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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

恐怖の母親!私は心から憎悪している!実話です

作者: 星砂 

 自分の過去が重すぎて、正視できず、怖くて、痛くて振り返ることが全然出来なかった。

 振り返ることを断固拒否し続けてきた。

 しかし、毒親本を発表したとある作者にメールで過去を綴ることを提案された。

 過去を話すのは、放すと言うこと、アウトプットの作業。一度インプットされたものはきちんとアウトプットしないと、心の毒は洗い流されないと。


 だから、毒親本を書いた人たちは書いてスッキリしたんだと思ったから。

 私も勇気をもってアウトプットし、毒を洗い流していきたい。

 そして、わかったことがある。

 私のほうこそ、親を愛してはいなかった。愛だと思い込んでいたのはただの幻想だった、と。

 親を殺したい!早くこの世から葬り去りたい!


 許すつもりもない。

 あのクソ両親のことを。


 私は虐待された劣等感でいっぱいの重荷を一生背負って生ていかなければならないから。

 虐待する両親のことをとてつもなく恥じているし、劣等感と憎悪を植え付けられ、この塊が心から一生離れることはないのだら。 


 虐待の事実を誰彼構わず言いたい! 閉

 それが言えず、自分に抑圧的な生き方を強いてしまった。

 ああ、悔しい!馬鹿にされた子ども時代。

 

虐待されたということに対して、どこか劣等感を感じる。

 心の奥底に溜まったどす黒い感情の蓋がガッチリまっている。

 感情という行き場のない容器はドンドン大きくなるばかり。

 過去を捨てるなんて、出来るはずはない。


それは、あのクソ両親と同じ事を自分に強いる事だから。

 そう、クソ親と同じ・・・あいつらは、自分の過去からも、自分の感情からも逃げて、全責任転嫁をもに背負わせたんだ。


 小さな私の心をこれでもかというくらい、掻き乱し、心と体中を支配して動けなくさせてしまう・・・

 これが過去を納得できないでいる親の仕業で、その親の過去に翻弄されるのが子どもだということに私は気づいてしまった。


 私のことを語ることにしよう。

 現在、夫と2人の子どもの4人家族の(高校1年の娘、小学校五年生の息子)主婦です。


 この文章を書くにあたり、私自身の自分のこのどす黒い感情と折り合いを着けることができるようになるまで、過去をこれでもかと振り返り、私の気が済むまで感情を吐き出すことを自分に許可した。


 溜まったままの感情が邪魔している限り、なにも見えず聞こえず、過去にしがみついて行動している限り、あの親に支配されていることになる。

 そして、過去を振り返り、自分の物語にしないことには未消化な感情に振り回され、自分では動けないことがいやというほどわかってしまったから。


 私は物心ついたときから、自分の命の大切さ、生きていくためにもっとも必要なことを親から教えてもらえず、それどころか人生諦めて支配されろ!と言う両親に育てられた。


 そのことを認めることが出来ることによって、私の育った環境が如何に不自由だったかが今やっと分かった。


 私の実家での出来事と、家族のおかしさ、そしてこれがメインになるけれど、特に母親の異常さについて話すことにした。


 母親は、私が幼少期のころから私達家族を徹底的に、精神的に虐めて虐め抜いて来た。虐待する事を心の支えに生きてきただけの人だと言える。


 子供心にも、この家はなんかおかしい。

 どうしてだか生きづらさを感じていた。

 なんで他の皆は親に抱きついたり手をつないだりニッコリ笑ったり出来るんだろう?と思ってばかりいた。


 弟が産まれた時、私は3才だった。

 当時は、父親、母親と、私と、弟の4人で、小さな建売住宅に住んでいた。

 3才なんて、まだ母親の甘えなしではいられない。それを「うるさい!」と怒鳴る場面が未だにフラッシュバックするのだから、私はいつも怒鳴られていたのだろう。


 そして、夜眠るときも、「あんたは一人で寝なさい!」と言われたのだ。

 3才だから、「眠れないよ。」と布団を抜け出して母親に訴えても、「弟が寝そうなんだから一人で寝ろ!あんたも目をつぶってりゃ寝れるよ!」と、取り合ってくれない…何度か訴えても無駄だと悟った。

 夜一人で悲しくて泣きながら眠りに着くことも多かった。

 夜中に母親にあやしてもらう・・・?記憶に無いな。

 

 母親は、怒るとき言葉使いが悪くなった。悪いというより、まるで脅されるかのように聞こえる。

 それはそれは母親の祖母にそっくりだった。言方も脅しのようにドスを聞かせ、とても冷たい言い方をする。

ひっきりなしに吸う煙草の回数も祖母、母親共に滅茶苦茶多かった。

 

 結婚してから、父親が夫にこんなことを言った。

「ゆうこは手が掛からなかったんだよな。一人で寝るし。」と。

 はあ?何をいってやがるんだ!このクソ親父は!

 一人で寝ないと罵倒されるから仕方なく一人で泣きながら眠ったんだろうが!お前達が脅して手を掛けてくれなかった結果論だろうが!

 なにを寝ぼけたことを言ってやがるんだ!

 本気で切れそうになった。

 切れてやればよかった。


 幼稚園には3年間通わされた。当時は2年保育が支流だった。理由なんて、「弟がいるから、あんたは幼稚園に行きなさい。」だった。

 弟がいるから私が邪魔なんだ!

 幼稚園のバスに乗りながらよく思っていた。とても淋しかったのを覚えている。

 男の子はずるい。とも思っていた。

 隣に住んでいる男の子は下に妹がいても2年保育だったのに!隣の男の子が、羨ましかった。

 隣の家は優しいお母さんがいたし…


 隣のおばさんは実際優しかった。日常でも優しかったに違いない。

 隣のうちの男の子と私は同じ年だったので、よくおばさんの家の庭で遊んでいた。

 私達も小さかったから、ただ追いかけっこをしたり、シャベルで土を掘ったりとたわいもない遊びをしていた。

 おばさんは遊んでいる私達によくお菓子をくれた。

 二人で庭にある飛び石に腰掛、仲良く食べた気がする。

 そんな時おばさんはニコニコして「おいしい?」などと聞いてくれた。

 家とは違う心地よい隣の家。

 隣の家に行くの、好きだったんだな、私。


 平日は、幼稚園に通っていたから、年少の時の記憶は、隣の家に幼稚園から帰ってきてから遊んだ記憶なんだろうな・・・・


 そういえば、幼稚園での出来事を思い出した。


 幼稚園の参観日で母親と手を握ろう。ということをしたのだが、もうすでに違和感たっぷりだった。

 今、思い出した。年中の時、母親が私の手を握ってきた。珍しく母親の手の感覚を確認できて私は嬉しかったのだけれども、すぐ手を払われた。

 理由は、幼稚園の友達親子がそばにいたから。

 よその母親に精一杯よい母親を演じたいためにとった行動だった。

 私の手を握っていた手は、友達親子が見えなくなると、すぐに払いのけられた。驚いたし、悲しかった。

 人前では、仲良く見せなければならず、家では罵倒の毎日なんて、悲しすぎる。

 私と手を握るのさえ、人前以外では見せたくないほどこの人は嫌なんだと。

 心が張り裂けそうに痛かった。それを悟られないように心をぎゅっと閉じ込めなくてはならないことは、この年の私にはきつ過ぎたんだ。

 私はこの頃から、少しずつ、解離状態が起こるようになっていった。


 それから私からは恐ろしくて母親と手を繋いだことは記憶に無い。


 そして、父は加害者でもあり、被害者でもあった・・・え?

 親なのに被害者っていう言い方はおかしいな。このクソ父親が親父らしい行動を取りさえすれば、家の家庭ももっとまともに落ち着いたろう。親父なんだから、母親の罵りに一発平手打ちをして、「子どもになんて事を言うんだ!この馬鹿!」とでも言ってくれたら全然ちがったのかも知れないのにね。

 

 まあ、父親の癖に、子どもを守れない、子どもより子どもじみていて自分さえ逃げ切れればいいという、仕事だけが唯一とりえだと思っている神経の持ち主だから今、反吐が出るくらいには最も軽蔑している存在なんだけれどね。


 私の三才下の弟も、母親の被害者にならざるを得ない生き方をしている。いまだに心から何もかもを母親に吸い取られて生きている。


 母は、人を地獄に陥れて立ち上がれなくさせ、ほくそ笑む天才。

 いえ、それしか生きるすべが無かったといっても過言ではない。

 子どもを愛おしいなんて思ったことも、子どもの笑顔に癒されるなんて感情はさらさら持ち合わせていなかった。

 そこまで根性が捻じ曲がった哀れな人=母親

 

 母親は、敵とみなした相手を這い上がれなくなるまで打ちのめし、廃人で身もこころもボロボロになり、それでもとことん虐め抜くのを辞めない。自分を正当化することでしか自分の立ち位置が分からない人。

 優しさなんて全く知らない母親は、自分が相手を利用するためだけに知っている優しいと思われる言葉だけを表面的に使う。

自分を売り込むため、見せ掛けの言葉を巧みに操るり売り込みを発揮する為だけに優しそうな言葉だけを並べる。それは見事に使う。


 手中に納まっていたと認識した相手が近所の人だったら、利用できなくなったとたん、「自分と同じ意見ではない!気に入らない!あの人は頭がおかしい!」と、近所中に言いふらすようになる。

 相手が「ごめんなさい。」と、泣いて謝るまで何日でも悪口を近所のだれかれかまわず言いふらし、知り合いを捕まえてはありったけの毒を振りまき散らす。

 ここまでくればしめたもの。

 相手は、母親が怖くて謝るしか手段がなくなる。

ここまで怒らせたこと後悔させてやる!あんたの生活を叩き潰す!ここから追い出してやる!どんな手段を使ってでも!と追い詰めるからだ。


 これでは私だけではなく、きっと誰だって気がおかしくなるでしょうし、存在を脅かせられた恐怖から謝るしかなくなるだろう。全く、よく思いつく。ここまでくれば立派な拷問だ。卑劣きわまりないやり方を思い付く恐ろしい母親。


 なので、幼い頃から家族というものは、母親にとって「支配することのみに存在する!私はヒトラーだ!私は女王だ!だからお前らは1人残らず奴隷だ!くずだ!誰も私を傷つけることは許されない!」

 家族に罵倒、罵りの嵐の毎日だけを与え続ける害虫そのものの母親。


 母親の頭の中では、私のことも、弟も、そして、父も自分の奴隷として見下した生活が永遠に続くと思っていたのだろう。恐ろしい。


 母親が怖くて、物心ついた頃から恐怖でいつも私は見も心も凍らせていた。何故なら少しでも気を緩めると、罵倒、罵りが始まるからだ。


 そして、罵倒するときには

「私は悪くない!お前らが悪いんだ!」と、物を投げる。口答えなどしようものなら、掃除機の枝で叩かれた。


 私が幼稚園年長になるときに、引っ越しをした。

 新しい家を父親が建てたのだ。建築業はそのころ建設ラッシュで、仕事は沢山あって、父親はトラックを置ける位の土地を手に入れたのだった。

 隣の町だったので、幼稚園は変わらなかった。

 新しい家から、公立の小学校に入学した。


 それで、なぜか弟は2年保育だったんだ!

「何で?弟だけズルい」と言ったら、またまた母親に怒られた。


 私の弟は、幼稚園位までよく片方の肘が外れる体質だった。

 手を繋いでいて、よく外れてしまうのだった。外れては、いつも近くの接骨院に母親が連れていった。

 弟の肘が外れると、いつも私のせいにされた。

 弟が勝手にブロック塀にぶら下がって外してたりしたことでさえ、母親が見ていなければ 私のせいにされた。

「ゆうこ!またあんた引っ張ったね!」と。「違うよ!勝手に塀にぶら下がってたんだよ!」と言ったって怒られるのは、決まって私。「あんたが悪い!」・・・こんなの理不尽だ!


 私は、弟が母親と接骨院に行った後、悔しくて悔しくて、こっそり泣いていた野を覚えている。

 母親に、訴えるように泣けば、「ああ、見せつけやがって!嫌な子だよあんたは!」と、また罵倒の嵐だから。こっそり泣くしかなかった。

 これでは私が泣けなくなるよね。

 弟が小学校に入ったあたりから肘が外れることが少なくなった。


 大人になるまで、この世の全ての母親というものは、毎日があらゆる人の愚痴の垂れ流しをするのが普通なんだと思っていた。

 その愚痴を聞いて吸収材の役割をさせられるのはいつも娘。つまりは私。

 娘と言うものは母親の愚痴を皆聞くのが役割だとホントに信じきっていた。


小学校一年生の入学したてのころ、学校で私はトイレが間に合わず、トイレの前で漏らしてしまった。

小1なんて、まだ学校に慣れていないので粗相する子は沢山いた。

だから、担任の先生だって、保健室にすぐ連れていってくれた。

保健室に先生も一年生だからか、気にも止めずに

「帰ったらパンツ洗ってもらってね。」こう言って、優しく替えのパンツを差し出すのだった。

漏らしても怒られない!私は感動した。


 感動した私は、家に帰って母親に正直に、

「学校で漏らしちゃった。」と報告した。

その時の母親がみるみる鬼の般若の顔にかわったのを今でも忘れることができない。

母親は、掃除機を使って掃除をしていたのだった。

「あんた、漏らしたの!!」「この、恥さらし!」

掃除機の柄で殴りかかってきた!

恐くて、恐ろしくて、痛くて二階にかけ上がろうとした階段の途中で私はつかまり、掃除機の柄で私の頭を殴り付けた!

痛かった。恐怖で頭が真っ白になった。、泣くことも忘れて階段でうずくまった。

 それを見た母親は、ヤバイと思ったのだろう!

「二度と漏らすんじゃないよ!叩かれたのはお前が悪いからだ!またやったらまた叩くからな!!」

 ドスのきいた声で脅すだけだった。


 この日は痛くて恐くて震えながら寝たのを覚えている。

 自分を凄く攻めながら。

「生まれてきてごめんなさい。」と。

「いいこになるから許して。」と。


 私が母親の言うことを聞くから。と。

 虐待…毎日精神的虐待をうけ、それを誰にも言えずにいた。

 いつからか、これが当たり前の毎日になっていった。


 私が毎日聞かされるのは、父の悪口に始まり、近所の人の悪口、私の担任の先生の悪口。あらゆることに悪口を使う。これだけ言っても使い果たされることはないのだから。恐ろしい。


 誰かの欠点を嘲笑うその姿は人間とは思えず、そんな悪魔の母親から誰かに対する悪口の数々。毒三昧の愚痴を毎日聞かされて、私は精神がおかしくなりそうだった・・・のだ。

 これが日常だったから、育った環境の何が間違っていて、何が普通なのかが全く分からなかった。

 ただ、「嫌だ」などととても口が割けても言えなかった。

 言ってしまえば最後、「お前は冷たい!酷い娘だ!こんなに苦しい思いをしてまで育ててやっているのに!感謝しろ!」と。罵倒の毎日になるのだから。


 小学生の頃からクラスに居ても自分を大事にできる自信に満ちている子にはまぶしくて近寄れなかった。それどころか私は意地悪な子どもから虐めの対象者になってしまう。

 自分が分からないから、意地悪されてもどうしょう?と恐怖だけが自分を襲う。だから解決なんて考えは無くて、泣くこともできないし、言い返しもしない変な奴だとまた虐められるようになる。

 彼らにしたら、私のことがさして面白くもなかっただろうが、異質には写っただろうから、異質が許せないと思ったり、怖いと捕らえられたり、私は好奇心の対象として虐められたのだろう。


 よく母親に言われたことの一つに、「親の顔色を伺え!私の気持ちを察しろ!」があった。

 小学生の子どもに顔色を伺ってもらって満足するなんて、それでも親か!

子どもが言いたいことを我慢して、親に合わせて生きるなんて。

 母親が子どもでいたいから、子どもに親役をやってもらおうだなんて!

自己中な最低の行為を押し付ける馬鹿な考えを、さも堂々と言って撥ねのけるのだからたまらない。


 子どもを何だと思っているのだろう。今も脅せば言うことを聞くのが当たり前だと信じて疑わない自己愛に満ち溢れた根性だけで生きている母親。


 父は母親の罵倒が始まると、どうしていたかというと、ワーカーホリックなのをいいことに、土日も仕事があれば行く人なのだ。

 父親が基本家にいないから、助けも求められなかった。


 父親なら、父親らしくしてほしい。お金だけ渡すだけの存在なら、父親なんていらなかった。


 もし、父親が家にいたらいたで、一人勝手にこっそり家を出て、パチンコ、飲み歩きして夜中に帰ってくるし。

 娘に責任を全部押し付け逃げるのだから、父親の資格なんて、ゼロ・・・両親とも、存在を消してやりたい。家庭生活の責任が取れないのなら、結婚もしなければよかったのに。


 あんた達親は、生まれてくる存在価値も資格もない!ましてや親になるなんて誰が許した?おこがましいんだよ!


 私は母親のカウンセラーのような役目を小学1年からやらされていた。

 私のようにこんなにも可哀想な小学生がいるのだろうか?


 自分の心を育てたかったな。

 生きるって素晴らしい。って笑い合える家庭で笑顔の母親から育てられたかったな。

 そんな気持ちとはうらはらの、毎日がサバイバルで、親に気を使いまくり、疲れて疲れて、小学生の情緒多感な時期をため息と、母親に気を果たし尽くしただけの子供時代。

 これが小学生の毎日だろうか?

 悲しいだけに時が過ぎ行く私の子供時代だった。


 小学校生活と、家庭生活のギャップがホント、酷かった。学校は楽しいところ・・・だと思う。

 実際私の二人の子ども達は自分が病気になると「学校に行けないの、ヤダなー。」の連発で、「家に居ても、友達が居ないからつまらない。」とハッキリ言う。家より学校のほうがいいと。

 私がこういったら、どうなるか・・・想像するのも嫌になる。


 当たり前なんだけれど、家庭環境に怯えて気が抜けない子どもは、学校に行っても、虐めやら、先生のはけ口にさせられてしまう。

 なぜなら、自分はここにいるという当たり前の感覚さえ芽生えていないから、相手はそれを突きたくなるからだ。


不思議に思うことがある。


私には七歳の時の七五三の記憶がない。

 それが三歳の時だったら記憶が無くて当然だけれど、七歳だったら思い出があったっていいはずなのに。

それに加え、七五三の写真もあるというのに。

 私の家で、父親の祖父と写っている写真やら、両親の親と大勢でとった写真など、沢山出てきた。

写真を見ても違和感しかない。これ、ホントにあったことなんだろうか?これ、私の姿なんだろうか?

 必死に考えても記憶は出てこなかった。私は怖くなってきた。

記憶喪失にでもなったかのようだ。もしかして、この頃から解離状態になっていたのだろうか?

全く、記憶がない。綺麗な着物を着て、髪まで結って、写真館でとったであろう綺麗な写真まで出てきたというのに。

愕然とした。

何故だろう?七五三の断片でも思い出せない。

 人が沢山来たから、ホントに解離状態だったんだろうか?

