3-3 踏み出す一歩の重さ(3)
「本当に助かりました。まさかあそこであんな大きな動物と衝突するなんて。対処してくださったようで、さらには病院まで連れてきてくださり、ありがとうございます」
修一は後部座席から、運転席にいる健介に向かって改めてお礼を言っていた。健介は軽く首を振っていた。
病院に乗り入れる前は小雨が降っていたが、今では本降りとなり、傘がないと歩くのは困難な天気になっている。
「通りがかっただけですよ。高倉さんに何もなくてよかったです」
「あの動物はどうなったんですか?」
「――ご安心ください。眠らせて、きちんと対処するよう指示しておきましたから」
「殺したんですか?」
「私は引き渡しただけですので、その後どうなったかはわかりません」
健介は軽くハンドルを握る。
「高倉さん、道端にあんな大きな動物が現れたとなったら、皆さん驚きを隠せません。できれば今回のことは、お二人の胸の内にしまっておいて下さい」
「そうですね、わかりました」
修一はにこにことしながら頷いた。意外とすんなりと受け入れてくれたようだ。
ふとユージは助手席に座っているカオリが、口を一文字にして外を眺めているのに気づく。後ろからユージは顔を出す。
「どうしましたか?」
「ちょっとね……。ユージ君は気にしないで。自分のことだけを考えていて」
カオリはきりりとした表情で健介に顔を向けた。
「健兄、あそこの交差点で降ろしてくれる?」
「カオリ……」
「早川さん、もう夜の十一時を過ぎていますよ! こんな夜更けに若いお嬢さんが一人で道路を歩くなんて……」
修一がふるふると首を横に振っていた。カオリはにこりと笑みを浮かべる。
「……家から迎えが来るのです。そこの交差点で待ち合わせをしました」
「本当ですか?」
「ええ」
にこやかに話しているが、ユージから見れば嘘っぽかった。
カオリは祖父母と暮らしていると言っていた。祖父徳治郎はまだ病院にいるはずである。ならば、祖母が迎えに来るのだろうか。いや、カオリが家に電話をかけている様子はなかった。
ならば――。
「カオリ先輩、あの……」
健介は静かに交差点の手前で自動車を停めた。カオリはユージの言葉に耳を傾けることなく、棒状の物が入った布を抱きしめ、傘をさしながら車から降りた。
「気をつけろよ、カオリ」
健介は運転席から身を乗り出す。カオリは硬い表情で頷いた。
車はゆっくり動き出す。ユージは窓越しからずっとカオリを見ていた。彼女は寂しそうな笑みを浮かべて、軽く手を振りながら、ユージたちを見送った。
カオリの姿が小さくなると、健介は意図的にハンドルを握って、アクセルを強く押した。やや速度が上がる。
「もう夜も遅いですし、急いでお送りしますね」
「すみません、本当に……」
ユージが乗っている場所から健介の表情が断片的だが垣間見えた。非常に険しい表情をしている。ユージも妙な胸騒ぎはしていた。連日襲われ、命も狙われていれば、さすがに直感は働くものである。
家まで十分足らずだったが、その間の会話はほとんどなかった。雨に打たれている窓を通して、ユージはじっと外を眺める。自然と窓枠にかかる手の力が強くなっていた。
減速し、ブレーキをかけると、健介は後ろを振り返った。
「こちらの家でよろしいですか?」
「はい、そうです。ありがとうございます!」
修一はてきぱきとお礼を言って、折りたたみ傘を取り出して車から降りる。ユージは雨の中に飛び出て、すぐに家の門前へ移動した。
車の前を回って、門に向かっている途中、健介が血相を変えて、電話を受けている様子が見えた。見る見るうちに彼の表情が歪んでいく。
門ではなく、ユージは車の運転席の脇に立ち止まった。
「ユージ、風邪ひくぞ?」
玄関前で傘を持って立っている修一が呼んでいるが、ユージはじっと健介の動向を見つめていた。
何往復か会話をすると、彼は電話を切った。視線を上げると、ユージと目があった。すぐに視線を逸らされる。
ユージは窓を軽く叩いた。健介はサイドブレーキに手を添えようとする。それを見て、両手で思いっきり叩いた。
「何をやっているんだ、ユージ!」
