1-3 日常の綻び(3)
「な、なんだ!?」
ユージはきょろきょろと辺りを見渡す。ハヤトは眉間にしわを寄せて、音が発生したパソコンの前に視線を向けていた。
健兄とカオリの表情は引き締まり、パソコンに向けて駆け寄った。
パソコンの前にいた男性はキーボードとタッチパネルを駆使し、モニターの上でページを展開していく。大きな地図だったものが街全体を、そして町名単位の地図に変化させていった。
健兄は、彼が座っている後ろからブラウザを覗き込む。
「かなり大きい警報音だったが、どういう意味だ。そして場所は?」
「健介さん、お帰りだったのですね。お疲れのところすみません。音の大きさは、数体以上の珪素生物が同じ場所に現れたからです。五体はいるんじゃないでしょうか。場所は――ここから五百メートル離れたところにある裏路地です。さっきカオリさんが対処した場所の近くじゃないですか?」
カオリは険しい顔で考えを巡らした後に、ユージに視線を向けた。
「ええっと、貴方……」
「ユージです。高倉勇二」
「ユージ君、さっきの場所で何か忘れ物をした?」
「忘れ物……?」
ユージは自分のリュックを見る。登下校中に持っているものと言えば、このリュックのみ。できるだけ詰め込んでいるため、よほどのことがない限り他のものは持たない。
じろじろとリュックを見ていると、隣にいたハヤトがあっと声をあげた。
「お前、いつも付けていたキーホルダーがなくなっている!」
「あ、本当だ」
「それ、今日触った?」
「触っていましたよ。それを握ってチャックを開けていますから……」
カオリは渋い表情で、髪を軽くかきあげる。
「まさかそんなところにも臭いが染み着いたなんて……。ユージ君、昨日私と出会う前に何かされた? ……まあいいわ。詳細はあとで聞く」
カオリは健介と顔を合わすと、お互いに頷きあった。
「ユージ君とハヤト君はとりあえずここにいて。私が現場から戻ってきたら、また話を伺うから」
「え、カオリ先輩はどこに行くんですか?」
カオリは長細い布袋を抱え込んで、淡々と言い切った。
「珪素生物狩り」
カオリと健介はその場にいた何人かと集まり、会話をかわしてから、外に出て行った。
詳細を聞かずとも、緊迫した状況であるのは、ユージでもわかっていた。
果たして、これからどのような展開になっていくのだろうか。
ユージが連日遭遇した化け物が五体もいる。一体だけでも脅威なのに、それが五体もいるとなると、どのように対抗するのか、予測がつかなかった。
この部屋についても、興味がそそるものがたくさんあった。大小様々なモニターが置いてある。その中身も多種多様で、地図、見たことのない数式、何かの分析結果など、凄まじい量の情報量がそこには広がっていた。
それらのモニターに向かって、ふらふらと歩きだそうとしたが、ふとハヤトが出入り口の一点をずっと見つめ続けているのに気づいた。
「ハヤト、どうかしたか?」
「カオリ先輩たちは、さっき俺たちがいたところに向かったんだよな」
「そうじゃねえか?」
「……俺、行ってくる」
「は?」
ハヤトは出入り口に向かって歩き出す。周囲のことなど目もくれず、真っ直ぐドアを見据えていた。ユージは後ろから慌てて追いかける。
「おいおい、どうしたんだ?」
「お前はここにいろ。危ないから」
「ハヤトは?」
「……俺はあれに用がある」
ハヤトの横顔を見て、ユージは思わず唾を飲み、その場で立ち止まった。
今まで見たことがない、鬼気迫る表情をしていた。奥歯をぎりっと噛み締めている。部屋の中にいた人間の制止の言葉も聞かずに、彼は部屋から出ていった。
ユージは呆然としていたが、すぐに顔を引き締めて、廊下に出る。廊下を駆け抜けるが、エレベーターが閉まる方が先だった。
「くそっ!」
悪態をつきながら、視線は少し離れたところにある階段に向けられる。ユージはエレベーターの前に行くことなく、階段の踊り場に飛び出た。そこを一気に駆け下りる。靴で激しく階段を叩いていく。踊り場へと出る二、三段は飛び降りて移動し、すぐに下の階に続く階段に足を踏み入れる。
それを何度か繰り返し、息切れもしてきたところで、ようやく一階に降りた。ドアを開け、息も絶え絶えになりながら、ビルの外に出る。