記憶に無い、不思議で怖い私の七歳の七五三の写真。


 小学校入学からは、よく男子に追いかけられた。

 私は逃げる。私は足が早かったので、校庭でも追いかけられると逃げ回っていた。

 その虐める男子達も、家庭環境が悪かったり、家が貧しかったりした。

 腹いせと、ストレス解消に、虐められそうな子を、つまりは私を虐めたくなったんだろう。

 女子には、何か言われると、母親に罵倒された時と全く同じ感情になる。

 母親とハッキリ物事を言う女子との区別がつかなかった。

 母親と同じように八つ当たりをしてくる女子に感情をぶつけられると、叩きのめされ、恐怖に包まれ、脳は母親と同じようにやられる!と解釈してしまう。


私の脳が、勝手にこれは恐怖なのだと感じ取ってしまうから・・・相手が全く母親と同じ人だと考えてしまうのだ。

 女子が母親と同じで怖いから、すぐに謝ってしまおう。

 その子はは当たり前なんだけれど母親ではないから、謝ったら余計に怪訝な顔すること事態、分からない。

 私がなんかよく分からない、的を得ない下手な謝り方だっただろうな。

 相手の性質や、それぞれの本質が分からないから、相手からしたら、おかしな謝り方だった気がする・・・

 それは相手に失礼だと思う。思うのだが、どうしたらいいか考えが追いつかない。

 

それでも相手が文句を言ってくれば、黙って文句にじっと耐えるか、それでも凄くしつこい場合は、命を取られる思いに掻き立てられて逃げるか、その選択肢しか私は知らなかったのだから。


小学校低学年から逃げるのがうまい子供はいたから。

 なんだか私は損だなぁ……と感じていた。

 感じてはいたけれど、原因なんてわかりっこないからあの子は何て調子がいいの!あの子はズルいって思っていた。


 案の定、私に学校の仕事を押し付けてくる女の子がいた。私は自分の意見を言えないのを知ってのことだ。私は馬鹿にされていたようだ。

 だけど、私はこういうとき、勝手に自分の中で処理してどんどん1人で完成させてしまうので、結局後で皆で手直しをすることになるのだ。


 学年が上がるに連れ、私一人に学校の仕事を押し付けられることはなくなった。皆がわかっていたのだろう。


「こういうときは、嫌だと言うんだよ。」今では幼稚園児でも分かる、嫌という言葉と感情。

 その意味すらも持つことを禁止され、何となく「嫌だ。」と母親に言った時でさえ、それを言葉どうりにしか受け取れない母親は牙を剥いて襲いかかってくる。

 「どうして?」この言葉は言えば罵倒に繋がり、「こんなこともできないのか!」罵られるから、何でも1人でやることになる。

 それが当たり前だと思っているわたしだから、学校でも1人で やるのが普通なんだと思ってた。


 あの牙を剥かれる辛さと恐怖を味わうくらいなら、一人でやろう。

 絶対嫌だ!なんて言うものか!

 そう思って、信じ込んでいたけなげな私。


 母親に一言いっただけで、豪い剣幕で私に罵倒、酷いときには腕を押さえつけられ、自分の部屋に逃げても勝手に入ってきて、何時間でも罵倒される。


自分の自尊心をばらばらに打ち砕かれ、反抗できる意識を喪失されるだけなのだから。

 私の気持ちに逃げ場はなかった。

 そんなことはあの人にとってはどうでもいいこと。


 ただ、家族と私が一生反抗しないように叩きのめすためだけに全神経を尖らせていたのでしょうから。

 そんな馬鹿な親、いない。

 と、愛情を親から分け与えてもらった人は言う。

 そう私も思えたらなんて幸せだったことだろう。


 何をしていても、家に帰ると母親が監視していて、今日はあんまり怒られなかったとか、

 今日は父親と母親が酷い喧嘩して、父が母の化粧品を玄関にたたきつけた。(それを拾ってまた何事も無く使っている母の気持ちは全く理解に苦しむ)こんな毎日を過ごさなくてはならない。

 何なんだろう?この家の気持ち悪さといったら。


 あれだけエキサイティングした胸糞悪い喧嘩を繰り広げた次の日に、父親のお弁当(家は自営なので、母親の作るお弁当を父親は持っていく。

 そのお弁当の中身はまあ、ものすごくワンパターンで、卵とお惣菜、ウインナー、焼いた鮭とまあ、時間にしてわずか10分以内に完成させて詰めるだけだけれど)を作っている母親の神経も、分からない。

 

 この人たちはおかしい。どこかおかしい。

この人たちは微塵も愛を知らないのだろうか?

私は愛を何故与えてはくれない両親から生まれてしまって、何も知らないで育ったのだろうか?


 小学校3年生ときにの母の日。

近所に住んでいる友達が「母の日のプレゼントを一緒に買わない?」と言ってきた。「うん、買いに行こう。」二人で近所にあるスーパーの2階に小さなホームセンターがあるので、そこに買いに行った。

 友達は、ハンカチを買っていた。私は、その後ろの棚に、レース編みの糸を売っているのを発見した。

 母親は編み物をするのが得意だったから、きっとレース編みもするんだろうと思って、レースの白い糸を買って帰った。

 母の日に「はい、プレゼント。」と、レースの糸の入っている袋を差し出した。ありがとうもいわず受け取る母親。

 中身を見て、こう一言。「レース、こんなの使わない。毛糸なら使うのに。」と、横の棚の家に無造作に置いたのだった。いらないというサインだった。

 私が一生懸命選んだレース糸・・・私の気持ちは、打ち砕かれた。

こんな毎日だったら、もう母親に何もしたくなくなるだろう…。

母の日に 私は何もできなくされたというのに、母の日に、何もプレゼントしなければ母親は機嫌が悪い。

それでいて、プレゼントしても満足することは決してない。見事な悪循環。


たぶん、このときのレースは日の目を見ることがなかったように思う。

 

 そして、私は編み物が苦手になった。なったというよりは、むなしくなって、編み物をやる意味がわからなくなったしまうのだ。

 最近まで、すこし、クロッシュビーズという、ビーズを引っ掛けて編み物をするという教室に誘ってくれた人がいて習っていたのだけれど、どうしても、ときめかない。

 楽しくないのだった。

 そんな気持ちにさせておいて、偉そうに毎日を過ごしている母親。

教室にも結局通わなくなってしまった。

 今度こそ、これを好きになれるかもしれない、出来るかもしれない。この気持ちが人一倍強いだけで、押し切って始めてしまうから、ときめかないと、とても落ち込む。

 

 編み物が楽しい思いでだったら、きっと今得意になっていたかもと思う。

 実際、母親は編み物が得意で、私と弟にベストを編んだりしていたのだから。

 母の日に酷い思い出になったせいで、母の日のCMも苦手。私にとっては未だに嫌な日だ。


 ピアノのこともあった。

 小学2年に上がった頃、私はピアノに憧れた。

 ピアノに通っている子が羨ましかった。

 いや、全然違うな。羨ましくなんてなかった。とにかく、親の感心が欲しかっただけ。


 ピアノが欲しいと両親に訴えた。ただ、親の前で親を困らせたかったから。

 ピアノのことでその時は、泣いて泣いて、「ピアノが欲しいんだよ!」と何回親に言ったことだろう。ずっと泣いて訴えた。

 親は、その時「ピアノが欲しいなら買ってやろうか?」と言った。

 嬉しかった私は「うん!」と笑顔で答えた。

 それきり、ホントーにピアノのことなんて忘れていた。親から関心がもらえたからそれで満足したんだ。


 だけど、ある日、突然ピアノが届くと聞かされた。

 「え?」耳を疑った。その週の土曜日に、ピアノは届いてしまった。嘘みたいだった。ピカピカの黒いピアノ。蓋を開くとこれまたピカピカの鍵盤が綺麗に並んでいた。

 ぞっとした。私はこれが欲しかったわけじゃない!困った!


 そうなんだ、親は私に相談もなしに、いきなり買うんだから。

 幼稚園の参観の時だって、親からのプレゼントという儀式で、一番でかい包みを持たされて、凄いだろうといわんばかりに大きさを強調させられた。


 第一、ピアノ教室を体験させるという発想さえないのだ。

 ピアノは高額だ。だから生半可な気持ちでやることではないんだよ。と説得し、それでもピアノが好きだと言ってから買うのが親だろう?


 母親はピアノ教室も見つけてきた。私は途方に暮れた。

 ピアノが欲しいって言ったって、まさか本気で買うとは思わないし、教室まで決めてくるなんて!

 私は混乱した。

 ピアノなんて口実で、親を困らせたいだけだったから、ましてやピアノを弾くことに興味なんてない。

 ピアノ教室に通うことになったところで先生に「練習してきてね。」と言われたところで全然やりたくなかった。

 だから、いやいや習っていることになる。

 先生は怒った。「やる気がないのか!」と。ピアノの楽譜に「練習してくること!」と、赤線で書かれた。それでも弾きたくなかった。


 その通り。ピアノをやる気なんて、1%もないの。

 ただ、親にわがままが言ってみたかっただけ。

 こんな調子で小学校5年まで通ったが、ピアノが上達するわけもなく、先生からも呆れられ、教室にも行かなくなってしまった。

 親はぶつぶつ言ったけれど、私が全く上達しないことを知っていたため、それきり言わなくなった。

 ピアノだけが家に残った。

 そのピアノも売ってしまって、今は無いけれど。

 違うことで親に訴えたほうが良かったな。


 これでは、親が金さえあればなんでも買える!と言いふらしたかっただけのようではないか。


ピアノの一件から、私が何か言って事が大きくなるのを恐れるように益々ならざるをえなかった…

こんなに大袈裟になってしまうなんて…私は何も言わない方がいいのだと。

 

 親に貶されていた私は、混乱している頭の整理もつけられず、学校へ向かう毎日だから、不安だらけでピアノ弾くゆとりどころではなかったし・・・


 おかしいのが家での生活なので、特に小学校低学年の教室での空間がもう、わけがわからない状態だった。

 混乱しすぎていたので、私は学校で小学校3年生くらいのとき癇黙症になった。

 癇黙症になった私は、クラスの学級会で虐めの標的にされたようだ。

 ようだ、と客観的なのは、またまた七五三のときと同じで、記憶が無いのだ。 


 中学校に入ったとき、「小3の時だっけ?学級会でよくゆうこちゃんがしゃべりません。って議題に上がったよね。」と同じ部活の小学校が一緒だった子に言われたときに初めて自分が学級会で取り上げられてたことを知ったのだった。

「え?そんなことあったっけ?」と言う私に、「またあ、よく議題に上がったじゃない!」と返してきた。

「ゆうこちゃんがしゃべりません。困ります。」といわれたらしい。

 うーん、わからない。全く記憶に無いんだよね。

 心が解離状態だったんだろうか?

 「先生も困ってたじゃない?」と言われたとき、本気で驚いた。そんなにも酷かったんだろうか?

 今になって思えば、先生に対しての精一杯の反抗が入っていたのかもね? もし、そうだったらいいなと思った。

 そういうしゃべらない反抗が私にあったって事は、子ども時代にとてもいい事だったよね!


 それほどまでに心を閉ざして、必死に耐えるだけの毎日だなんて、私が可哀想すぎる。

 顔だって、きっと能面のように固く、何の感情もない、無表情だったんだろうな…

 それじゃ、不気味で、学級会に掛けられるのも、無理ないかも・・・

そこまで自分の気持ちを感じないように必死だったなんてうわ、我ながら悲惨だ。

 私が当時の私を思い切り抱き締めて、頭をなでてあげたい。


癇黙症なんて、環境が悪すぎない限り普通じゃ起こり得ない事なんだからね!あんた達は私のこの感情を引き受けなさい!

 もう、私のものとしては決して受け取らないからね!


 図工時の嫌な記憶が出てきた。

 小学校、3、4年くらいだったかな?図工の時間に、木工キットを使って船を作ろう。という授業があった。


 船を工作した後、先生は「好きな色を塗ってね。」と言った。

 私はどの色がいいか考えた。船って、色が濃いほうがいいと思った。

 それなので、空の青さと、海の青さ、空の雲の白などを思い浮かべて、「そうだ、船は赤紫がいい。」そう思って、船を赤紫に塗った。

 名前も考えた。「あじさい号」これにしよう。

 工作が終わって、船を家に持って帰った。

 このときの両親のクソ馬鹿どもから自尊心を根こそぎ奪われたんだった。


 もって帰った船を見た両親は何も言わないだろうと思い込んでいた。

 図工は得意なほうだったし、絵も得意だったから。


 しかし、その日、両親揃っていたところに船を見せたところ、みるみるものすごい形相になって、2人からこっぴどく私は人格否定をされたのだ。

 「何でこんな色に塗ったんだ!」と、父親。母親も、「こんな、紫に塗る子なんていないでしょ!」「欲求不満みたいでこまることをしてくれた。」

「先生は何も言わなかったの!」と、2人から同時に攻められた私は混乱した。

 好きな色を塗ってはいけないのか。

 「あじさい号」は、とても綺麗な色なのに。


 母親の、「子どもが紫なんて使うな!」「そうだ!辞めろ!」

 ここぞとばかりに罵倒、罵りを結託し、攻める2人。

 普段からお互いを罵っていた鬱憤のたまった両親は、怒りと不安のストレスの矛先を私に向けた。えさを私が持ってきてしまったのだ。

 それを「しめた!」と素早く感じ取り、一気に私一人に畳み込むのだった。

 私は、「両親共に色を否定してくる。どうしたらいいんだろうか。紫はいけない色なんだろうか?」

と、当時の自分が悪いのかとずっと自分を責めていた。


 この話からもわかるように、クソ親は「あんたの気持ちは無いんだ!」と勝手にどんどん押し付けてくる。

 これではロボットと同じ。ロボットと人間は同じに考えられるものではない。

 普通の親だったら。、「この子はもしかしたら淋しいのかな?」「何かいいたいことを言えないで、怒りが色に表れたかな?」などという発想が欠落しているのだ。そうとしか思えない。 

 両親から責められ、逃げ場なんて無かった。

 これでは、私が解離状態になる条件が充分整っていたでしょう。

 私の心が悲鳴を上げていて、その悲鳴がちがった形で現れた。

 どんな方法にしろ、私は自分の心を守らなくてはならない。

 そのせいで、よく自分を責めた。私なんて、生まれなければ良かったと。こう思った後、記憶が飛ぶことが多かった気がする。

 

 私は解離状態になるしか自分を守れない、誰も助けてはくれない酷い状態だったに違いない。


 この頃から、私は足の親指を丸める癖があった。それだけ病んでいたことになる。立つとき、椅子に座るとき足の指を丸めていると心が安定して痛んだと思う。

 それをあるとき父親が指摘した。「なんだ、その足は!」と、家族の前で私に言った。びっくりした。

 そして、「みっともないから辞めろ!」といい、家族の前で私の足の親指の真似をした。「こんな形だったぞ!」と、何度も真似されたから心臓がえぐられそうに悲しくなった。

 大嫌い!人の真似して得意になって!あざ笑って!


 これは、私が少しでも精神を安定させようとしてでた癖なのだから。だったらあんたが私の心を安定させてみろって言うんだよ!


 「悩みがあるなら聞くよ。」という父親が心の底から欲しかった。


 そうだ!いつもそうだった!こうして父親は私の真似を大げさに家族の前でやって、私に大恥をかかせてばかりだった!

 風邪で鼻をすすった時も、髪の毛をいじっていた時も。目に付く父親にとって嫌なことは全て真似されてきたんだ!

 会話が出来ないって、恐ろしい。父親からは行動の恐怖をずっと、すっと味合わされてきたんだ!

 それだから落ち着く足の癖も出せなくなって、ますます解離状態は増していって、癇黙症が酷くなったのかも知れない。

 自分の記憶がこのあたりはあいまいだから、分かりようが無いけれど。

 自分がどうしていたかが分からないなんて、なんて恐ろしいことだろう!


 父親のせいで、今でも私は、誰かに私の真似をされるのが大嫌いだ!

 真似されると、そうとう真似する相手に憎悪の感情が出てきて、止められなくなる!凄く憎らしくなる。


 憎悪するのはこのクソ父親のせいなんだ!

 今、激しく父親のことを憎悪してきた。

  

嫌なケーキの事まで思い出した。


 昔は普通にケーキ屋でタークリームケーキを売っていた。バタークリームケーキを母親はよく買ってきた。

 私も弟もバタークリームは苦手だった。

 お金ならある!と豪語するわりには、こういうとき母親は、生クリームケーキを買ってくるような優しいことはしてくれない。

「ケーキを買ってきてやった!ありがたく食え!」こんな感じだった。

 誕生日に、バタークリームケーキワンホール買ってくるので、何日も残っていた。で、結局捨てる。毎年この事の繰り返し。

「残して勿体無い!」だって?だから、毎回生クリームがいいって言ってるのに。

生クリームケーキが食べたかったな。何で 意地悪をしてかってくれないのだろうか・・・・そこまで底意地が悪く、楽しんでいるんだろうか?