修一は慌てて駆け寄ってくる。その前に健介は窓ガラスを渋々開けた。
ユージは運転席の中に顔を突っ込む。
「カオリ先輩に何かあったんですか?」
健介は答えない。後ろから修一に肩を握られるが、ユージは肩を回して、それを遮った。
「オレのせいですよね。何があったんですか、教えて下さい、健介さん!」
「ユージ、落ち着きなさい!」
修一に怒鳴られる。ユージは振り返り、真正面から兄を見据えた。険しい表情はしているが、どことなく泣きそうだった。
怒鳴り返す言葉が唐突に消えていく。視線を下げて、ユージはぽつりと言った。
「……すまん、兄貴。ちょっと今晩は家に帰らないって、母さんたちに伝えておいてくれ」
「ユージ……?」
「……ハヤトと一緒に徹夜で作業する日だったの、すっかり忘れていた。そう伝えておいてくれ」
そして視線を合わせることなく、ユージは助手席に回ろうとした。
そのとき、とっさに手を握られた。目を丸くしていると、その手に傘の持ち手が握らされる。
「持って行きなさい、うまく言っておくから。……無理はしないでくれよ」
「……さんきゅ」
傘を握りなおして、ユージは助手席に滑り込んだ。健介は拒否反応を示さず、淡々と座るのを待っていた。
車が動き出す。修一は深々と頭を下げると、それに応えるかのように健介は軽く手を上げて、その場から去っていった。
「健介さん、オレが乗るのを待ってくれて、ありがとうございます」
「君を家に置いていたら、家の人たちに迷惑がかかると思っただけだ」
「オレ、そんなにヤバい状況にあるんですか?」
「そうだ。――君はいったい何を見たんだ。どうして君を殺さなければならないほど、執拗に追っているんだ?」
健介はアクセルを深く踏んでいる。自動運転が一般的だが、それだとスピードは出せないため、あえて自分で運転しているようだ。先ほどよりも加速度は段違いだった。
健介の腕時計型の電話が赤く光っている。それを軽く操作して、音声を拡大して通信を開始した。
『健介、あとどれくらいで現場に行けるんだ?』
「十分もかからず着くさ、エルラン。その後、何か連絡は入ってきたか?」
『今のところはない。カオリの電話を通じて連絡が来て、この女は預かった以外何も聞いていない。おそらくあっちも移動中なんだろう。それまでの間は、相手から連絡はないはずだ』
ユージの目が大きく見開く。カオリの身に何かあったと勘付いていたが、まさか誘拐とは。
「局からは誰が現場に向かっている?」
『局長を入れて、五人向かっている。あとで徳じいも行くって』
「――ハヤト君は?」
『ハヤト? ああ、相沢な。夜も遅いし、家に帰しているよ。ただそんなに時間はたっていないから、どっかでほっつき歩いているかもな』
「そうか、わかった」
『そっちのおもり対象は?』
「連れてきている」
『はあ?』
エルランがあからさまに嫌そうな声を出している。容易に表情も想像できそうだ。
「おそらく今回の件はユージ君が関係している。もし取引とかになった場合には、彼が必要になると思って」
『そう言いつつ、断りきれなくて連れてきているんだろう。本当に甘いな、お前は』
「いいだろう、別に。それじゃ一度切るな。こっちは運転中だから」
『それは失礼した。あとでな』
エルラン側から通話を切ると、健介はさらにアクセルを強く踏んだ。ユージは反動で座席に背中を押しつけられる。
「数分の辛抱だから」
それだけ言って健介はよそ見することなく、現場に急行した。
現場は先ほどカオリが降りた場所から数分歩いたところにある、公園の中のようだ。
車から降り、傘をさして移動する。
現場の近くには電灯が点滅していた。初めて珪素生物と出会ったときのことをつい思い出してしまう。
健介はその下にある、色味の抑えた桃色を主とした傘を取り上げた。カオリがさしていたものだ。
そしてその傍には袋からでかけている、竹刀もある。
「ユージ君、僕の傍から離れないで」
「はい」
大人しく従い、ユージは健介の傍に寄った。きょろきょろと周囲を見る健介にならって、ユージも辺りを見渡す。
