチームが弱小なはずないじゃない。やるべきは自主トレじゃなくて試合よ。場数よ。人数が居ないなら一人が二人分守ればいい話でしょ。しっかりしなさいよ」

 桃葉はどすっとバットを地に着き、杖のように寄りかかって空へ語った。

「頑張れえ、松太」桃葉はクスクスと笑った。「それと……」

 おもむろに振り返るとさらにニッコリ笑いかけた。

「わがまま聞いてくれて、ありがとね」

 松太は瞬きもせず桃葉を見つめていた。逆光がひどくて表情が分からない。念願の野球が出来て嬉しい、とびきりの明るい声。でも、見間違いじゃないのなら、確かに――

 泣いているように見えたんだ。

 松太が確かめる間もなく、桃葉はさっさと日傘を差した。

「じゃあ、もう行くね」

 水没させてしまったお詫びに、カバンから真新しいボールを取り出して、未だ立ち尽くす松太の手に握らせた。わらわらと集まってきたチームメイト達にお礼を述べて、サクサクと歩き出した。

「――桃っ!」

 桃葉はピタリと止まって振り向いた。後方にいた松太がチームメイトの間を縫って出てきた。

「俺たち、次の試合勝ってみせるから……絶対、絶対観に来いよ!」

 渡されたボールを握りしめた松太を先頭に、チーム皆が大きく頷いた。キョトンとしていた桃葉はやがて満面の笑みを浮かべた。

「うん。約束する」

 少女は白い日傘をクルクル回して頷いた。


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