私は、利用されて生きてきた。

 つまりは自己肯定感がとても低いのだ。

 私は大切にされたい。と、いつも願うばかりで、叶えられた気が全くしない。

 私は大切にされない・・・こんなに苦しいんだから、誰かわかって欲しい


 ただ、1つ救いだったのが、小学生の時。

 私は父親の実家に行くのが好きだった。というよりはおばあちゃんの作るラーメンが好きでおばあちゃんのいる空間が、そして居心地がとても良かったから。


 父親の祖父母についても話したい。 

 

 父親の祖父は、農家で土地を沢山持っていた。らしい。

 祖父は、顔が綺麗だった。写真を見てもなかなかのイケメンの部類に入ると思う。手足も長く、当時としては抜群に背も高かったから。

 それルックスのおかげで、とにかく、若い頃はモテモテだった。

 そのせいか、女の子をとっかえひっかえ連れて、農家の仕事なんて、適当にやっていたようだ。

 適齢期になったとき、取り巻きの女の子は全て去っていった。

 そりゃそうだろう。私の娘がこんな人に惚れたら絶対に反対する。

 働かないチャラ男なんて一生を棒に振るだろうし、娘が苦労するのを見たらとても耐えられないだろう。


 とにかく、そんな事情があって女子で最後まで残っていてくれた祖母と結婚をしたのだ。

 祖母は、祖父にベタ惚れだった。それに、節約もするタイプで、なんていっても、祖母は祖父と正反対で、全然容姿が良くない。


 子どもが出来ても、祖父はそれほど働かず、さぞかし祖母も困ったようだ。

 祖父は、土地を切り売りして、お金を手に入れて4人の子どもを育てていたのだった。

 父親の兄妹は、長男の父親、下に2人の妹、末っ子に弟の4人だ。

 だから、妹弟のためにも早く独立して、お金を稼ぎたかったんだろう。


父親の妹二人は他県に嫁いだ。

弟は県内の実家のある隣の市に所帯を持った。


 私が聞いた話によると、祖父は小さいが山を1つ所有していたらしい。

 その代々続いて守ってきた先祖の土地をあっさりと売ってしまったようだ。

 だから、山奥にある辺鄙な土地しか、今は残っていないようだ。私もそこを通ったことがあるが、崖があり、でこぼこの、人が住める状態じゃなかった。これでは売れるはずも無いけれど。


 子ども達が大きくなってからは、祖母が身体傷害者の介護の仕事をしていたのだ。

 祖母は働き者だったんだ。

 祖父母は、その介護施設の一角にある離れに住んでいた。おそらく、管理人のような仕事を兼ねていたのだと思う。

 その施設で、祖父はまきを割ったり、木を切ったり施設の見回りだけをしていた。

 ここでもホントに働かないのだ。

 祖母は日中介護に励んでいたのにね。惚れた弱みでチャラ男にここまで出来るのだろうか?私ならできない。きっと。

 まあ、父親の祖父母はこんな感じの夫婦生活を送っていた。

祖父は、この人もよく煙草を吸う人だった。一日中吸っている姿は、私の頭にこびりついている。


 父親は、祖父を反面教師にいたのだろう。建築業でこれでもかと仕事をし、その仕事が丁寧だと評判になり、大手企業から下請けも頼まれるようになっていった。もちろん、塀つくりも得意だったようで、飛び入りで何件も仕事の依頼が来たようだ。

 だから、家を2件も買えたのだから。

 だったら、情緒も育めたんじゃないのかな?この話だけ聞いているともっと精神的に強くなれた気がするんだけれど。


 私が小学校2年生のとき、幼稚園の弟が車と接触してしまい、足の骨を折った。幼稚園の弟には付き添いが必要だった。

 それで、母親は病院に泊まりこみ、父親のおばあちゃんが2週間くらい、毎日いてくれることになった。

 私は家に帰るとおばあちゃんがいてくれるのが不思議で、それでもすぐなじんで、おばあちゃんだけにはわがままを沢山言えた。

 「今日、学校に行きたくない。お腹痛い。」とおぱあちゃんを困らせて、3日くらい学校を休んだ。「大丈夫かい?」「おかゆ食べるかい?」甘えていられて、これがきっと本当の私だったように思う。

 だが、学校に行かないのが父親にバレて、当然怒られた。

 次の日から毎日学校に行くのが何て苦痛だったことか。甘えも満たされない。


 病院まで家から約2キロくらいあったから、弟のお見舞いに行くときはおばあちゃんと2人で歩いて行った。

 

ホント、「よく疲れた。」「歩きたくない。」と道にしゃがんではとおばあちゃんに甘えた。 「じゃあ、休憩しようね。」途中で何度か座りこんでは歩いた。今となってはホント、よく私はじゃべったな。悪口じゃなくて、自分の気持ちを。

 やっぱり子どもには安心してしゃべることのできる人は絶対に必要だ!


 言っておくが、母親のクソ祖母と一緒だったら、家に来るなんて断固願い下げだ!第一気味悪くて、ドスの利いた声で罵倒の言葉を聞かなくちゃならない。

 子どもの前だろうが平気で煙草をバカスカ吸いまくる。

 もう想像しただけで怖くて震えてくる。1分だって2人きりにはなれないよ!


 話を父親のおばあちゃんの話に戻す。

 小学校4年くらいだったろうか?


 母親の前で「お父さんのおばあちゃんが好き」と言った一言で、母親が私に本気で切れたのだ。

「お前は何て事を言うんだ!父親のおばあちゃんに気に入られたいのか!私のおばあちゃんの方が何倍もいいというのに!」こう偉い剣幕で罵られた。

 私は混乱した。あまりに凄い切れたかをする母親が本気で怖くて、つい、心にもないことを言ってしまった。「お母さんのおばあちゃんのほうが好き。」と。


 好きだった父親のおばあちゃんを裏切ってしまい、傷つけてしまったようでとても胸が張り裂けそうに辛かったのだ。

 それを悟られてはいけないと、母親の前でおばあちゃんの悪口に合い槌を打たなくてはならないなんて、まだ小さい私はなんてかわいそうなんだろう。

 それからは母親が怖くて、父のおばあちゃんの実家で甘えたり、仲良くするのさえきが引けて、母親を見てはビクビクしなければならなかった。

 もっと沢山甘えたかった。おばあちゃんは当時、私が唯一甘えられた存在だったのに。


 母親の顔色で私は母親に合わせて、母親の気に入るような言葉を言わなくてはならないから。

 それが運命なんだと思い込んでさえいたから。


 そう、おばあちゃんのことで、自分に嘘をつく辛さを改めて味あわされたあの日から、おばあちゃんに悪いと思っていて、謝りたくなって、ずっと心が苦くて、痛くて、母親を憎んだ。


 だけど、自分の嘘で苦しんでいるなんて自分は自覚できていなかったと、こどもだったから思い込んでいた。

 今では、父親のおばあちゃんのことで残酷な思い出を作らされた母親が許せない!!!

 自分の感情に嘘をつくことはいけないことだ。

 何が本心だか分からなくなってしまう。


 ここからの話は、母親の実家の話になる。


 そこでもまた、母親の実家でのわけの分からないエピソードが多くある。

 祖父は国鉄職員で、当時は公務員だったから祖母は自慢ばかりしていた。

 クソ祖母は「おじいちゃんは凄いんだぞ」とドスの聞いた声で勝ち誇ったように言い放つ。

 祖父の職業が良いというだけで、クソ祖母自体は何の肩書きもないじゃないか!自分が何も無い人は必ず夫、親戚の職業を持ち出して得意になる。

 馬鹿な人だ。


それと、母親の実家では女ばかりで集まっていた。

祖父は大体仕事でいないし、真ん中のおじはこの家で、自営の電気屋をしていた。

電気の取り付け工事とか、エアコンの取り付けなどでおじも家にあまりいなかった。

私の父親も仕事で、見事に女系の祖母と三姉妹、そしてそのこどもたちの構図が出来上がる。

 一番上のおばの旦那さんは・・・今で言う派遣みたいな仕事だった。

このおじは祖父母に借金があるから顔を出しずらかったんだろう。母親の実家には寄り付きもしなかった。


この話からもわかるように、ホントーに女だけがやたらと強いのだ。

女が強い家系、ここまで酷いと何かの因縁があるのだろうか?と、疑りたくなる。

男性が弱すぎるって言うのもあるに違いない。

口うるさいからって、男達は全員逃げて女達に誰も意見をしないのだからどうなっているんだろう。

男どもも、自業自得だった。いい加減で、逃げるのが得意中の得意で皺寄せを食らうのはいつも子どもの私なんだから!


 その母親の実家でのエピソードの1つを話す。

 その日、実家に行った母親と私と弟。

 いつものように皆で煙草をふかしていて、母親一族で悪口を繰り広げていた。

母親と一番上のおばは、競って母親の実家に行くのだった。他にすることはないのか?と言うくらい祖母の実家にいた。


 その日も実家に私と弟は連れて行かされた。

 案の定、一番上のおばも来ていた。

 祖母はこの日、私のなにが気に入らなかったのか、飴の舐め方の事で嫌みを言われた。

 弟と一緒にポップキャンディー、つまり、棒つきの飴をもらってなめていたのだが、クソ祖母に、私が弟を、チラチラ見ながら舐めていると言われたのだ。

 「ゆうこを見てごらん!弟よりわざとゆっくり舐めている!弟より長く味わっていたいからって!やな子だ!」という理由らしい。

 何をいってんだこのばばあは!子供心にも反発した。

 母親はその時私を見ていた訳でもないのに凄くにらまれた。


 飴ひとつ自由に舐めさせてもらえないのか、勝手に人の心を読んで人前で痣笑うその性格をどうにかしろ!と今は思うが、私もその時はクソ祖母と、母親にも反発し、周りのみんなを無視して飴を舐め続けた。


 なんなんだろう!あのクソ祖母と、母親のホントに人をわざと問題の無いところに問題をふっかけ、けなして笑うあの態度は!

 

 あんた達の煙草のふかしかたのほうが、よっぽど酷いし、バカスカ何本も吸い続けて悪口を言い続けるあの家。

 ああ、思い出した明けでも気持ち悪いったらありやしない!  


 母親の祖母なんて大嫌いだったのに。母親そっくりで思いやりのある言葉ひとつ発することのできない人だから。いつも煙草を馬鹿みたいにスパスパ吸っていた姿が気持ち悪いったら!思い出したら吐きそうになる。

 母親と祖母のそっくりさは異常だ。

 クローンじゃないかとさえ思う。

 

 だから私は煙草が嫌いだ。ハッキリ言おう、あんた達のおかげで私にとって煙草とは、色悪いものになったんだ。

 あんた達は祖父も、真ん中のおばの旦那さんも、母の一番上の姉も、もちろん母親も吸っていた。

 家でも、父親が吸っていたから、私は煙で目が痛くなることもしばしばだった。

 唯一、三姉妹で真ん中のおばが吸わないでいるだけだった。でも、たまーに誰かに進められて、吸っていたような気がする。


 夫は煙草は吸わない。私は煙草を吸う人とはお付き合いをしても、長続きしなかった。しなかったというか、煙草ばかりふかしている人にはがっかりすることが多かった。

 淋しくなり、くやしくなり、むしゃくしゃする!「ああ、この人も煙草ばかりに頼る!気持ち悪い!」この感情が湧き上がって来るから。

 私は急に寂しくなり、彼氏といるのが嫌になる。満たれない…二人でいるのも耐えられない!

 

 こう思ったらもうお付き合いは無理になるのだった。

 憎い!煙草でさえ憎く、虚しい思い出なのだった。


 そして、母親は女系家族なのだった。母親は三姉妹だから。

 母親の下に末っ子の男の子がいたのだが、日本脳炎で12歳のときあっけなく死んでしまったらしい。

 たった1人の男の子だったから、あのクソ祖母は、さぞかしがっかりしたんだろう。

 それで母親達に罵ったんだろう。「あんた達女の子だけが残って、何で男の子のあの子が死んじゃったの!」と。

 クソ祖母からのキツイ言葉の数々のオンパレードを聞いた三姉妹・・・だったんじゃないかと容易に想像はできる。

それで、ますます三姉妹の性格が歪んだんじゃないかと感じる。


 三姉妹の下の弟が生きていたら、姉妹も違ってたんじゃないかと思う。


 祖父は、そんな祖母を止められなかったんだろう。

 祖父に向かって「あんたは思いやりが無い!私達の大切な息子が死んだんだ!」ギャーギャーわめいている祖母が想像できるから。

 祖父は声もかけられなかったんだろうな。


 そして、母親系のつまり、私の従兄弟だけれど、なんと39歳の若さで肺がんになってしまい、これもまたあっけなく死んでしまったのだ。

 それが、母の一番上のおばの息子だった。後にこの話が登場するが、おばは、自分の息子が早くなくなってしまったので、余計に私に怒りをぶつけたのだろう。


 とにかく、当時から本気で母親の実家に行くのが苦痛以外の何物でもなく、居場所なんてなかった。  

 なんであんなに母親がクソ祖母になりきりたがっていたのかさえ、不明だ。

 一言言っておくが、祖母の真似をしたところで、1%だって愛情のかけらでさえもらえるわけではないのだよ。と。

 いつも母親の実家に行くのが苦痛だったのに。よく連れていかされた。

 生きづらいの完璧なる見本のような息の詰まる母親の実家。息が詰まる空間だ。

 まだ私が小さかったときは母親の実家に従姉妹がいたから遊んでくれてその空間にもなじめので良かったのだが。

 私には三人の女の子の従姉妹がいるが、皆私より六、五、四歳も歳上だったから、従姉妹が中学に順番で入ると部活で忙しくなり、私と弟の二人だけしか実家には私達姉弟しか行かないようになってしまった。


 辛かった。母親の実家。


 それと、クソ祖母は私達の家にもよくやってくるのだった。

 家にはいって、また引っ切り無しに煙草をふかし、私達姉弟に目もくれず、嫌味だけを言い、帰っていく。

 そのときの母親は、クソ祖母に自分の事で文句を言われても言い返さなかった・・・と思う。

 それどころか、クソ祖母が帰った後、自分が文句を言われたことで、八つ当たりを私達姉弟にぶつけるのだった。

 それは恐ろしかった。祖母に一言も文句を言えなかったんだ。あの人は・・・・

 私もそうだったんだな・・・だから母親が調子に乗って大事件にまで発展してしまったんだ。ああ、怖い。


 そして私の家で小学校最後の年に、決して忘れることの出来ない、事件がおこる。


 私が小学校6年生のとき、弟が3年生のときだった。

 当時、なぜか母親は夕方5時から夜10時くらいまでの仕事をしていた。

 なぜ夜に仕事を始めたかは未だにわからないが、とにかく家に居なかった。

 母親は料理が嫌いな人だった。夕飯と言えば、近所のスーパーのお惣菜をかってくる、よくてカレーを作る、近所の肉やでコロッケを買ってならべるだけ。と、そんな毎日だった。

 料理を家族のために作るのなんて、真っ平ごめんだというような頑なな姿勢。

 私が高学年のとき、家庭科で味噌汁を作った。簡単に出来たので、家で夕食のときに作って出した。それは弟に評判が良くて、こういった。

 「お姉ちゃんの作る味噌汁はおいしい!」って。弟に褒められ嬉しかった。

 だけど、ここでも自尊心の低い母親は、私を敵だと見なした。

 「そんなにおねえちゃんの作る味噌汁がいいなら、毎日お姉ちゃんに作ってもらいな!お姉ちゃんのほうがいいなら、お母さんはもう作らないからね!」凄く怖い声で怒鳴った。

 「お母さんが作るのがまずいって言うのか!」誰もこんなことは一定ないい。

 これ以上、無理だ。私は味噌汁1つで母親のライバル以上の厄介者にされた。


 この家では私は料理は作らない。いや、作れない。罵倒を浴びて、作る勇気なんてない。

 折角、料理に目覚めることが出来始めているのに。もしかしたら、料理人になれたかもしれないのに。こうやって、何でも子どもを萎縮させ、「何も出来ない子」にさせたがる。自分より出来てしまえば、誰も母親に頼らなくなるから。


 今、母親なんて、私にとって、ホントにこれっぽっちも、1つだって何の役にも立っていないことが判明した。

 お荷物は母親本人だ。あんたがいなかったら私のいるこの世は平和なのだから。

 

 とにかく、当時母親が夜仕事に行ってしまったの年生の私は、弟の母親がわりのようだった。

 いや、母親そのものだった。働きに出た母親の後、夕食のを食べ、弟の宿題を見てやり、交代でお風呂に入り、弟を寝かせるのも私の仕事。

 母親からありがとうなんて言葉もありはしないのに、なんて健気な私だったことだろう。


 そんな時、事件がおこった。


 お風呂から出た弟がふざけて着替えていて、柱に頭をぶつけたのだ。

 ぶつけた拍子にこれでもかというくらい血が溢れてきて、溢れてきて、私はタオルを持ってきて弟の頭を押さえつづけた。

 どうしょう!血が止まらないよー!そうだ、救急車だ!私は弟にタオルで頭を抑えてというと、救急車を電話で呼んだ。

 5分もしなかったか、救急車が家の前に止まった。私は必死で「弟が!血が」と説明した。救急隊の人は、「家に誰も居ないの?」と聞いた。

 近所中から人が出てきて「どうしたの?」「お父さんは?」「お母さんは?」の騒ぎになった。

 居ないというと、救急隊の人は、「とにかく病院に連れて行きます。病院に着いたら病院から連絡を入れます。お願いします。」といい、病院に向かってしまった。


 私は怖かった。怖かったが、恐怖が強すぎて、頭が真っ白になった。隣のうちのおばさんが私の肩を抱いていてくれたのだった。

 10分位して父がトラックに乗って帰宅した。

 この騒ぎを知った父は、近所の人たちに「すいません」と謝った。

 そして、皆家に帰ってもらった。隣のうちのおばさんは母親よりはるかに年上だった。

 私の肩を叩き、「何かあったらおばさんに言いな。」と言い残し、おばさんも自分の家に入っていった。


 その後、無事弟は病院から帰ってきた。3針縫う怪我だったが、そのくらいで済んでよかった。心からほっとした。


 ただ、この事は私に深い傷の1つとなってしまった。


 私は血が物凄く怖くて、ちょっとした怪我にも耐えられないのだ。

 自分の血はなんとか平気なのだが、私の息子は、男の子で活発なせいか、手首の骨折、目のまぶたを切って出血、自転車に足を巻き込み広範囲に血が出たりと、ほんと、よく血を出し、怪我もしてくれる。

 私の気持ちとしては、あの6年生ときの弟の出血事件から怖くて怖くてフラッシュバックを起こすのだ。


 息子が悪いのではないが、私の心の中が勝手にパニックを起こすのだ。

「どうして、こんなに私に血を見せるの!嫌だ、怖い、助けて!」と。だけど、私は母親だからと、無理やり心の傷をこじ開けさせられながら病院へと向かう。

 未消化な感情はフラッシュバックするというが、これもそうなんだろう。


 私だって、誰彼かまわずに大声で叫びたかった!

「血が怖い!弟が!助けて!嫌だ!私、子どもなのに無理!血のお世話なんて無理!」って。限界まで、泣き叫びたかった。


 その弟の事件の後、なんと母親は、弟にこういった。


「頭の傷のことは、もう忘れろ!」と。

 子どもの心になんていうことを言うんだ。このババアは!自分のミスを指摘されたくないばかりか、頭を切った、縫ったことを無かったことにしようとしている。


 心に蓋をしろと言うのだ。わずか9歳の弟の傷に。


 私は恐ろしさに凍りついた。怖かった。弟もそれから傷のことは何も言ってこなくなったから。

 ホントは、弟と「あの時怖かったね。血がいっぱい出て。タオルの血を思い出すと、ヤダね。」と、言い合いたかった。そうすれば、傷は過去のモノになっていっただろうに。それさえ言うことが出来なかった。姉弟の絆なんて、こうやって見事に打ち砕かれていくことばかりだった。


 と、いうか、私達が仲良くしているのを両親は凄くさめた目で見ていた。自分が争いの姉妹のなかで育ったのと、会話のない夫がいるから、私達が仲良くすることに嫉妬していたのだろう。

 自分の子どもなのに、嫉妬むき出しで、母親がの私が中心にいないで笑っているう!ああ、悔しい!将来仲たがいしろ!いい気になるな!知るものか!私ののために姉弟は仲良くするな!


 「姉弟で結託して、私を将来ないがしろにしたら承知しないからな!」

 これが母親の私達姉弟にとって、一番の禁止令だ。

 「母親を邪険にしたら、あんた達不幸になるわよ!」小さな頃からこういい続けられたら、そうなると思い込む。

 マインドコントロールの怖さ。

 それだけ子どもの心は素直なんだから。

  

 私は、子どもを邪険になんてできない。

 自立してくれないなんて、それでは将来仕事もできないし、私に依存なんて恐ろしいこと、とても出来ない。


 しかし、あの悪魔は私達に恐怖を植え付け、子どもの命よりも自分を優先させた。なんて底意地の悪い母親だろうか!