泥濘にまだできたばかりの足跡が三種類残っていた。一つはユージよりも小さな足跡。これはおそらくカオリのだろう。もう一つは大きさから判断して、人の足ではなく、大きな生き物が踏んだもののようだ。最後の一つはユージたちと似たような足跡。健介はその足跡をじっと見つめている。
「……カオリと会ったのは、俺が徳治郎さんの道場に通い始めてからだ。小学校五年生だったな、当時既にカオリの両親は亡くなっていたよ」
屈んで、足跡の脇にある吸い殻をハンカチで拾い上げる。
「六歳も離れていたけど、なぜか懐かれてね。気が付いたら、兄妹みたいだって言われるほど、仲が良くなっていた」
立ち上がり、哀愁漂う表情をした赤髪の青年はユージのことを見据えた。
「妹に危険が迫っていたら、居ても立ってもいられなくなる。まさに数時間前の君のようだ」
健介は頭を激しくかき、自分の失態を悪態として吐いていた。
「くそっ、無理にでも止めておけばよかった。俺がカオリもユージ君も、高倉さんも皆守れれば、こんなことには……!」
「――そう自分を恨むな。カオリの決意が無駄になるぞ」
真っ黒なパンツスーツを着た女性が五人の人間を連れて歩いてくる。彼女の隣には、苦悶の表情をしているハヤトの姿もあった。
ユージの視線がハヤトに向いていると、レイはああっと声を漏らした。
「さっき道を一人で歩いているのを見てな、後ろに珪素生物もいたから、退治して、ついでに連れてきた」
「珪素生物がハヤトに?」
「それなりに強そうな、二本足の珪素生物だったぞ。カオリみたく拉致する気だったのかもしれない」
「拉致……?」
「お前を引っ張り出したいんだろう、高倉勇二」
レイは後ろにいた部下たちに現場検証をするように指示を出す。
指示出しを終えたのを見計らって、健介は煙草の吸い殻を差し出した。レイは目を見張って、それを受け取る。
「……奴ら、もはや隠れる気はないのか。DNA鑑定でもすれば一発でばれるだろう」
「むしろ挑発でもしているんじゃないですか。鑑定をしてもいい、いくら素性がばれようとも構わない。こちらには人質がいるからなって」
健介の拳が強く握りしめられる。
ユージはハヤトの隣に移動した。こいつの隣にいると、不思議と安心できる。
ハヤトはちらりとユージを眺めた。
「お前は無事なんだな。お兄さんも……後遺症とかはないんだな」
「ああ。もう一度検査は受けるらしいけど、問題はないだろうって」
ユージは俯き、前髪をくしゃりとさわった。
「……はは、オレのせいでこんなことになって。もうさ、どうすればいいんだよ……」
「ユージ」
ハヤトがユージの肩を軽く持つ。視線を上げると、ハヤトの表情はやや緩んでいた。
「まだ誰も死んでいない。後悔するのは早いと思うぞ」
それは妹を亡くしてしまった兄が出した言葉――。
呆けていると、ユージはハヤトに頭を力強く叩かれた。
「とりあえず空っぽの頭でもいいから、これからどうするか考えてみろ!」
「痛てえな! オレのせいでカオリ先輩が捕まったんだろう。なら解放してもらうには、オレがカオリ先輩の元に行かなくちゃいけねんだろう!」
「ほう、馬鹿なりに状況は読めているようだな」
レイが顎に手を当てて、笑みを浮かべている。美女であっても、馬鹿と呼ばれるのはあまりいい気分ではなかった。
「現場検証は四人に任して、私たちは一度局に戻るぞ。それくらいに向こうから連絡が入るはずだ」
「まるでさらった犯人の検討が付いているような言い方ですね」
ハヤトが目を細めて聞くと、レイは健介を連れて歩き出した。
「ああ、わかっているよ。私たちと敵対しているのは、ほんの一握りしかいないからな」
「敵対?」
「そもそも珪素生物はなぜ私たちの前に現れた? 生物の進化の果てか? そんな兆候も見たことがないのに?」
ハヤトとユージは並んで歩いていく。
「珪素は自然界では単体で存在していない。単体で存在させるためには、人の手が必要だ」
少年たち二人の目が大きく見開いた。
レイは不敵な笑みを浮かべながら、最後に言葉をつづった。
「珪素生物は人の手が付かなければ、存在しないものなのだよ」
レイの言葉はすぐに雨に紛れて、消えていった。
だがユージとハヤトの頭の中にはしっかりこびり付いていた。