周囲の闇は一層濃くなっていた。新月に近かったため、点々と付いている電灯のみがユージに与えられた光源だった。
道の真ん中でユージはあちこち見渡す。ハヤトは既に一階に降りて移動してしまったのか、影すら見当たらなかった。
「どこに行ったんだよ」
自慢ではないが、地図を覚えるのが得意な方ではない。このビルにもカオリに言われるがままに連れてこられた。右から来たのは間違いないが、その後何度か角を曲がった。どこをどの方向に曲がったかは、記憶が定かではなかった。
「ハヤト、置いていくなよ……!」
「――少年、どうした?」
後ろから落ち着いた女性の声が投げかけられる。ユージは振り返ると、目を見開かせた。思わずぼうっとして、彼女を眺める。
「おい、どうしたんだ。道の真ん中に歩いていると轢かれるぞ」
「と、友達がどこかに行っちゃって」
「ほう、どんな友達だ?」
ウェーブがかかった薄茶色の髪の女性が、黒塗りのバイクをユージの近くまで転がしてくる。ユージが見上げるほどの高身長で、上下黒いパンツスーツを着ていた。胸は非常に大きく、やや開けたワイシャツの間から胸が見えそうだった。
そしてとにかく美人。カオリも美人な部類だが、彼女とは別格なほど、魅力的な大人の女性だった。金色の瞳がユージのことをじろじろ見てくる。
「君は友達のことも言えないのか?」
ユージは胸から視線を離す。
「黒髪で眼鏡をかけた、オレと同じワイシャツとズボンを着ている男です。見ませんでしたか?」
「いや、私は見ていない。つまり逆側に行ったのだろう」
「それはわかるんですが、その後どこの道を行ったかわからないんです」
「どこに行ったか、心当たりは?」
「さっきオレたちがいた場所だと思います」
「その場所の周辺で、目印になるものは?」
ユージは腕を組んで、必死に記憶をあぶり出す。
「たしか閉店した古本屋が近くにあった気が……」
「もしかして『原田古書店』のことか?」
「あ、はい、そうです!」
女性はにやりと笑みを浮かべた。そしてぶら下がっているヘルメットに手を触れる。
「ちょうど私もそこまで行こうとしていたところだ。一緒に行くか?」
「はい!」
ユージは即答した。すると彼女が持っていたヘルメットを投げられる。それを両手でしっかり受け取った。
「さあ、乗って。時間もないんだろう?」
ユージは頭を縦に振る。そして女性がまたがったバイクの後ろに、ヘルメットを被って飛び乗った。どこに手を回そうか迷っていると、彼女に後ろ手で右手を引っ張られて、腰に回される。
「しっかり掴まっていなさい。落ちても命の保証はしないからな」
「え?」
女性がハンドルを回すと、勢いよくエンジン音が鳴る。体中に振動が伝わってきた。そして前輪を一度軽く上げてから勢いよく走り始めた。油断すれば振り落とされる速さ。
もはや迷っている余裕はない。ユージは彼女の背中にぴたっとくっついて、バイクに身を任せて前進し始めた。
何度か振り落とされそうになった。その度に死を覚悟した。
しかし、必死にしがみついていたため、何とか死なずにはすんでいる。
女性の顔をちらりと下から覗き見た。この角度から見ても、美人である。
「私の顔に何か付いているのか?」
「いえ、そういうわけでは……」
「そうか、ならいい。――さて、君はなぜ友を追いかける? しかも急いで」
「友達が危ない目に遭うかもしれないって思ったから。それに今まであんな顔見たことがなくて、何だろうって」
「君は友達想いなんだな」
女性の表情が仄かに緩む。ユージは軽く首をひねった。
「そうですか? ただ自分が知りたいから追っかけているだけですよ。友達想いとか、そういう意味じゃない気が……」
「端から見れば、そう見えるぞ。そろそろ着くぞ。危険なことにはくれぐれも首を突っ込まないように」
目の前に見えた十字路を左に曲がると、女性は急ブレーキをしかけた。ユージは女性の背中に顔をつぶされる格好になる。
ふらふらとしながらバイクから降りると、地響きがユージたちに襲ってきた。女性はバイクに寄りかかり、腕を組んで、その先に広がる状況を眺める。
ダークグレーの化け物が三体、人間たちの前に立ちはだかっていた。二足歩行のものがニ体、四足歩行のものが一体いる。どの化け物も黒ずんだ液体を体から流していた。