 ここで、私の息子のことを振り返る。怪我の傷を、「がんばった証拠の傷」と言った私。息子も「小さい俺、がんばったよね」って笑って傷を見る。

 そして傷は残ったけれど、嫌な記憶としては残らない。そういって励ましていたのに、これでいいのかとふと、不安になる。


 温かい親の見本がないということは、こうやって私に生涯付きまとってくるのだろうか?

 私に心がないといわれているようで、そうなると、あのクソ両親と同類と思われること?そんなの、とてつもなく辛い。「怖い!辞めて!一緒なんかじゃない!」


 そして、傷の蓋を強引にされ続けてしまった弟は、中学から荒れた。荒れに荒れて、折角入学した高校も中退してしまった。


弟の頭の怪我の後、母親は、父親に凄く怒られた。


父親が私達の姉弟の事で母親に怒ってくれたのは、これが最初で最後だった。

その後、とにかく夜の仕事を辞めた母親だったが、今度は結婚式場のホールの仕事に付いた。

結局、土日も仕事がメインだったから、家にいないし、弟が六年生位からこの仕事を始めたので、結局土日に母親がいないことが多かった。


 そりゃ、中学校生活も親の監視がないからやりたい放題だよね。

 私は部活と受験勉強があって、羽目をはずすことはなかった。

 なかったというより、羽目をはずせなかった。

 私がしっかりしなくては。と。強迫観念が半端なかったから。


 親は学校を辞めると言った時、あろうことか、弟に、特にほんとに何も言わなかった。言わなかったというか、学校の大切さなんて知らないし、そもそも、心に蓋をして生きていけの付けを払わされていたことさえ、分からなかったのだから。


 ああ、ホントにかわいそうな弟、そして私。


 弟は、未だに心の蓋をしていることにも気づいていない。自分の本心を自分で確認することもできないでいるのだろう。だから、心にも無い女の人に優しい言葉1つでフラフラ着いていってしまう なんだかこんな親に育てられているので、何でもかんでも今1つ自信が持てないのだ。


小学校6年の終わりにもうひとつ事件が起こる。

卒業式が済んで、3月の終わりの日だった。

いつものように仕事から帰ってきた父親と母親が夫婦喧嘩を始めた。徐々にヒートアップしていく母親。すると、これも父親の癖なのだが、そばにあった小さいポットを足で蹴ります蹴りあげた。

そのポットが母親の顔に当たったのだ。


母親の唇の端が切れて血が流れたのだ!またしても血が!私は怖くなって頭が真っ白になってしまった。

父親が慌てて母親を車にのせて病院に連れて行ってしまった。


私は完全に無視されていて…というか、その場にいない扱いをされた。

その時の罵倒はよく覚えている。母親が勝ち誇ったように、父親に「あれもしてやった。これもしてやった。あなたは感謝しない!」と、まあ恩着せがましい…だから、「しつこい!うるさい!」と父親がポットを蹴ったのだ。座っていた母親目掛けて飛ぶポット…もう、ホントに詳細を書くのも嫌だ!馬鹿なことがこの家には多すぎる!


とにかく、母親が病院で唇の端を二針位縫って二人が帰ってきた。

ごめんねも言わずに黙っている。

 弟も静かに黙っていた。


おかしな気が狂っている家族。


私は中学の鞄を母親と買いに出掛ける予定だったのだが、顔が腫れていて、買える状態ではなくなったから。父親と行け!と言われたのだ。

もう、悲しいのを通り越して、解離状態の私。父親と出掛けることも「この人は、かっとなったらなにするかわからない。誰かたすけて!」心が叫んでいるのを押さえて何事もないふりをして、黙って黙々とこの鞄にすると、さっさと決めて帰ってきた。


中学の入学式の時は、顔の腫れも引いた母親が入学式にマスクをして参加したのだが、友達の親に「どうしたの?風邪?」などと聞かれていた。「うん、そう。」普通に答える母親が憎かったし、気味悪くて耐えられなかった。

これでまた、家族全員で嘘をつかなくてはならないことが増えた。

 もう耐えられない、嘘はつけない!


なんて、この家には秘密が多かったことだろう…。

それも家族だけの恥の秘密が!恥かしい思いでと、恐怖の思い出ばかりだ!

母親もバチが当たったのだ。弟に無かったことにしろ!などと言うから、同じことがあんたにも起こったんだよ!ザマアミロ!娘にここまで暴露されて! 

 

私が中一だった時、母親のすぐ上の姉、(「真ん中のおば。」と呼ぶことにする。)の旦那さん(おじ)が亡くなった。まだ40代後半で、胃がんだった。真ん中のおばが、母親の実家の名前を継いだから、おじは、お婿さんだった。

 お葬式で皆が言っていた。「まだ若いのにかわいそうに。」そのお葬式で、たぶんなくなったおじの母親がいたような気がする。「お母さんより早くなくなるなんて。」誰かが言っていたような気がするから。辛いだろうな。婿に出して、まだ若い子どもの葬式に来なくてはならないなんて。


 母親の家系に入った人は、本当に男の人が早死にする。

 これも何かの力によって何かが起こっているのだろうか・・・と思うほどに。従姉妹も女子で、姉妹だけだし・・・

 従姉妹も可哀想だった。当時は2人とも高校生だったから。

 おじが亡くなって、真ん中のおばと、あのクソ祖母と、二人の娘の4人で祖父母の実家に暮らすことになったから。

 見事な女系。祖父は私が小学校5年生の時、すでになくなっていた。脳溢血だった。

 クソ祖母は、長生きした。80歳をとっくに過ぎてから、老衰で死んだ。

 亡くなったなんて使いたくない。死んでくれてありがとうなら言える。


 とにかくもう、本当に最悪な人生だ。


 こんな人を罵るのが生きがいの親族ばかりで、そして親の感情の捌け口にされるだけされて。

 それでいて私が泣けば「お前は弱い!」と罵倒され、言い返せば、「親を馬鹿にして!」と叩かれる。そりゃ、おとなしいだけが取り得の子どもになって、ただ怯えて、何事にも耐える力だけが育つしか方法がないのだから。


 虐待とは、子どもの自尊心をいやと言うほど踏みにじられ、生きることの意味さえ分からなくさせる親のいる家庭だからこそ起こることだから。

 親の過去の清算が出来なかったというだけで。親がその親に支配されてきたから、私だって子どもを支配してやる!この安易な発想で息苦しくさせるだけ。

 親こそ、自信がないために祖父母のクローンに成り下がった馬鹿な奴なんだと。


 親から虐待され育ったと、ハッキリ言えるようになるまでものすごく時間を費やした。

 親に愛されて育つ子どもがいる一方で、虐待に耐えながら大人になるという、全く真逆な人生を歩んできた子どもがいるのだ。


 その子ども達が大人になり、それぞれが子どもを育てると言う意味とは、異質な違う景色をそれぞれ違う方向を見ながら、それぞれが同じ地域で子どもを育てていること。

 愛されて育った子どもと、罵倒、暴力のみで育てられている子どもに同じ学校で同じ教育をすることは無謀だ。常識なんて全く通用しないのだ。

なんたって、愛を知らずに育って、皆と同じように見ることも、感じることさえできないのだから。

 平等に同じ教育なんて、そんなものは私たち虐待を受けた人間には与えられることはない!


 それに、母親は毎日「辛いのに、子ども育ててやってるんだ!」といった。そんなに育児が嫌だったなら、私を施設に入れてくれればよかったのに。

 「施設になんて、入らなくてお前達は幸せだろ!」と、のたまう両親。

 あきれてものが言えない。施設に入ったほうが、周りに人が居てよかったかもしれない。だけど、たぶん、生き生きしている私を見たら、悔しくてすぐに引き取ると言うんだろう。

 奴隷が生き生きしているのなんて、自尊心が耐えられないものね。


 中学校では部活は美術部に入った。足が速かったから陸上部、テニス部にも誘われて、体験したのだが、なんだか嫌だった。

 黙々と絵を描いている方が私らしいと勝手に思ってしまった。

 運動部に入るのが眩しすぎる光景だったと思う。

 

 今は、地区のママさんバレー大会に、私が駆り出されるときもあり、普通に球技が出来るので、中学の時、運動すれば良かったかな…と、少しだけ後悔が残った。


 皆の皆が明るい毎日を過ごす。

 そんな毎日は私には与えられない、と。

 混沌とした日々の繰り返しぎお似合い。

 そんな、考えがこびりつき過ぎたんだ。


 自分を大切にするという事の難しさ。きっと誰もが当たり前に持っているであろうという感覚さえも持つことを禁じられ、私は育った。


 人を大事になんて、学校で習っただけで、分かるはずないのだから。

 先生は愛情があってその上での教育論で突き進む。だが、大切にが分からない児童は立ち場もわからず、攻め立てられるように感じてしまう。

 「私ばっかり叱る。」「俺ばかり怒鳴られる」と。


 自分が育っていく過程で大事にされるということを繰り返し学習する機会を与えられた人だけがいえる言葉がとても恐ろしく感じるし、毎日の先生の言葉が非難に聞こえるだけである。


 それは、どうしょうもない家庭環境で育つ原因であったと知ったら、大事にと言う感覚を育むことから始めなければ、どんなに手を尽くしても、本人には伝わらないのである。

 大事にされ、生まれながら愛されるのが当然として愛情を持った人と、大事にしなければならないのは自分ではなくて、親優先。「お前の気持ちなんてどうだっていいんだ!」この違いからも解るだろうが、何を聞いても平行線になってしまう。

 決して与えられることの無かった人との間には、愛情を知っている人との間に埋めることの出来ない大きな溝が横たわっている。


 大事という言葉は分かる。だが、虐待されてきた人には大事と言う心と温かさはわからないのだ。


 理解など出来ないのだ。その深い溝を嫌というほど目の前に突きつけられるが、目の前の溝の埋め方が分からない。

 解決なんてその段階の問題じゃなく、「大事という感覚を教えてくれる事が虐待を受けた人に必要なのに!」と常に願うのに、そんなことは当たり前の感覚だから。あんた達が欠陥人間と言われたようだ。

 誰も教えてはくれなかった。


 私達は大事を与えられたことがないから分からない。

 大人になると、もうそれは通用しない。という前提があり、もう大事だという感覚をを知っている人からしたら、枯渇していて飢えている人間の気持ちは分からないのだろう。


 わからない。私だって大事にされたかった。頭なんて撫でてもらったことないんだよ?あなたはいい子なんていわれたことないんだよ。うるさい、黙れ!と言われてどうやって自分に自信がつくのか?


 それがわからないから、どこにいても自分の事が不確かな存在になる。

子ども親が合わせられるのは当然として意味が解るのだが、子どもが親に合わせなくてはいけないという、こんな馬鹿なことがまかり通ってしまう。

 だからいつまで経っても愛情も、自身のつけ方も分からずじまい。


子どもが親に合わせなくては生きられない…。それはとんでもなく適応能力が低く、周りが見えていない大人のみが考えることだ。

 こんな恥ずかしい事を平気でしでかす…恥ずかしい親。

 だから私はあの両親が何かしでかすのではないかと見張りのようなことを子どもの頃から精一杯させられてた。 

 その状態では自分の世話が出来ずに成長せざるを得ない。  

 わたしは人に言わせると、中身が空っぽということになってしまうのだ。


 さも当たり前のように親にあわせろという。  

 そんなこと、どこの人類にだってできっこないことを、さも偉そうに説教する。

 自分に従わせながら、大人以上に大人を求められ、やって見せなくては罵倒される。

 そんなことどこのお国のどんな人物だろうが絶対に不可能なのだ。

それをさせられて理不尽に攻め立てられ、それだからこんなに両親が憎くなった。

 両親と、その親族に私の憎悪の塊が強靭になり、心が憎悪に支配されるのだ!

 あきれるほど惨めにさせられ、親がとてつもなく恥ずかしく、人に言ったら笑われるか、あきれられるかであろう真実を捻じ曲げて育った実体の家族。


 私だって、自分の為だけに気持ちを使いたかった。

 自分を中心できて、子どもの感情剥き出しに元気いっぱい過ごしたかった。

 凄く嬉しい。親が大好きだ。毎日か楽しい!こういいながら大人になるまで過ごしたかった。頭を撫でて、抱きしめてほしかった。

どんな感情を出してもよしよしと慰めてほしかった。


 私が何をしたというのだろうか?


中学校を卒業した後、私は突如として死んでしまいたくなった。

その春、公立高校受験に失敗して、私は私立の高校に通うことになっていた。

 初めて死を意識した15歳の春休み。

 制服を作りに行った時から、死にたい。と強く感じるようになった。

 高校受験が終わって、きっと自分の家庭がクローズアップされてきたせいか・・・

 未来なんて、自分では永遠につかめないような気がしてきた。このまま何の面白さも無いまま、家にいて、母親のいるクソ狭い世界の中できっと死んでいくのだから。今死んでも同じことなんじゃないか。

 だったら、いっそ今死のう。

 大人になったっていいことなんて何も無い。無いんだ!

 強迫観念に似た恐怖が心の中全体を支配していたから。


そして、死ぬ方法を考え出した私。

 水銀は毒があるから、 体温計の水銀で死ねるかな?

当時は本気で考えていた。

死は私にとってとても私の身近で、毎日隣り合わせのようだった。


自分の部屋の引き出しにこっそり水銀体温計を入れて、時間があれば体温計を眺めて、今ここで叩き割って水銀を飲んでしまいたくなった。

「すぐに綺麗に死ねるのなら、死にたい。」と。

何かにとりつかれているようだ。とはこういうことなんだと思う。

 「一気に死ねないと嫌だな。」

歩道橋の上に登っては、「ここから飛び降りたら確実に死ねる。

ただ、死にかたは汚いよね。ぐじゃぐじゃになるから……止めようかな」とか。

ホントに高校入学式まで精神状態がおかしかった。

死ぬのが最大のいいことなんじゃないかとさえ思っていた。それほど当時は抑圧的な感情が渦巻いていたのだ。

 死にたい!死にたい!楽になりたい!そうだ、それほど苦しかったんだ。


高校に入学してからは、あの考えはなんだったのかと思うほど、私は死から遠ざかった。


少しだけ、自由をてに入れた高校生活。

家から離れた高校に通うことになり、今までとは景色が違って見えたのだった。


 学校帰りに寄り道したり、ケーキを食べたり、普通という感覚でやっとのことで行動することができたのだ。

この辺からは、過去の記憶がすっと出てくることが増えるのだ。

それまでは、記憶が出てくるのに時間がかかったり、覚えていないことも多々あった。

 家から逃れられない・・・が、強すぎていた。


 この育った環境のせいで、大人になる事を学べなかった私は何が何だか分からないことで傷つくことをされたし、言われた。

「そんなことも知らないのかと。神経質だね!そんなの誰も思われるないよ!」とか。

 こういわれてばかりいたら、私は人の何を信じていけばいいのか分からなくなる。 何もできない、ただ純粋で無垢な子どもの私が他の子供たちが親に甘えている姿を、羨ましいと思う。

 なぜ私には与えられないのだろうか? 


 そして、18歳になった私は、専門学校に行くことにした。

 手に職があったほうが、将来いいのではないかと考えてのこと。

 そして、パソコン、簿記を習った。


 20歳になり、成人式があった。

 私は着たい色の着物があった。

 「この色が着たい。」というと、母親は「信じられない!何で?私はこの色が着物が映えると思ってるんだから、にしろ!」

 と、勝手に色を提示してくるのだ。

 「嫌だ。」と言っても強引に母親好みの色にされてしまった・・・

 一生に一度の成人式、なのに、「お金は私が出すんだから!」と言われ、何も言えなくなってしまった。

 ここでも、20歳になっても母親の監視の元過ごさなくちゃならないのかと、悲しくなった。


 そして、4月になり、私は金融業界に就職した。

 その就職した職場では窓口でのお客さん相手の仕事が多々あった。

 文句を言いに来るお客も多かった。

「謝って相手の気が済むのなら頭下げちゃったほうが楽。」

 こう同僚、先輩の皆は言うが、私には過去がフラッシュバックして、そこにいるだけで精一杯で手は振るえ、殴られるのではないかと恐怖でいっぱいになるのだった!

 お客相手に対してまでも

「あんたまで私に屈服しろというのか!」と心が勝手に被害妄想の方向に動いてしまう事もありで辛い。

 もう一生分以上、親と親戚に対し私は頭をいやと言うほど下げさせられた!何も悪くなくてもいつも私のせいにさせられ、「謝れ!」と怒鳴られて育ったんだ!


 私のせいではないことに頭は下げたくない!

 私はその就職先から3年後転職をした。今度はお客さん相手でなかった為、心の底からホッとした。

 でも、ふとしたとき、やはり同僚とお客さんの話をしていると、どうしても人が怖いという感覚がやってくる。

 屈辱を親から受けすぎたせいで、頭が混乱することも多かった。

 みんなで遊んでいても、お酒を飲みに行っても、どこか心の底から楽しめることができていない。それに自分が子どもを持ったときに気づいた。


そんな毎日を過ごしたかった。人間としての尊重をされ、大事にされたかった。


 どうして、子どもが育つのに一番大切な愛情を、私はもらうことが無かったのだろうか。

 愛情を知らないなんて世間では通用しない。疑い深いとか、神経質だとか言われるだけだ。


 人との繋がりが怖くなる。チームワークが必要と言われたって、咄嗟の対応に慣れていないのだから、どうしていいか分からなくなる。そして、長年悪くないことにも親から謝れ!といわれ続けてきたから、もう接客で人に頭を下げることが屈辱と捕らえてしまい、謝れない。

 謝ること=屈服 

 この構図は小学校の時から私には変らない。

 頭を下げることがとても屈辱で、ひれ伏すくらいの感情が全身を支配するから。敗北を味わうあの感覚。


 こんな屈折したことを体験することはめったにない。

 それが大人になってからなら屈辱だ!と意識を向けられるが、虐待されるのが日常の私では、皆と平等だなんて感覚も、感情も生まれるはずは無かった。


だから人間は生まれながら平等になんて軽く、さも当たり前のようにさらっといってほしくはない。

 皆はさらっと言えることでも、じゃあ、私はどうしてその人間の平等を教えられない親から育たなければならないの?

 教えてほしい。私たちは、いやと言うほど謝れ!と罵られる。それのどこが平等と言えるのだろうか?

 そうやって育ったのだから、その過去しかないのだ。


 皆が投げ掛ける笑顔だけでも、私には辛い時があるのだと気づいて欲しい。


 そんな親だったら、逃げればいいじゃない。

それができる人は自立できている人。

マインドコントロールという、親の洗脳が無いから言える言葉だ。

 自分の意見をいいましょう。という言葉は、誰に言われたとしても、当時の私には拷問としか受け取れなかったから。

言ったら意気消沈して、逃げ場はないと脅され、殺されるくらいの母親の罵倒の勢いを知らない幸福な人が私は羨ましい。


 もし、根気よく私に寄り添ってくれる人が居てくれたら、ちょっとは違っていたのかなと、考えてみる・・・居たとしても気づけなかったのかも知れないと思うと、ここまで母親に抑圧されていたのだから、今でも自分の意見が通ると怖い気がする事は想像出来る

 

 子どもに恥ずかしい思いをさせた親がすべて悪いんだから!こうやって暴露されたこも、過去の罪と罰もあんた達がすべて償いなさい!


 親を早くから見極める事ができたなら、10代から家を飛び出たのに。それさえ出来なかった。

 耐えるとか、我慢が当たり前になってしまうと、耐久率だけが突起してしまう。自分が不幸だと思うことさえ出来なくなるのだ。 それは恐ろしい。 今こうやって書いていても、私はこの理不尽な虐待と心の蓋について真っ向から勝負して、これはしてはいけないことだと分かるのだが、親は、未だに気づかない。

 ゆえに、私を親戚を使ってでも攻撃してくるのだ。

 「あんなに心に蓋をしろと言ったのに!」「お前が我慢しないから悪い!」「もっと耐えろ!」と言われた。こんなの子どもに言う事じゃない!と子どもを産んでからやっと気づいた。

 

 そして、私が成人した後、21歳の時。

好きだった父親のおばあちゃんが亡くなった。……

凄く物凄く書くことに抵抗があるけれど、これを話さないと、私が前に進むことができそうにないので、話すことにする。


おばあちゃんは、自死だった。おじいちゃんの介護を成し遂げた後、なんだか寂しそうだったおばあちゃん。私はこの時は、自由を満喫したくて、会社の仲間と遊んだりして、楽しく過ごすことを学び始めたところだった。

ああ、ここでも禁止令があったんだ。自分が楽しい思いをすると、次にはもっとも大きい不幸がやって来るような気がするのは…このせいだ。だから、人に嫌だと言えないのだ。

とにかく、ショックが大きかった。

 あっけなくて、ホントに死んでしまったのだろうか?何度も何度も自分に問いかけた。

 こうやって、私の大事な人は、私から勝手に離れてしまうのだ。ゾッとした。

 もっと、おばあちゃんと話をしたかったな。私が一緒に住んであげたら良かったのかな?

 最後に、私の事を思ってくれたのだろうか?

 成人式に着物を見せた時に話した時、涙を流して「ゆうこちゃん、おめでとう」といってくれたね。嬉しかったよ。

 その後は、顔を合わせることも全然無かったよね。ごめんね、おばあちゃん。

 寂しくて、辛い。私の味方はいなくなってしまったのだ。

 今、おばあちゃんのことを書けたことにほっとしてる。この事を話すなんてこと、できないと思い込んでいたから。

 実は、夫にも話していない。話すきっかけが無かったし、触れるのも怖かった。これは私が墓場まで持っていかなくてはならないと。


 私には怖いことだらけの日常ばかりなんだ。

 どうして生まれてから今う目に合わされ続けるんだろう…


 自分で何も出来ず、自分も自分で守ってあげられるような環境でもなくて、小さな私には、この事件の数々が未然に防げることでもなかった。

 それが悔しい!悔しい!悔しい!悲しい!悲しい!悲しい!


 こんな体験ばかりで、絆なんて言葉が遠すぎる。何億光年先にあるのか?

 おばあちゃん、寂しかったら、一緒に住んだのに。沢山私と会話をしようよ。何で死んじゃっての!


 でも、私には何も出来なかった。それがとても心が痛い。


 私の人生、生まれたときから罰ゲームのようではないか!ホントに生まれてから今までずーっとずーっと、ずーっと罰ゲームだらけの人生だった。


 それが敢然たる使命だと思い込むしかなかった。

 誰にも言えず顔で笑って心で泣いていた。

 ずっと私一人で抱え込まなくてはならない過去を背負い込む必要なんて、そんなことは談じてないのだ!

 そう実感したので、ここに書き記した。


 というか、ここまで描いて、私一人にはどうすることも出来ない過去だった。と無力感をたっぷり味わった…これを認めるのは怖かった。

 今は違う。怖くても言い切ることで勇気が出るのだと知ってしまったから。


 どうしてここまで気づかなかったのだろう?

酷すぎると人は鈍くなる。

ホントにこれは私の人生なのか?解離状態に、なってしまうのも辛すぎて、現実なんて見られなかった。

 酷い事実をを認めるのでさえ、私には出来なかった。

 それほどの抑圧が恐怖として、襲ってくるのが怖くて、ホントのことなんて覗いたら、私がダメになると本気で思っていたからなんだろう。


 親からやられたことが大きすぎた。

 余裕なんて言葉があることさえ理解できないし、大体いつでも無理だと自分で決め付けてかかっていたから。


 それでも、生きていかなくてはならないのだろうか?何のために?今でもフッと、自分が不確かなものに感じる。こんな人生に生んだ両親がやはりとても憎い!


 私の、両親による耐久率が高かったことを悔やんでも悔やみきれない。

 誰か私の人生と交換してほしい!


 こんなに辛かったんだ。そりゃそうだよね。

 自死が身近にあるなんて、滅多にあることではないのに、それが身近にあった。あったんだ!

 私も死にたくなることがあって当たり前だったこの環境では。それもきちんと受け止めよう。

 こんな人生がホントに怖い!怖い!恐怖の思い出ばかり!私が何をしたというのだろう?


 そんなの嫌だ!

 こうして、家族の秘密がドンドン増えていくのだ。自死だなどと友達にも言えるはずは無い・・・・・気かおかしくなるよ。誰もおばあちゃんの事に触れないで過ごす毎日!それも怖い!


 時間を返してほしい。

 おばあちゃんを返してほしい。


 それでも、残酷に時は流れていく。


 親は相変わらずだった。

 私に家族の重荷を背負わせようとして前より必死になった。

 いつでも実家はトラブル続き。トラブル解消役が私の役目見たいになっていった。

なんでもかんでも私にトラブルの捌け口になるように持っていかされた。

私に両親と弟、いや、父親、母親両方の一族を含む誰もが私をトラブル解決者に仕立てあげるのだったた。


そんな人生真っ平ごめん!

あなたたちのしでかしたトラブルを何で私が引き受けなくてはならないの!

 私になら何でも言っても許されるという脳みその使いかたはどうやっても変わらないのなら、思い知らせてやるまでよ!


 何を言われても傷つくことがないと思われていたののだから、感情があり、噛みつくところを見せなくては!

できない、しないとハッキリ意思表示するんだ!


ゆうこが何とかしてくれるし、捌け口になってくれるから助かるわ!私達なにもしなくても言いたい放題で、ゆうこが解決してくれるわー!

そういう雰囲気を自分から醸し出していたのだろうか!

 そのこともふくめて、自分の価値を自分で下げてしまったようで、自分がとても悔しい!


 私だって、権利があるんだ!

 普通が分からずに育てられ、「この家はおかしい!」とさけんでも、気が狂った一族に、「お前のほうが気が狂っている」と言われ、孤立させられる事になる。

ゆうこは家族のただの解決者として育てたのよ!

だから誰がトラブル起こしたって文句を言うんじゃないよ!いつも通りに丸く納めるだけがあんたの仕事でしょ!文句言わずにやれ!


こう言われて、これだけの為にあんた達から生まれてきたんじゃないんだよ!

これをわからせてやる!


 私だって普通を主張する権利はあるはずだ!


 これだけほえても、相変わらず、私には、親を含め、回りに同じように悪口を言う人ばかり集まってくるのだった。

 普通と違うという感覚が、普通じゃない人を引き寄せるのだろうか?だとしたら、永遠に普通を知る機会はないではないか!


 そして、私は親に相槌を打つ事だけは長けていたから、なんかやたら人から「相談に乗って。」というつまりは口実なのだが、まあ人の、よく他人の悪口、愚痴に付き合わされた。

「あの人が悪い。」「私は悪くないよね?」のオンパレード。それをはけ口として感じることが出来なかった私は、かなりのキツさを味わった。

 そういう人は、自分の話だけで、私のことを話すと、「わかんなーい。」といって逃げるのだ。

 この繰り返し。今は何とか私に言っても無駄という雰囲気に持っていくことが出来てきたが、それでも気づくのが遅くなったりする・・・どうにかできないのだろうか?

  

 こうやって、自分のダメージを勝手に受けさせておいて、はけ口と、あんたが背負いなさい!といわれてずっと今まで過ごしてきてしまった。 

  


 20代後半になり、私がやっと自分自身で選んだ幸せを掴み、結婚した。

夫は穏やかで、私がとても楽に息ができる人だと思ったのが決め手。


 私が結婚する半年前に弟が先に結婚した。

 弟はおめでた結婚だった。

 ホントは私達のほうが早く結婚する予定だったのに。お腹が大きくなる前にと言われ、従うしかなかった。


 時間がないと焦った母親は、市内の格式ある神社と、その神社の隣にある結婚式場で式を挙げろ!と弟たちに迫った。

 他の結婚式場だって沢山あっただろうに、母親が「ここが一番いいんだ!」と強く言ったので、弟たちにはその神社で式を挙げることになった。

 そこでも母親は色々と口を挟む。

 料理はこれにしろ、式の日取り、引き出物と、まあ、自分の結婚式のように煩い。

 自分が納得しないという考えだけで、自分の事でなくても動く。

 自分が関わったことだけ認め、それ以外で子ども達が勝手にしたことで失敗しようものなら、勝ち誇ったように言う。

「はら、親の言うとおりにしないからダメなんだよ!」と。

 母親は、私がいないとダメなんだから。私はとてもいいことをしている。私に感謝しろ!と、でしゃばり根性だけで動くのだった。

 その後の弟夫婦の結婚生活を物語っていたような、母親の異常な口出し方。


 私の両親は、2人共にこんな性格なので、マトモな人からは思いっきり引かれて嫌われたことだろう。

 この人と付き合って、もし結婚となれば人生が壊わされる!このくらいは相手に思われたに違いない。

 会話がまともに出来ない二人だったし、悪口を言ってばかりでは、相手だってドン引きだろう。

 こんなだから恋愛がうまいくはずもなく、お見合い結婚だったので、ホント、割れ鍋に綴じ蓋とはよく言ったものだ。

 母親を結婚させようと、祖父母はお見合いを成功させようと必死だったから。

 

 また、ここで母親の姉妹の話をする。

 母親の一番上のおばは、頭がよく、顔も三姉妹の中で一番綺麗だった。県内でも1、2を争う偏差値の女子高を卒業した。

 就職をして、少し経った頃、男の人との交際が始まった。それが後のおばの旦那さんだった。

 その旦那さんは、とにかく調子がいい人だった。おばにはとても刺激的に映ったことだろう。2年くらい交際して、他県に嫁いでいったらしい。

 祖父母はなにせ、国鉄だけが自慢の人だったから、反対したらしい。何も、一番頭のいい長女がそんな人と結婚しなくていいだろうと。

 そして、おばの旦那さんは、他県で何かの工場の事業を興したらしいのだが、上手くいくはずもなく、起動にも乗らずにあっけなく倒産させた。

 路頭に迷ったおば夫婦と2人の子ども。

 おばは、祖父母に泣きついてきた。困ったのは祖父母。

 どうしたらいいかと思っていたところに、私達家族が2件目の家を建てたのだった。つまり、一軒目の建売住宅が運よく空いたのだった。

 早速、おば一家は私達家族の元実家に住むことにして、引越しをしてきた。


 面白くなかったのは母親だ。何で家を只同然に譲らなくてはならないのか!と。

 だから、後に大事件が起こるのだが、そのときも母親がおばに「家のことで借りがあるだろう!私の言うことを聞け!」と偉そうな態度を取り、おばを利用したんだろう。

 それに、おば達に祖父母がお金もずいぶん渡したようだ。

 よく、おばの悪口を母親と親戚で言っていた。

「ねーちゃんは1000万円以上お金貰ってたくせに!姉妹の中で一番ふてぶてしい!」と。だったら姉妹で気が済むまで掴み合いの喧嘩でもすればいいのに、それはしない。


 母親には稼ぐ旦那がいることに感謝したほうがいいと思うのだが。


 私の両親は、そんな事情で結婚したから、母親は私が自分で結婚相手を探したことさえ気に入らない事をしてくれたとなるのだ。

 屈折した意地汚い考えを披露する事がいいことだとでも思っているのか?気持ち悪すぎる。娘に嫉妬丸出しで。


 私は自分で選んだ人と結婚してよかった!

 もし私もお見合い結婚なんてしようものなら、私をがんじがらめにすることに夢中になり、私は心に再び蓋をしたかも知れない。

 もし、私がお見合いをしたなら「私がお前の結婚相手を見つけてきたんだ!感謝しろ!もっと尊敬しろ!もっと私の奴隷になりやがれ!」などと私を罵倒する光景が目に浮かびあがる。


 こんなのは耐えられないだろう。ぞっとして背筋が寒くなった。

 夫はとても良い人です。と紹介したかった。だすが、また罵倒、今度は嫉妬も加わっての標的にされるのが非常に怖くて、両親には普通のボーッとしたタイプの人と紹介した。


 結婚式までは、気を使い続ける毎日だった。

母親を持ち上げて機嫌よくしてもらうため、当日ぶち壊しをしてほしくないために。

 これは、幼児が結婚式で愚図らないように親がすることであろう・・・

 それを母親にしなければならないなんて、私はトコトン、親に得ぐまれなかったんだ。


 無事、結婚式を終えたときは、ほっとして、涙がでた。

 両親にあてた感謝の手紙・・・当時は真剣に書いたつもりだったが、今はそんなものは読みたくもなかった。

 結婚式という晴れの舞台。結婚式なんてしたくもなかった。

 皆の両親が羨ましい。感謝の手紙で号泣する友達の気持ちは分かる。

 だけど、自分に当てはめる事が出来ない。それが悔しい。ずるい!こう思ってしまっても仕方のない家庭環境。

 私が何かしたのでは全くないのに、感謝なんて全然ない。

 それどころか、あんた達、私を奴隷にしてさも楽しかったでしょ!あんた達だけで楽しんでやがって!・・・これしかない。

 奴隷にされた手紙とでも題して、この文章を人前で発表してやりたい!


 結婚してから、やはり当然のように母親の嫉妬が始まった。


 一年半して、私は子どもを授かり、とても怖くなった。

 当時はなんでこんなに子どもを産むのが怖いのかと途方にくれていた。

 母親のせいで、私の小さい頃、愛されて育っていないから、自分が子どもを産んで育児をするのがとても怖かったんだ。

 フラッシュバックも相当きつかった。

 まだこの頃は意識出来ずにいたから、余計ブラックホールに飲み込まれて出口が見つからなかった。

 その感情に蓋をしたまま娘を出産したから。

 娘が首が座って表情が出るまで、娘との時間が怖かった。まるで娘に試されているかのような気さえしてきた。

 毎日のように娘が泣くと私も一緒に泣いていたのを覚えている。


 3ヶ月経った頃、育児にも慣れてきて、娘がかわいくなってきた。このころから夫と、娘と3人で出かけることも多くなった。私は、家族が出来たことが心底嬉しくなった。

 だが、ここからも母親の存在がとても怖かった。


 母親は、娘の雛人形を買うとき、さらには下の息子が生まれて五月人形を買うときでさえ、口を出してきた。

 「買ってやるんだから!いい親だろう!」と。

 こんな態度で買ってもらいいたくはない。

 孫がかわいいから買わせて。とでもいえる親だったら快く買ってもらうのに。

 ホントに私の親は、私を逆上させることばかり言う。毎回、会うたびに嫌味をいう。


 だから、三段飾りの場所を取る雛人形も、五歳のときに着られるから、と、息子に兜だけ買えばいいものを、甲冑セットまで高額を出して買うのだった。


 それも、「私はお金持ちで、気前がいいの。」との人に見せびらかし、「凄いわねー。」と自慢したいがために孫まで利用する。


 そんなこんなで、娘の初節句、更に息子の初節句をしろ!と迫ってきた。

 子ども達の初節句はするつもりだったからいいとして、夫の実家とは大違いだったことが対照的だった。

 夫の両親は「大事に育ててくれればいいよ。」の一言だけしか言わない。

 2人の初節句でさえ、とても疲れた思い出いなった。


 私の雛人形なんて、ガラスケースに入った小さな物だったっていうのに。 私には粗末な扱い。それがあんたにお似合いだと言わんばかり。

 馬鹿だな、それがあんたが私を惨めにさせる作戦なんだろうが、私はあんたからビタ一文貰うつもりは無い。

 相続も、生前破棄が出来るのだったらとっくにしている。

 とにかく、あんたは気持ち悪いから、何もかもいらない!


 娘が少し大きくなり、歩けるようになると、母親の嫉妬は凄まじいものがあり、恐ろしかった。

 「実家にこい!」と言われれば怖くなって行った。

 ・・・母親が大事だから。という理由で実家に行ってみたかったな。脅しで言うことを聞くのではなくて。


 どこまでも奴隷気質が抜けない私。

 それに、孫もできたのだから、少しは思いやりもでてくるに違いないと期待した私が馬鹿だった。


 見事に期待を打ち砕かれた。母は、前のように私を精神的に虐め抜くために呼び寄せる。

 そして、私をダメなママだと娘にいって聞かせるなんて、どこまでも私をダメにさせるうもり・・・自分が夫と会話が無いからって、私を陥れてたちなおれなくなればいい!と思うこの馬鹿な母親。


 二人めの子どもが生まれてから、このままでは私と私の生活を壊されてしまう、気が狂う。

 狂気に満ちた母親を疎遠にしようとやっと決心した。


 決心したきっかけはインターネットからだった。

 私は夫との感覚の違いに悩んでいた。

 子どもが生まれてから、なんでこんなに必死な私の隣で余裕たっぷりに子どもと遊べるのか?とか、同じ言葉なのに気負っている感が全く感じられない。なにがこんなにも違うのだろう?

 なんだか私はとても生きづらいと思っていた。

 

 上の子が保育園にいき、したの子が昼寝をしている隙にパソコンを開き、検索で「生きづらい」と入力してみた。


 それは、予想もしないほどの凄い数のヒットになった。

 その中に、「アダルトチルドレン」と多く書き込みやらがあった。その1つをクリックしてみたときの衝撃は忘れることが出来ない。そこには私のことが沢山書き込まれているのだった。「そんな!これが生きづらい正体?」「親からの呪縛のせい?」「ああ、でもぴたりと当てはまる。」「この文章も、これも、これも」

 その日は頭が混乱していたが、非常に納得した。

 「親が悪いのです。あなたは悪くない」この文字が私をホッとさせたのだった。


 それからは、下の子を連れて、本屋と図書館通いが始まった。

 ネットで見た、加藤諦三さんの本も片っ端から読み始めた。下の子が昼寝をすると起きるまで毎日毎日色々と読みまくった。

 そして、このままではやはり私が新しく築こうとしている家族が大切に出来ない。その一身で実家とは離れるという決心をしたんだ。

 用事があるといわれても、「行けない。」と言っては実家に寄り付くことを寄拒否し続けた。

 もう、とっくに私の心の中は限界に達していてで悲鳴を上げ続けていたのだから。

 限界なんてとっくに来ていたのに、気付かないとはなんて自分を虐めてきたことだろうか?とにかく、私は自分の家庭だけをみて過ごしたかった。

 

 しかし、虐待だと子どもを持ってから理解した私には、愛情を、与えましょうの当たり前の感覚を持つことがきつかった。


自分の意見を思いっきり言った事がない!