その前にはカオリや健介たちの姿があった。カオリは抜刀をし、両手で刀の先端を化け物に向けている。
「健兄、そろそろ行くよ!」
「無茶するなよ!」
カオリがアスファルトを蹴って、二足歩行の珪素生物に向かって駆け出す。少し遅れて健介が続いていく。他の人たちは、他の珪素生物に意識を向けさせようとしていた。
カオリが向かった珪素生物は、ハンマーのようなものを握りしめており、それを彼女に向かって叩きつけた。
しかし、カオリは触れる前に飛び上がり、珪素生物の目のあたりを十字に斬った。珪素生物は目を手で覆いながら呻く。
その隙に、カオリは頭に足を軽く乗せてから背中に回り込んだ。即座に踵を返して腱を斬る。相手が膝を付くと、わき腹に深々と刀を突き刺した。
ぴくりとも動かなくなった珪素生物。その全身が消え、黒い影のようになるのには、そう時間はかからなかった。
健介は片手を腰に付けて、息を吐く。
「援護する必要はなし……っと」
他にいたニ体の珪素生物の姿も無くなっていた。
ここに来るまでユージはバイクに乗せてもらったため、かなり早く現場には到着できた。しかし、五体の珪素生物がいたはずだが、既にそれらがすべて消え去っている。
カオリの鮮やかな刀捌きといい、いったい彼らは何者なのだろうか。
視線をやや右にそらすと、塀の傍で目を大きく見開いている眼鏡をかけた少年がいた。ハヤトが無事だったことを知り、ほっと胸をなで下ろす。ユージは軽く手を上げながら、ハヤトに駆け寄った。
「おい、ハヤトー」
呼びかけられて気づいたハヤトは、ユージに向かって振り返る。
彼は顔を向けるなり、驚いた表情で叫んだ、
「ユージ、後ろ!」
「は?」
視線を後ろに向けると、ユージの顔は強ばった。大型犬くらいの大きさのダークグレーの硬質な皮膚を持つ生物が、ユージに向かって猛突進していたのだ。黒い舌をだらりと口から出している。
「ユージ君!」
カオリたちが走ってくるが、それがユージに鋭い歯を見せるのが先だった。
逃げねばならないはずなのに、足がまったく動かなかった。
「――君か、不幸にも非日常に踏み入れてしまった少年は」
ぽつりと呟かれた言葉。
次の瞬間、乾いた音が鼓膜に入った。
大型犬の化け物は頭を撃たれ、失速しながらユージの前で倒れ伏した。そこで黒い影のようなものになっていった。
微かに焼け焦げたような臭いが鼻腔に入ってくる。
バイクに寄りかかっていた女性は、小さな黒い銃の銃口を軽く息で吹いた。
あの場所から、あの角度で、あの化け物に命中させたのか――?
「おい大丈夫か、ユージ!」
「ユージ君、怪我はない?」
駆け寄ってきたハヤトとカオリが次々と声を投げかけてくる。それをユージは軽く頷いて応えた。
視線があの女性から離れられない。
「――カオリ、街中での戦闘はすべてを想定して戦闘に入らなければならないよ。今回みたいな傍観者も、突如として入ってくる」
カオリは女性のことを見ると、軽く目を見開いた後に、姿勢を正した。
「その通りです。今回は私の油断で彼に危害が与えられそうになってしまいました。以後、気を付けます」
「素直でよい。私はそういう君を評価しているよ」
黒髪の女性はユージの前に来ると、腕を組んでから見下ろす。
胸元も気になるが、それよりも彼女の目から決して逸らせなかった。
「君が珪素生物に臭いを付けられ、消せなくなってしまった、非常についていない少年だね。エルランの強力な除染を持ってしても消しきれないとなると、残念だが一生ものだと判断した方がよいだろ。――君はもう二度と幸せな日常には戻れない」
ユージはごくりお唾を飲み込む。
真顔だった女性は小さく笑みを浮かべた。
「けど、安心するがいい。日常には戻れずとも、非日常をうまく渡り歩いていける手段は、今はある」
そして彼女は右手を差し伸ばしてきた。
「非日常を受け入れて、辛く激しい人生を過ごすのなら手を握ってくれ。短いがささやかな日常だけを楽しんで死んでいくのなら、この場から去ってくれ。さて、君はどちらをとる?」
何を意味しているかは、今のユージではわからない。
だがこの手を握らなければ、明日にでも死ぬ可能性はおおいにあった。
ユージは握りしめていた手を開き、ズボンで汗を拭ってから、彼女の手をしっかり握りしめた。