いつも自分を押さえて生きてきたから、我が儘放題に自分の事だけを見て、意見を言うことが未だに苦手。

自分の意見を通したときは、その時は「やった!」とウキウキするのたが、次の日になると酷く落ち込むのだった。「私の意見が通ってしまって、怖い!」…言っても言わなくても自分が怖くなってしまう。


 育児の健診でも。落ち込んだ。

毎度おなじみの言葉を言われるからだ。

「お母さんに愛情はあって当然。たっぷり子どもに与えましょうと。」

 さも当たり前でしょう。という感じの保健師のあの顔。

 笑って軽く、平等に育てようね。「当然だもんね。」ということを、私は知らない。

 だから、心の奥底ではあなたが放った矢が私の心臓を突き刺し、見えない血が大量に吹き出ていることにもお構いなしで検診が終わる。


 ここまで心を痛め付けられて、その状態で子どもを産んで育てること。

 それでも子どもを産んだ大人になってしまったら、子どもに対する大人の対応力を毎日試されるわけだ。


 保健師、ママ友に「そうだよね、愛情よね。」って笑って同調しなくてはならない私は、なぜ私にはその愛情を与えられなかったのかと、ホントにとても泣きたいのだ。

 それなら、今からでも育て直してほしい!愛情愛情というあなたが育てて!教えてほしかった。


 周りとの違いが大きすぎて、私にまともに子どもが育てられるかとても怖かった。

 私が母親になってしまってよかったのだろうか?

 こんな私で子ども達に愛情が伝わるのか?

 愛情を育てるはずのあなた達お母さんは、愛情を貰って育っていないの! 凄いハンデを背負っているのよ。と、いつも叫びたいんだよ。


 それでも子どもは大きくなる。

 私が育てなくては!


 当時の私は必死で育児書を読み漁り、息子と育児サークルに出かけ、ママ友の声かけなどを参考にし、学ぶことから始めた。


 そして、知識だけは増えていくのだが、肝心の愛情がなかなかついてこなく、辛かった。

 落ち込んで辛かった。

 この頃は無料の相談によくでかけ、話を聞いてもらった。

 そうしないと、自分で自分が怖くてたまらなくなってしまうから。これも吐き出しの作業の1つだった。このおかげで育児を続けていられるような感じだった。

 

 そのおかげか、1年くらい経ったとき、子どもが私に抱っこをせがんでくるのが愛おしくなった。それまではおっかなびっくりで接していたから。

 子どもが怖くない。こう思えたのが私の一番の財産かもしれない。


 肌で実感していきて、身をもって体感できてホッとしたし、本当に良かった。

 カウンセリングも受けた。

 あるカウンセラーにこの話をすると、「あなたの話は恐ろしすぎて、私の手には負えない。」と、冷たく言われてしまった。

 匙を投げられたのだった。


 私は、相性もあるし、他にもカウンセリングを受けてみようと、2人のところに行ってみた。

 だが、 一人目のカウンセラーには、

「あなたは、母親に虐待されたって言っているけれど、あなたは他の人を傷付けたことはないの?」と言われた。傷ついた。傷を癒すためにここを訪れたというのに、なんてことだろうか?


 もう一人のカウンセラーには、

 「あなたは思い込みが激しすぎる。そんな考えは今すぐ辞めなさい!」と。言われた。

 カウンセラーに気を使えっていうの?

 じゃあ、一体これは何のためのカウンセリングなんだろうか?


私は私の過去の親のことをカウンセリングしてもらいに来ただけだと言うのに。

何故問題をすり替えられて、私の過去の行動を責められなくてはならないのだろうか?

大体、子どもの頃から私は親を責めることが怖くて出来なくて、ずっと抑圧してきてどうにもならなくなったからお金を払ってカウンセリングを受けて感情の吐き出そうと決心してきているというのに。


子どもの頃から親が私の言動を聞いてくれないから聞いてくれるカウンセリングという手段を選んで気持ちを楽にできないものか?

 と考えて考えて、ここまでやっとの思いで来ているというのに!


これで、また母親に攻められ続けた子どもの頃と同じ感覚になってしまった。

 カウンセラーまで、私を責めるのかと!

 「お前が悪いからだ!」と罵られて、問題をすり替えられ、落ち込ませる母親の手段と全く同じだった!

カウンセリングの最中は怖かった!

 母親に罵られている時と全く同じ気分だった。


私に感情の蓋をしろってことと同一ではないか!


全くカウンセリングの理解に苦しむ。


私は親の話なんて、人を選ぶ話だと思う。

 だからこそお金を払って、私の気持ちを聞いてもらう為、カウンセリングを選択したんだ。

 親に散々苦しめられているのに、何でカウンセリングでも他の行動、言動にまで自分を責めなくちゃならないんだ?

 これでは絶望して死ねと言われたようなものだ。

 人間不振にもなるだろう。


このようなカウンセリングでは、益々自分を責めてしまい、少しも良くならなかった。

 これではカウンセリングを辞めざるをえなかった。


どこに行ったら私は過去の吐き出しの作業を思う存分人の前で思い切り気兼ねなく出来るのだろう・・・

 おもいきり人前で泣いてわめいて吐き出してみたい。 

 それが出来れば、親の事なんか、あっさりと気が済むのかも知れないというのに。

 ああ、気が済むまで一切合切、吐き出したい!

やはり、一度空いた蓋はもう締まらないんだと悟った。

 

 おさまらないなら、出すしかないでしょう?


 こうして、やっと親を憎んで憎悪に至るまでの抑圧され続けてきた感情が出てきた。

 これが出なければ、そして子どもを産まなければ、親の恐怖の支配に前面拒否することが無かったかもしれない。

 親を徹底的に恨み、憎み、憎悪し、絶縁するまでの気持ちが出てきたことを認めたこのとき、私は私を誇りに思ったのだ。


 実家に行かない日々が続いた。私は平和だった。


 それがかなり堪えたのだろう。

 母親は私の行動に対して激しく怒りを持ったようだ。

 何もかも気に入らず、私が来なくなったので、当て付けを含んで、私という奴隷が思い通りにならない!悔しい!その腹いせに奴隷が必要になったから、代わりに父と、実家に同居してくれていた弟のお嫁さんを毎日罵倒しまくったようだ・・・。


 そして、父親から電話がかかってきた。実家に来いと。

 実家に久しぶりに行ったとき、「私にはどうすることも出来ない。夫婦の問題でしょ?私のせいにしないで」と言った。

 父親は私に怒ってきた。「親を馬鹿にするな!」と。「そう思うんなら、お父さんは出来るって事だよね!」

 こうしてさっさと実家を後にした。


 父は私に後に「悪かった。ゆうこの言うとおりかもしれない。」と電話で謝ってきたのだったが、なんせ戦ったことのない父親だから、疲れはてて家を出ていったのだ。母親をあっさりと見限った。


 父親は初老鬱・・・があったかもしれない。

 建築業は下降をたどっていた。父親は会話が出来ないので、営業もまともに出来ないし、頭を下げることもしないので、煙たがれる。昔は堅実さが大事だったが、今の時代、柔軟性と人当たりもとても重要だから。

 それに、仕事だって若い頃のように思うように体が動かなかっただろうし、それは仕方ない事だ。

 そんなことが重なり、家にいるのが苦痛になったんだろう。


 だけど、子どもにとって父親って何なんだろうか?


 私は父親との距離が遠いというか、そばに居たとしても会話が無く、私の欠点だけ馬鹿にして真似をするが、それだけで何も何1つとしていい思い出はない。

 私とまともに会話すら大人になってもできはしない。

「親を馬鹿にするな!」こういうだけで中身も無い父親。

「そういうのなら父親らしくしてみろ!態度で示し手てみろ!」そう私が言った途端、一目散に逃げ出す。


 父親は、私のほうが弁が立つのがわかったんだろう。それに母親には口で負ける。

 もう庇ってくれる人がいない。だから、自分さえ守れればいい。こんな父親しか私にはいない。

 父親ってなんだろうか?

 

 こんなだから、私は男の人が分からず付き合っていた。

 付き合っていてもとても淋しかった。父親に向ける感情がそのまま表に出てきて「どうしょう・・・・接し方が分からない」と途方に暮れることがしょっちゅうあった。

 愛情ってなんだろうか?


 父親が出ていったその後、母親は事もあろうに父が家を出ていったのを弟のお嫁さんのせいにして、「あんたのせいだ!」と、毎日罵ったのだった。


 最初は聞き流そうと耐えていた義理妹も、母親の毒を一人で背負い込むことは出来ない。

 とうとう耐えきれなくなった弟のお嫁さんは離婚するしかないと考えて、離婚してしまった。中学生になる娘のことを最優先に思っていたので。このままでは、子どもに悪影響だし、しかも同居で毎日顔をあわせなくてはならなかったし、弟は母親べったりでうんざりしただろうしね。


 義理妹は子育てにこんなに不適合な環境に子どもを同居させ育てるのはおかしいと離婚を決意したようだ。

 そして、母の支配と罵倒の毎日では教育上よくないと考えてのことだった。


からは、自分達が離婚したあと、私に離婚したと告げてきたので、私は何も出来なかった後悔だけが残った。

 無力感をここでもたっぷり味合わされた。

 

 そして、母親は、自分が一人になってしまうことを物凄く恐れた。


 だから、弟に取り入って、財産を全て弟に譲るとでもいったんだろう。そうでもしないと、誰も母親の面倒は見ないって、自分で自分がよく分かっているじゃない!母親が好きな子どもだったなら、財産が無くたって、そばに居てくれただろうにね。

 こうして自立する機会を失った弟と今でも2人で暮らしている気味悪い母親。

 このまま母親が死ぬまでずっと面倒は弟に見てもらうつもり。

 

 私には母親と会うなんて自分を苦しめるなどと恐ろしいこと、一生できない。

 私の中にはインナーチャイルドがいて、この子が母親と会うのを想像しただけで、吐き気がして、気がおかしくなると訴えてくる。

 それほど、心が壊れていた私。

 

 その後、徹底的に屈折した話がある。


 それは、父親が家を出た後の、ホントに頭がおかしいんじゃないかと思える、父の妹の話だ。

  

 父親が出て行ってから、少しして父の妹から電話がかかってきた。


 私は落ち込んでいた。父の妹も気持ちは同じだと思ったから、電話をくれて嬉しいと素直に好意として受け取った。


 最初の電話では私を心配して掛けてくれたんだと信じ込んでいた。2、3回電話を受けていて、「あれ?おかしい。」と感じるようになった。

 それは、私に電話を掛けて、何と母親の悪口を聞く愚痴係りにさせられてしまったと気づいたからだ。

 電話で私に、「あなたのお母さんはお父さんのことこんな風に言ってたよ」とか、「夫婦なんだから、お互い様だってあなたのお母さんはおもわないのかしらね。」とか。聞いていて?????となった。

 なので、4回目の電話でやっと言った。「おばさん、私のことを心配しているなら、お父さんの話だけにして。もう、お母さんの愚痴を聞いてくれなくていいから」と。

 父の妹は、こともあろうかこう私に言った。「じゃあ、私はあなたのお母さんから兄の悪口を聞いて、誰に伝えたらいいの?」だって?呆れた。

 私は、「だったら、うちの母親に電話なんかしないで!私だってそんな悪口を聞きたくないんだから!」そう返したら、何と言うことか、父の妹は話中の電話を切った。切ったので、私の意志を伝えるために折り返し電話をかけ、こういった。「私にあなたは2重の苦しみを与えたことに気づいてください。」

 こうして、父の妹からは一切電話がかかってこなくなった。

 完全に愚痴を聞かない私には価値がないといわんばかりの態度で手のひらを返したように静まり返った父の妹。  


 10000歩譲って、ひょっとしたら、母親も私にこう思ったのかなと?そう思ってくれたとしたら万々歳!となるけれど・・・・価値が無いって事を逆手にとって攻めてきそうだからな。あの母親は。

  

 信じられないほど、父親の一族、そして母親の一族も誰も彼も全員ともに頭がおかしいと首を傾げたくなるのもわかるでしょう?


 一族して皆がそんな考えだから、おかしいことが当たり前に通用する世界があるのだということを知っておいて欲しい。


 父のことさえ、誰もきちんと心配することの出来ない哀れな親戚だった。 母親に、「あんたが悪い!」こう一言でも言える勇気ある人はいないのか?

 。  

 私も限界。何故ここまで母親の嫉妬と、罵倒、罵りに加え、親戚まで私の心を壊しにかかるのだろうか?

 精神的に追い詰められなければならなかったのか。

 だから、私は一人で実家に行き、母親と話をしようと実家に向かった。


 家に入ると、

母親は家に一人でいた。

 私は母を見るのさえ怖かった。だけど、これは言わなければ私の精神がおかしくなるのが分かりきっていたので、こう言い放った。


「なぜ、そんなに人の幸せを壊すのか、何故大事な家族を罵倒すし、精神的に追い詰めるのか!」問い詰めました。

 私はやっとの思いで言ったのに。

 すると母親は、「うるさい!私のせいじゃない!勝手に出ていったんだ!」昔のように罵りながら物を投げて来た。

 話にならないと思った私は、ドアの前で罵っている母親を「どいて! 」と肩を押して、ドアから出た。

 母は、わざとらしく倒れこみ、「いったあーい!暴力振るった!訴えてやる!」叫び続けていた。


 もう二度と実家に行くこともなくなった。行きたくない。

 あの母親の娘であることをトコトン憎んだ。

 こんなにされたら父も、弟のお嫁さんも出ていくのが当たり前だ。悔しくて、悲しくて、憎くて、この日はとても泣きに泣いた。


 これからが本当の世にも恐ろしい修羅場の始まりだった。

 今でも突然罵倒してくるのではないかと過去の出来事に怯えきっていて怖くて仕方ない。


 母親はこの後、私を訴えてやる!と言った言葉をホントに実行したのだった。母親を甘く見てはいけなかった。


 まず、自分の一番上の姉(私からしたらおば)に、私から一方的に暴力を振るわれたから病院に行くと言った。断じてそんな事実はないのに。


 しかも、それをおばから、夫の携帯に電話を掛け、訴えるように仕向けたのだからなんて卑劣なのだろうか。

 おばも両親から弱味を握られているので(うちの家を、一件ただ同然に譲ったことあり)、夫の携帯に電話を掛けたのかもわかりませんが。

 私が自分の立場なら、まず、私に連絡するのが筋だろう。ことの次第を確かめるために。

 おばも、客観的に事の次第を見られない人なんだと、初めて思い知らされた出来事だった。自分の取る行動の意味を全く考える事が出来ないおばだということに。


「暴力振るうとは何ごと!ゆうことは離婚しなさい!そして、精神病院に入院させろ!」おばはこう夫の携帯に掛けたのです。携夫の帯に掛ける行為も卑劣極まりない。

 そして、夫を陥れる事を母親と一緒に楽しむつもりだったのでしようが、夫は

「まず、ゆうこと話をします。」冷静にいってくれた。


 夫からことの経緯を聞いた私はおばに電話をかけ、真相を聞き出した。

 おばは、私からおばに連絡がいく事を想像出来ていなかったらしい。そうとしか考えられない。おばが夫に言ったのなら事の真相を本人に確かめるのは当たり前なのに。

 私の電話に、明らかに動揺し始めたおばは「私は離婚しろなんて言ってない!」の一点張り。

 夫も困っていた。

 私からおばに連絡がいくことも考えられず、言い訳と隠し通そうとする逃げ腰と、都合が悪くなると行動とパターンが全くおばも母親とそっくり!

 二人とも自分に甘すぎるのもいいところ。


 おばの頭の中は、完全に夫と私がもめて離婚話が進行するというストーリーが出来上がっていて、揺るがなかったのだろう。

 死んでしまった息子、私にとっての従兄弟が生きていたら、見方になってくれたと思う。

 従兄弟は、おばの家に居たら自分がだめになると家を出て、他県で自分で自営の仕事を1から叩き上げで成功させた根性の持ち主だったから。私の気持ちも良く分かってもらえたんじゃないかと思う。

 そういう人に限って早死に・・・してしまう。本当に女系反映の一族。


 おばは、ゆうこは私の娘でもないのだから、 ざまあ見ろ!私は楽しく見物しようとほくそ笑む。

 なあに、自分に火の粉はかからないんだから。ああ、早くゆうこの離婚話が聞きたいわー。と何故か思い込んでいる気持ち悪いおば。

 その呆れるほどの勝手極まりない考えとこういう自信だけは持ち合わせているのだから。この気持ちの悪すぎる発想は何処から来るのだろう!


 そういえば、母親の口癖の1つに「自信がないのか!」があった。

 自信がないのはどちらさまでしょうかね?

 あなたも祖母にそうやって「自信が無いのか!」散々罵られ、罵倒されたんでしょうけれど、それを小さな子どもに仕返しすることしかできず、今でも私一人によってたかって仕返しするあなたの方がよほど「自信が無い」ことでしょうに!

 いつまで祖母からされた仕打ちを子どもに仕返しし続けるおつもりですか!この卑怯者めが!


 昔の奴隷気質が全面に出ていた頃なら、親は絶対だ!逆らってはいけない!の考えが前面に出てきたかも分かりませんが。

 母親は逆らったゆうこが悪い!

 だから「ごめんなさい」泣いて、母親とおばの前で、土下座でもすると思ったのか。夫もその場に立ち合わせて、恥をかかされて。この時は私は冷静だったのかも・・・あの人たちの考えが手に取るようにわかって、洗脳が解けた後だから行動できた。あのときの私には魂胆がよくわかっていたから。この行為は絶対許すわけにはいかないと。


 しかし、このまま手をこまねいていたら、また卑怯な手を使って夫に何を言ってくるか分からない。私の家庭が壊されてしまう!それだけは阻止しなければ!

 こう切羽詰まってしまった私は、色々と考えをめぐらせ、悩みに悩んだあげく、母とおばの親戚にあたるおじさんに事の経緯を手紙にしたため、投函した。


 おじさんも私とはあまり面識がなく(だから頼んだのです。あまり近い間柄だと丸め込まれるので)困ったと思う。なので、おば本人にこの手紙を見せて聞いたのだから。


 私には最後の賭けだった。おじさんに助けて欲しかった。このおかしな母と、母の一族から。


 手紙を見せられたおばは、私の母にこんな手紙が来ておじさんも困ってたよと話した。

 これで話が終わるのなら、悩まないのだが。


 母親は、ここでも、私を陥れる絶好のチャンス!裕子が自分から餌をばらまいた。この絶好な機会を見逃すものか!今だ、反撃だ!今度も夫に悪巧みを実行した。

 手紙の事を知らせるために、母親は自分で直接夫の携帯に電話を掛けた。こりもせず。

「おじさんが、すごく怒って、こんな手紙送りつけてきて、脅された!警察に訴えるって言ってるよ。どうする?」と。


 よく、こんな警察に訴えるなんて嘘が口から出るものです。おばが夫にした行為そのものを繰り返し夫に言った聞かせるのだからたまったものではない。


 またもやそんな話を聞かされる私は、二人に人生を壊されるのは真っ平ごめんだと母親と、母親の姉に激しい憎悪と憎しみを感じた。


 だから、「私が直接おじさんに話してきます!」と、夫に話し、すぐに車に飛び乗り、おじさんの家に行った。


 おじさんの家に到着し、すぐさまおじさんにこの話をすると、おじさんも非常に驚き、

「警察に訴える?何?そんなことをするわけないでしょう。ただ、どうしたのかと心配しておばさんに手紙を見せたんだよ。」と。

 「夫の電話に、おじさんは手紙のことで私に警察につき出すつもりでいる。と母から連絡が入りました。」と私が言うと、おじさんは理解できないという顔をしたのです。


「あなたが辛かったっていうのはわかった。母親とは距離をおきなさい。子供と旦那さんのためにも、そうしよう。」こうおじさんはありがたい言葉をかけてはくれたのだが、母親とおばには全く気は治まらない。


 すぐにおばに電話して、「おじさん、私を訴えるなんて言ってないじゃない!騙したの?」と聞いたら、なんと、今度は母親が被害妄想で私を苦しめたいがために、おじさんが訴えると夫に勝手に嘘の電話を掛けたことが発覚した。


 おじさんの手前、おばは面目丸つぶれになった。母にすぐおばから電話がいった。母親に、「嘘つくのは辞めてくれ、おじさんから(おば)が信用を無くされるのは困る!」と言ったようです。

「だから、ゆうこの夫に謝ってちょうだい!」と。


 こうして、母親から夫の携帯に連絡がいき、やっと何とか終止符が打たれまた。


 私の弱点は、家族だから。


 その弱点を逆手にとって私を孤立させ、それを見て大笑いするのを楽しみに生きてきた母親。実の母親のすることではない。

 「ゆうこなんか、ちょろいもんだ!ゆうこの夫にゆうこの悪口を言って、親戚一同で結託してトコトン追い詰めて、息の根を止めてやるんだ!」

 こうして、弱点を突かれまいとして、奴隷気質になってしまった私。

子どもの「先生に言いつけるからね!」と同じ。「ゆうこの夫に言いつけるからね!」だから、私はこの事を手紙でおじさんに知らせたのだ。


 目には、目を!やっと気づいた。脅されたら、同じ方法でないとあの一族には全く効果がなかった!

 弱点を突く母親とおばが許せない!


 本当にやり方が汚い。全くこんな酷いことを平気で仕掛けてくる根性。

 周りを巻き込んで自分の立場が危うくなるという発想は無いのか?

 自分の嘘がどれだけ人に迷惑をかけるかわからないなんて。

 自分が嘘をついて信用をなくされることを思いつきもしない母親とおば。

 辻褄の合わない嘘の電話を掛けたことがおじさんにわかった母親はとても恥ずかしい思いをするということも、未だにわかってはいないだろう。

 

 ただ、謝れとおばに言われて夫に謝っただけなのだから。

 恥ずかしいことだなんてあんたの辞書にはないから、今までのことが平気でできるのだ。

  

 ただ、自分からおばが離れたら今度こそゆうこの事は利用できない。だから悔しいけれどゆうこの夫に電話して謝っておこうと。


 おばには、「人を陥れる権利なんか誰にもない!自分さえ良ければ姪のことはどうでもいいのか!卑怯者め!」と言ってやる。

 ああ、母親一族の気持ちを書いていて胸糞悪くて、ホトホト嫌になってきた。


 手段を選ばず、自分の手を汚さずに私を簡単に陥れると思い込んでいる母親とおば。


 私はこのことをおじさんに理解して分かってもらいたかった。だから、そこだけはおじさんに迷惑かけたけれど、私が手紙を書いて見てもらえたことにより、魂胆が丸見えになってよかったと思うことが救いだ。


 母親は、夫を使うのが楽しみだった。

 だから、おばに私が表にでる行動に出るはずが無い。

 なんたって奴隷だし、家庭を壊されたら困るのはゆうこなのだから。

 それなのに、なんで裏目に出るの!悔しい!ゆうこを追い詰めたい!

 でもおばの手前、簡単に手出しが出来ない!

 

 これだけは分かったでしょうから。

 

 「こんなことなら、私、15歳のあの時死んじゃえば良かったよ。心が生まれてからずっと不安定にさせられて、いつまでも自由になれないじゃないか!」ふとしたときにこう感じてしまう。


 どうして、母親は私をいつまでも追いかけて、地獄に突き落とし、そんなにまでして私を支配したいのだろうか?


 小さい頃からそうだった。

 娘に依存しているくせに、それを認めない。

 娘の私が家の問題を背負うのが当然!と思っているだけの人。

そして。親族のトラブル解消を、させられるのはいつも私。

ゆうこはトラブル解消をさせるために生んだのよ!この言葉がピッタリ合う。

私も何が間違っている気がするけれど、それがなんなのか分からなかったけれど、こう言うことだ。

私を責めるのは、 トラブル解消をさせるためたけ!トラブルを引き受ける器もないのか!なにもできないのか!お前は!と。

 

母親だろう?あんたこそ、一度でも最初から最後まで一人でトラブルを引き受けたことがあるか?ないだろう?

母親だったら、「ゆうこ、ご免なさい。無理強いさせて心を壊したのはわたしてす。「虚しい。悲しい。孤独だ。早くこの世からいなくなれ。」

 これだけを私に一生掛けて教えただけの心のそこから憐れな人なんだ。


 心から安心するには、母親に早く死んでくれるよう願うしか方法が無いのかと、途方にくれる日々。あんたに精神的にダメージを与えるために私は生きているんじゃない!

 私はいつ何時母親がまた追いかけてくるかと思ってしまう。毎日心が壊れる思いだ。

 なぜ、私には一向に平和が訪れないのか・・・?

 今の平和がつかの間の休息にしか思えないんだ。子どもは親の面倒を見るもの。苦しめ!と。

 ずっとずっとずっと、嫌だと逃げても逃げても追いかけて捕まえてくるくるあんたが本当に憎いし、気持ち悪い、その汚い根性が。


 必ず逃げ切って見せる。今度こそ、あんたを放置するんだ。

 どうして子どもは親の面倒を見るのが当然なんて風習があるのだろう?

 昔だって、人身売買までして、子どもを手放していたのに。

 私もどこかの家に養子にもらわれたかった。

 そして、「あら、あなたはどなたかしら?存じ上げないけれど?早くお帰りになって」こういえる妄想をする私・・・・


 こんな思いがよぎるほど、心が痛いのだ私は。

 酷すぎる!どうして、親はダメージを追わずに一生を終えるつもりなのかが。

 こっちばかり大損をして、苦労に苦労を強いられ、挙句の果てにあり地獄に落とされ、なすすべの無いまま私は一生を終えなくてはならないのか!  いい加減にしてくれ!年を取ったから許せ!なんて卑怯な!子どもが幼い頃から理不尽に虐待されて、やっと自由になれると結婚しても、いつでも親から監視され、酷い娘だと言いふらされ、ずっとあんた達に翻弄されていたというのに!


 どう考えたっておかしい!子どもの権利はないのか!虐待に時効なんてない!そもそも今だって精神的に虐待されているというのに!

 母親に報復されたけれど、おかしいと、そこははっきい言えてよかったと心底おもっている 


 これが三年半前の出来事・・・。


 この出来事の前から、母親が「私(母親)が甘すぎるから舐められたんだ!」「ゆうこは結婚してからおかしくなった!家にいるときにもっと厳しくしなくちゃいけなかった!」といっていた。

 信じられない、これ以上厳しくなんてしたら、私の精神が本当に崩壊するぞ!

 私のほうこそ、結婚して、あんたらの異常さにやっと気づいたんだから。

 

 またもや、このときもそうやって、親戚に手を廻そうとしたが、昔の私ならともかく、今では母親がやっていることが丸見えなので今の私には通用しない。

 これ以上あんた達といるとおかしくなると判断できたからこそ、あんた達と絶縁の道を選んだというのに。


 私は、自分の築いた家庭にまで手を伸ばして崩壊させようとしてくる歪みきった卑劣な悪意のあるあいつが恐ろしい。

 私はあいつが自分の家族さえ手を出さずに居てくれれば、こんなことにならなかったと。本気で憎い。恨んでいるのだ。

 

 何度だって言う。本当に早くあの世に逝ってほしい。


 ああいうやつにかぎって早くお迎えはやってこないのだ。

 世の中間違っている。私にはあの両親が残していったものは何も無いから。

 何も無いって恐ろしいんだ。なにも知らず、何も考えることが出来ないようにコントロールされつくされたから。

 親に触れられたら・・・今は考えただけでゾッとする。


 私は子育てしていても、体に触れるという行為がわざとらしい気がしてしまう。

 まして、自分の意見や、感情がバラバラなので、とても苦労する。

 それで、ますます親を憎む。他のまともな親に育てられたかったな。と、心が震えて、どうしょうもないときには涙も出ないほどの恐怖が襲ってくる。孤独だ。 

 あまりにショックで悔しい。憎悪だけがどんどん膨らむ。

 こんなにもおかしな親を持ってなんて私はなんて情けないんだろうか。


 本当にこれが親子と呼べるのか?


 警察に訴える、離婚しろ、精神病院に入院させろ!こんなことを言う人を私は親と呼ばなければならない。辛い。こんなの親だと認めたくない!

 なぜ縁が切れないんだ。血が繋がっているということだけで縛られてきたんだ。


 私は悲しい。こんな母親しかいないことが。ただ仕返しに産んで育てたわが子。

 こんなの絶対親子なんかじゃなかった。


あなた達から生まれてきた事をとても後悔している。

 ううん、後悔できないことだからこそ、絶望的な気分にされる。

親から拷問を受けるためだけに私は生まれてきてしまっただけの存在だったのか・・・


よく、

「私があなたを選んで生まれてきました。」なんて言ってるオメデタイ人がいるが、私は1000%この考えを拒否する。

 そんなはずないだろう!

 人を信じられなくなり、信じたい気持ちだけは人の何倍もあるけれど、

「人を信じるんじゃないよ!」

と、好きな人も、好きなものも否定され、嫌いなあんたたちを好きだと言わされる毎日に選んで生まれてきました!だって?


選んだとしたら、きっと憎悪しろってことだね!

 あんた達は虐待の罪を背負って今すぐに死んでしまえ!って言うために選んだんだ!

この世の何を信じたらいいか混乱させられ、自分が怖くなったり、もうこりごりなんだよ!


交流分析の先生に「自分で親を選んで生まれてきた。」こう言われたときは背中がゾッとした。

足元をすくわれた気分でいたたまれなくなった。


そんな茶番劇やめてほしい!

親から生まれたことが可哀想で自分が怖くなった私に何を言うんだろう?

これだけあのクソ親から生まれたことを否定し、あの親から生まれ、こんな拷問の毎日を送らなければならなかった私を、「あなたが選んだだって?」何を聞かせるんだ!ふざけるな!


 違う家に生まれたというだけで、私が我慢を強いられて、ずっと無いものとして封印して諦め続けた愛情も自信も違う家に生まれたとしたら・・・・

 それだけで無条件にかわいいと歓迎され、自分から何もしなくても愛を貰い、与えてもらえたんだと想像すると、本当に両親に憎悪の感情を選んで生まれてきたとしか実感として湧かないし、とても親を殺したい衝動に駆られるために選んだんだ!


 この気持ちを誰かにわかってほしかった。

 折角、私は子供を育てているのに、全然安心できず、毎日フラッシュバックと戦い疲れはて、それでも逃げられずにがんばっているというのに。

 突如として過去のものすごい恐怖は襲ってくるのだから。


 また母親が何か仕掛けてきそうな予感が頭をよぎり、人生100%楽しむ事はもう永遠に無いのかと悲嘆にくれてしまう毎日が本当に嫌だ、逃げたい、地球の裏側に行ったら少しは気が晴れるのかな?などと現実逃避を実行したくなるのだ。


 三年半前のこの事件からは、一切母親と親族とは会っておらず、あちらから連絡も来ない。


 それがかえって不気味とさえ感じてしまう。

 離婚しろ、警察に訴える、精神病院に入院させろ!。

 この言葉を思い出す時だけは、体が壊れそうなくらい苦しくなる。頭ではばかばかしいと思っていても・・


 PTSD だと思う…幼少期からの想いが一気にあふれ出したのだと。それほどまでに耐え難い言葉と行動にくたくただったのだと。


 少しでも母親と違う意見を言ったら殺されてしまう!という恐怖の感情が勝手にあふれ出るからなのかなと。

 今でも来るという恐怖は一生消えないのか・・・それがとても気が狂いそうに嫌だし、苦しい。


 幼少期の子供の考えることに今でも勝手に恐怖が反応してしまうくらい自分で自分の恐怖が止められない。ホントに本気で精神がおかしくなる!殺されてしまう!

そう感じてしまっている小さい私が居るから。


 特に、母親と同じようなタイプには気をつけろ!と体が勝手に他人にも恐怖の感情に包まれてからだが震えてしまう。

 その人にさえ、嘘を着かなければ殺されるからいい顔をしなければ!そう思い込んで生活している、かわいそうで、いじらしいまでがんばっている。


 家族のために、耐えてきた事が裏目になっていた。

 幼少期の私が耐える経験をしなくて済むようにならなかったのかな?

 かわいそうで、抱きしめてあげたい。 

 慰めて癒してあげないと、恐怖はずっと続いてしまうことが分かってきた今、とても辛い。・・・やっとここまで自分を省みることができたけれど、まだまだ深い心の奥底には到着していないようで。


 そして、確信したことがある。


 母親は自己愛人格障害という脳が壊れた治らない病気なんだと。

やっと自覚することができた。


 認めたくなかった。

 あの母親の言うことは母親の脳の中の独りよがりな世界なんだ。勝手に自分で作り上げた寓層世界で、私は翻弄されて、ずいぶん悩んで、頭がおかしくなりそうになりながらの必死で考えてきたんだ。

 すごく大変だった。あの人の頭がおかしいだけで、周りが正しかったんだ。と、今は心から認めてあげられるようになりたい。。


 こんなになりながらも、そんなわけはない、自分の母親は普通だと思い込みたい。それが人格障害だなんて、でも、そうかな?ホントに?人格障害を受け入れて育った私って?何?どうしたらいい?


 悩んで気分が悪くなり、否定と肯定を繰り返し、丸5年かかった。

心の中は、98%人格障害を確信していましたが、どこかで後の2%は、そんなこと無いんじゃないか、愛情も微かにあるのではないかと、なぜか期待していた馬鹿な私。

 だが、世間は冷たい。そんな親、居るわけないじゃないの。

 作り話だといわれたり、カウンセラーには私の手には負えない。と匙を投げられたり。

 そんなことばかり体験したら、どんどん自分を追い詰めるしかなくなる。 だから心に蓋をしなければならなくなる。

 そして、子どもを育てるのが辛いことになってしまう。


 だから、どんなに私がおかしいと言われたって、この文章の吐き出しはやり遂げる!

 今まで蓋をしてきた中身が空っぽになるまで吐き続けていく!もう、これしか方法が無いのだから。ここまで精一杯蓋をした私を解放することが先決だ。 


 おかしいといわれたら、おかしいといわれたことが嫌だ!と書いて吐き出す。

 それほどまでに私の傷は深くて、血が吹き出ている状態なのだから。

 カウンセラーにまで手に負えないほどの痛手は自分の傷がいえるまで傷の手当を自分でしなくてはならないのだから。


 そう、自分の体の中にある傷は、自分しか認識できない部分が大きいのだ。

 傷を見ないで生きることはできないのだから。

 みないでいたって、足元に血は垂れるだろうし、子どもに血が飛んでしまうこともある。

 その血は自分の血なのだから、拭くしかないのだ。それだけの血を真正面からみる勇気が私には、一番必要だったのだ。


 自分の気持ちに浸りきっていい事を、自分に許可する。

 だから、今、誰も私に傷をつけて欲しくないのだ。

 でも、毎日が過ぎていき、どうしたって傷つくことが出てくる。もう嫌だ!


 ああ、あれは、母親ではなくて、相当頭のおかしな哀れな人だったのだと何度でも自分に言い聞かせる。

 自分が納得して自覚するまで何度でも言う。あの人は自分以外、罵倒する存在でしかない人なのだと。人を愛することが出来ない危険人物であり、とんでもない病気に一生付き合わされてたまるものか!と。


 子どもは、たとえ私であろうと無かろうと、誰だって同じ事をしたんだと。私ではなくても同じように逃がさないと追い詰める行為をするのだと。


 だから、私と弟でなくても、どんなに偏差値が高く、一流企業に入った子どもがいたとしても、同じように罵倒、罵りをして、そばに置いておきたい人なのだと。


 思い返してみても、ありとあらゆる人の悪口、母親と仲良くしていた人に、ほんのちょっと意見を言われようものなら、手のひらを返したように罵倒するあの姿。

 相手を利用できないと知ったときのあの顔!爬虫類のようなあの目!気持ち悪い。そばに来るな!思い出しただけで吐き気がする。

 吐き気がする母親。これだけで私の過去がどんなに過酷だったかを物語っていることだろう!


 断じて、私と弟が悪かったのではない!


 誰でも良かったのだ。奴隷として一生がんじがらめにできて母親のためだけに働いて生きるこ事を忠誠してくれる子どもが居れば。


 母親のくせに、子どものかわいいしぐさ、笑顔、甘えて信頼してくる目、愛くるしい寝顔、パタパタ走る後ろ姿、一生懸命つかんでくる小さいふっくらした手を身近に感じることのない、哀れな人。

 自分で産んだ子どもに、愛でたいという気持ちが何一つない。心を動かされることも無く、小さな子どもに対して、毎日罵倒、罵りに勤しんでいるだけのかわいそうな母親。


 私は、子どもという存在がこんなに温かく、幸せな気分にしてくれるのだって気づかないまま育った。

 それどころか、母親というものは、言ってはいけない差別用語を満載しても文句を言ってはいけない存在で、我慢は子どもがするものだと思い、生きてきた。

 たとえば、「あそこの家は、奥さんが00出身だからろくな者じゃない。」とか、「あの子は00だから、品が無い。」「あそこの家は貧乏でお風呂も着いてない家に住んで。みっともない。教育がなってない。」「持ち家は幸せ!」「カタワだから」


 そんなことを言う母親だ。本当に気がおかしいんだ。

 あんたに何度でも言ってやる!

「人を馬鹿にして、酷い差別用語ばかり言って恥ずかしいとは思わないのか!お前のような親が私の母親だなんて、私はこの世で一番不幸だ!本当ににあんたが親だなんて恥ずかしい!」と。


 自分が恐ろしいほど思い上がっているのもいい加減にしろ!

 あんたの方がこの世で最も心が貧しいし、人と比べて、それも物や家という枠のみで生きているなんてみっともない!

 依存心むき出しの母親。


 祖母と、父親の従兄弟のおじさん、それと、隣のおばさんの3人には、口ではかなわないからとぺこぺこ頭を下げて、(それでも従兄弟のおじさんは母親にいつも利用されていたが。権力者だったから)その鬱憤さえ、私にぶつけた。

 父親の従姉弟、このおじさんについて話したい。

 このおじさんは、私の小学校に教頭先生として赴任してきた。

 3年生からたぶん3年位、いたと思う。

 苗字が同じだったか、親戚だってクラスメートにはすぐばれた。

 で、このおじは、体育教師だったため、よく体育の時間に一緒に行動した。鉄棒の見本やら、ハードルやら、やたらと校庭にいたものだ。


 弟夫婦の仲人もこのおじがやった。


 ここまではいいとする。それまで、そんなに私とは交流も無かったし。

 問題はこの後。


 父親が家を出る前、私が頼りにならないと悟った母親は、弟夫婦を離婚させようとして、このおじを家に呼んだのだ。

「父親は口が重いから、Rさん、うちの旦那の代わりに話して。どうしても家に来て頂戴ね。」と何度も電話をかけたらしい。

 父親が家にいて、その場に同席していたというのに。父親の立場はどうなる?

 それに、親戚のおじまでいたら、お嫁さんの味方は一人もいない状態で、話し合いを勝手に決めるなんて卑怯にもほどがある。

 「弟夫婦と別居したら?」ここからおじをRさん、と呼ぶことにする。Rさんはこう提案した。

  あせったのは、母親と弟。

 私の二の舞にはさせじと、母親が阻止しようとした。

 弟は、実家を出られなくさせられていたから、困った。

 そして、母親にRさんはこういったのだった。

「あなたは、視野が狭すぎる!もっと若い人を応援してやりなさい。」と。

 そういう言葉は絶対頭には入ってこない母親。

 弟のお嫁さんは居たたまれなくなったでしょう。

 父親はなんと、「あーあ、困ったもんだ」と、一言だけ言って笑っていたようだ。

 

 私は父親が出て行った後に、Rさんに電話でこのいきさつを聞いた。

 「え?何それ? Rさん、なんて余計なことをしてくれたの。」と言うようなことをその電話で私は言ったと思う。

 

 それ以来Rさんとは何の音沙汰もない。

 そりゃそうだろう。父親の娘に余計なことをなんていわれたらね。


 それに、ここまで言ったら、たとえ、母親が「ゆうこを懲らしめてやりたい!Rさん、家に来て。一緒に説教してやって。」なんて言われたって、私の手前、恥ずかしくて私の前には来られないだろう。

私も「手玉に取るのなんかこの家族の全員ちょろいもんだ!どうせゆうこだって私のほうが学歴だって凄いんだからすぐ悔い改めるはず。あーあ、ちょろ過ぎて退屈だー。」とでも思っていたのだろうから。

 もしそれでもちょろいと思われて来たなら、


 「母親に頼まれてノコノコ来るなんてどうして?ゆうこを説得するなんてちょろいとでも思ったんですか?自分らやりたくて来たわけでもないのだったら、余計なことをしないでください!」と言う。

 ここまでしてやれば、手紙を書いたRさんに頼るなんてもう無謀な行為でしょうし。


 そうなると、母親の姉だけが頼りなんだけれど・・・。


 まあ、私がここまでおじさんに手紙を書くとは思わなかった母親も、これで万策尽きた心境になったんじゃないかな?

 私のことであんたの味方になるなんてマイナスなこと、誰も引き受けないよ。


 よくもまあ、こんな親を尊敬しろって言えたものだ。恥ずかしくて、悔しくて涙が出るだけだ。

 未だに自分は罵倒していいと。

 大人になってからも散々だった。

 私が一言文句を言っただけで、弟に言いつけて泣き崩れるし、夫に言いつけるみっともないさまを見せ付けられて、それのどこを尊敬しろというのだろう。

 そう、もう家族と一族のゴタゴタに巻き込まれて一生を送るなんて真っ平ごめん!

 いつも、夫に言いつけて自分に振り向かせようとするその馬鹿な考え。

 誰かが嫌いだから、ゆうこ、いいつけて頂戴!なんて、あんたが直接嫌いって言えばいい話だろうが!おかしい。

 本当に機能不全の家庭って、子どもを操ろうと必死になるんだよね。

 

 そんなことで私が仲裁をして、あんたのことで謝るのは筋違いだし、決して謝ってはならないことだ。

 私は、自分に嘘をついてまで、親の変わりに謝るなんてことは全く必要は無いのだ。

 自分に嘘をつくなんて、この世で一番してはいけないことなのに。

 それを強いられて、気持ちを捻じ曲げなくてはならない・・・それがどんなに恐怖で、どんなに心が痛かったことか。


 だけど、もう知ってしまった。自分を大事にするということをする!と。

 そして、子どもがいとしい、かわいい存在だということも知ってしまった。あんたの言いなりにはならない!だからあんたを正面から堂々と憎む。


 自分の小さい頃も、こんなにかわいかったのに。かわいい、愛おしいと育つのが当たり前なのだったら、それをできないクズ親から生まれてきた私は、親をトコトンに憎むのだ。

 

 親を憎むことはいけないこと。

 世間はそんな幻想を言う。

 私と同じように虐待にあったで人でさえもそうしろと言うんだろうか・・・


 親と絶縁してから虐待経験者と知り合いになった。

 その人は今、人の相談に乗っていると言う。

「自分の心の奥底を見ないで幸せを感じられるようにしましょう。」その人の回復方法はそういうものだった。

 私も相談に何度か乗ってもらっていたのだが、いつもその人の答えは同じ。

「幸せになるために、幸せを見つけよう」なのだ。

 これを実行できずに、心底思った。

 ある程度までは虐待経験者でも幸せを感じることが出来るのだ。

 だが、それ以上、感情の幅が全く広がらないのだ。


 よく、頭痛薬で痛みが治まるが、原因を取り除いた訳ではない。という表現に近い。

 感情の上下が広がらない。心の感じ方の幅は狭いまま、これで満足しなさい。と言われている気分に毎回なるんだ。


 なので、その人に言った。「私はその方法は合わない。」と。

 幸せを数えたって、小さな私が怖くて泣いているのだから、怒っているのだから、悲しいでいるのだから、憎んでいるのだから、その感情を出してあげなくては先になんて進めない。

 これでは、親と同じ事を自分に見なかったことにしろ!と、自分に強いることになる。

 

 感情は憎悪まで感じる事が出来ると、この文章を書いて知ったのだ。

 だから、奥底を感じたのだから、上の感情を感じることも出来るようになるのではないかと思う。


 どんな感情もオッケー。といわれる由縁はここにあるのではないかと。

 どんな感情も大切な私の心なのだから、無視したら、それこそ申し訳が無い。

 それより今は憎悪の心と仲良くしたいんだ。


 親を憎むことと、憎悪することは私にとって最高に良い感情だ!

 癒しだ!


 それをダメだと世間は言う。「もっと明るく考えろ」と。明るくという意味が分からないのに、その台詞にいちいち「グサッ」と来ていた私。

 グサッとなる必要なんてないのだ。私は私の感情を大切にする。


 そうだ、私にとって今大切と言うことは、「憎悪の感情の自分を出して、どんな感情でも大切なんだよ」と自分に教えてあげることじゃないのかな?


 そうだ、今の私には、どんな人の言葉より、大切なことなのだ!

 

  自分が今、自分に言ってあげる言葉は、「私は子どもと同じに愛おしい存在なのだ。誰も、どんな人だって、私を傷つけてはいけないのだ!」と。心から。

 これ以上、親から罵倒、罵りを受ける必要は二度とないのだと。

 

 自分の負の感情は私が引き受けてはならない。負の感情は、親本人が引き受け、本人が苦しんで自分のものにしくてはならないのだから。

 本人の心の問題は、本人以外誰にも解決できないのだ。


 だから、どんなに人と違う意見を言われようが、自分の感情を大切にする。

 その勇気がもてた時、自分の未来を語る将来をきちんと思い描くしっかりとした軸も育つのだ。


 それが私の人生だと。それを踏みにじる権利は誰にもないのだと。

 愛される権利は平等にある。


 私だけ感情を大事にしてはいけないことなど、絶対にない!


 私が親の面倒を見なければこの家は狂ってしまう。そう信じ込まされて、動かされて馬車馬のようだった私に言ってあげる。

「もういい。親の人生は親だけが背負うもの。」

 私が考えることではないし、それは親の逃げだから。

 

 そんなことでかわいい子ども時代をつぶしてしまって、私は私に対して謝らなくてはならない。

 「ごめんなさい、出来ないことをやれと強制してしまって。これでは益々罪悪感と劣等感を与えてしまったね。ゆうこちゃん、ごめんなさい。」と。


 だから、断固として自分の心を壊してまで、愛を踏みにじられ、奴隷扱い、罵倒、虐待されるのを自分に許すわけには行かない!

 

 自分の恐怖と戦う勇気を持ちなさい、くそ親どもめ!


 私は、私に言う。虐待を受け、親にやられたという自覚を持ち前に進め。 そして、自分の親にキッチリと意識を向けなさい!自分の弱い心を子どもに向けし返すなんて、それでも人間かといってやる!それが出来ない弱虫な卑怯者に大事な存在である子どもになんて事をしてくれたんだ!


 全く、そんな親からしか生まれて来れなかったなんて、運命は何て残酷なんだ!過酷を強いられて、この世に神様はいないのか!

 

 両親に言っておく!


 自分が親に虐待されたから、子どもに仕返しするしかないという思い込みは卑怯だ!ハッキリとクソ祖母と何もしてくれなかったクソ祖父を恨みなさいよ!

 憎しみを自分の親に向けろ!


 お金があれば幸せなんて言いきって、私は幸せなんて、言ってるんじゃない!

自分の中に愛情も、温かい心などないとわかっているからこそ、自分と向き合う心がない!


 心がないから、あんた達のように、子どもを罵倒して、心を凍りつかせて、笑顔を向けるどころか脅しで子育てをすることしか出来ない病んでいる両親より、優しい気持ちで毎日居られることの幸せのほうが生きていくのには何倍も心強いだろう。


 子どもに強くなって欲しくなかったのだ。あの両親は!

 真逆に、子どもを支配して、一生そばに居るのがお前の使命!

 子どもを自立できなくさせて、どうするんだ!


やっぱり、あんた達両親は頭がおかしい。哀れな人。

 子どもの人生ぶっ潰すのに命を賭けることだけは一人前で。

 今、怒りとどうしょうもない悲しみでいっぱいだ。

 

 小さい頃に抑圧した怒りと悲しみが全然癒えずに今、長い年月をかけて噴火している状態なのだから。

 噴火をとめるには、マグマがおさまらなければならない。

収まっていないのに、蓋をしたからこんなに噴火が酷くなり、辛かったのに!


 怒りの噴火はが自分の中から全部出し尽くさない限り、子どもに連鎖してしまうかも知れない。そう考えただけでゾッとする!

 

 子どもがいて、私がいる。子どもの気持ちが大切なのなら、尚のこと、かつて子どもだった私の心も同等に大切にして生きなくてはならない。


 私に自分の育てなおしの機会と、覚悟をさせてくれた大事な存在。

 自分の至らなさ、視野の狭さ、軸のないこと。

これを知らなければ、自分とキチンと向き合うことはできないだろう。

そして、至らないからこそ、至らないと認めれば、かっとなることも少なくなるのでないだろうか?

そして、ここで親になる覚悟と、向上心が生まれなければ、親になったとはいえない。


 そう、子どもから大人に育つということは、私も自立、強くなり、愛情を知り、励ましながら大きく育てることなのだから。

 それさえ分からないあんた達に親だなどと、金輪際言わせるつもりは無い。

 

 あんた達こそ、精神病院に入院しろ!警察に突き出してやる!離婚して、路頭に迷いやがれ!私を、子どもを馬鹿にするのも、いい加減にしろ!


 私は大事な存在だ。みんなと同じように愛されて、守られる権利があるんだ!あんた達、子どもが大事だと思ったことはないのか?

 大事にされないのなら、どうして産んだ!私が大事にされていないのに、あんた達親が大事だなんていえるだろうか?

 

 あなたが罵倒と罵りをやめないなら、

 あなたの体が言うことを利かなくなるほど衰退し、

 あなたのしたことを丸々やって差し上げましょうか!


 「みっともない!こんな体になって、子どもにさんざん迷惑かけて、ああ、いい気味だ!あんた達が罵倒した回数と同じだけ罵倒、罵りしてあげますよ!それをお望みでしょう。」と、毎日毎日。

 そして、恐怖で震えながら部屋で寝たらどう?

 私にそうしてきたのだから、おあいこね。


 こういってしまいそうな私がいる。

 こんな風にしか親を見られず、本当に残念・・・。

 

 愛されて育てられたかったな。

生まれてくれてありがとうって言われたかったな。頭をなでてもらいたかったな。

・・・こんな小さなことさえ、全くかなうことの出来なかった私。

 

 そりゃ、子どもの頃からおかしくもなるよね。

 温かい家庭で育てられ方をされた子どもが笑いかけてきたら。

 明るい屈託の無いオーラに包まれたら、どうしていいか分からなくなるよね。

 それでフリーズしてしまうほど、自分が愛されていなかったことが、ただただ悲しい。


 そう、感覚がない。愛されたという。感覚。

 育ちながら、感じたかったな。私は親から愛されているもん。ってさ。

 愛されているように振舞うことはできるけれど、いつも心の中では泣いていた。

 「違うんです、私は虐待されて育ったんです。だから、あなた達のような心底屈託のない笑い方と、感じ方は出来ないんです」と。訴えていた。

 皆と分かち合いたい気持ちは、誰よりもとても強いのだが、それが出来る木が果たしてくるのかと、絶望的な気分との言ったりきたりのシーソーのような不安定な感情が沢山私にはあるから。


 決して断じて言う。家庭環境は自分のせいではないのに、いつもなんだか明るく愛された人の前だと、萎縮してしまう。とても着いていけない気持ちにさせられる。不公平だ。

 「愛されることのない、虐待をするような歪んだ家庭の出身者。私達とは何かちがうよねー。」そういわれているような気持ちに勝手になってしまうからなんだ。


 虐待を受けるということは、それだけ自分と他の人の景色が違って見えるということなのだから。

 開き直っているつもりでも、やはり、自分の育った環境が浮き彫りになるだけ、思い知らされる。そして、見破られたと思いこんで、勝手に一人絶望敵な気分に叩き込まれる。


 これだけは、昔から、今現在、夫と子ども達と一緒にいても突然やりきれない虚しさが広がる。

 虐待されたという事実が情けないほど勝手に出てしまうのだ。

 自分は自分で築いたこの家族の中でさえ、異質で違うのだと思い知らされるのだ。

 心がズタボロになって、フラッシュバックに耐えて毎日子どもに笑顔を見せている私。

 懸命すぎて、自分がかわいそうで辛い。

 感情と行動は一緒になることはいつになったら訪れるのかと。叫びたいよ。


 親に感謝。本気でそんな感覚を持っている人が心底羨ましい。私には一生持つことの出来なかった感覚なのだから。手が出るほど欲しくても一生手に入らないんだ。悔しい、淋しい、悲しい、孤独だ。


 こんなこと、愛された人は、頭をよぎることもないのだから、私は泣くことも開き直ることもできず、ここまで歯を食いしばって必死にがんばってきたというのに。


 愛されて育つのが当然!みたいな言われ方をされるのって、虐待を受けた人にはとても心が痛いし、苦しいし、どうして皆そんなに愛を簡単に手に入れられるんだ!と余計自分を責めてしまうのだ。

 悔しい!はけ口としてあんな自信のない親に支配されっぱなしの私の人生が。


 今でも母親を含む三姉妹で悪口、誰かの非難、汚い手口で誰かをターゲットにして攻撃しているのだろう。


 真ん中のおばのこと。

真ん中のおばは、気が弱く、優し過ぎたので少し精神が悪い。

 真ん中のおばが成人してからは、心が病んだ精神病一歩手前の状態が続いているのだ。

 だから、クソ祖父母は真ん中のおばに、お婿さんを迎えた。親の監視の元に同居して暮らしていたのだが、真ん中のおばだって、親が、夫がなくなってしまった今、自分の姉と妹しか残っていない。

 あの、精神が子どものままの、とても頼れない2人しか。


 真ん中のおばが居てくれたおかげも私が絶縁しようと決めた原因の1つに挙げられる。


私もおばのように気が弱いのではないか?

私も叔母のように気が変になり、狂ってしまったらそうしょう・・・

 自分で何も考えなくなり、母親に全てを依存し、委ねてしまう生き方をしてしまったらどうしよう?

白状すると、不安で恐くて怯えながら真ん中のおばに接していた。


 真ん中のおばのように私の精神が乗っ取られ、虐待親、親戚に従うしかなくなってしまったら、もうクソ両親と、あんた達親戚から逃れることは不可能だと。

 

私にとって、あんた達三姉妹が気味悪くて、とても血が繋がっているとは思えないほど嫌悪、憎悪しているから。

 そう、あんた達と血が繋がっている事が私の人生の汚点の出発点だなんて気持ち悪い!何度でも言う!あんた達気味地悪いんだよ!


あんな両親との間に生まれなくてはならなかった事を激しく嫌悪する!私の汚点だ!


 ここまで私の取り巻く気が狂った汚物そのものの両親と、親族の汚くて吐き気のする、最低な過去の事実を暴露することが出来た。

私はやっとここまで書くことができたのだ。


 汚物だらけで異臭を放つ親と親戚一同が一番嫌がること、隠しておくことをこのような形ででも暴露して、公にさらす事ができて、私は心からいい事をしたと言おう。


 そう、親が一番してはいけないという禁止令をこうやって破る事が出来たのだ!

 それはとても嬉しく、自由を手に入れる第一歩なのだから。

 よく言われた。「家のこと、言うんじゃないよ。隠しておけ、無かったことにしろ!」

 これを確かにあった事実だと声を大にして、世間に、そして私に公表するのだ。

 そして、あんた達親と、親戚にも事実を突き出して認めさせてやるんだ!

 これが私の使命なのか?

 

 今、憎悪と虚しさが私の中で渦巻いている。

 虚しさが急に出てきた。ここまで書いてやっと。


 親のことを、悲しくなるまで続けるといいって思っていたけれど、これも相当キツイ感情がいったりきたりで相当疲れる。

 思い切り泣いてみたいけれど、泣いているうちに親が憎くなってくる。


 1分前に憎悪して、1分後には虚しくて悲しくなる。私の心が忙しい。

 憎悪でしかない、虚しい親だって事なんだね。


私だってこどもたちと同じように成長したい。


 私に成功してもらうのが一番嫌なのだ。自分が下だというのが私にバレるのが耐えられないんだ。

 だから、これでもかと足を引っ張る。


私は、何のためにこの両親から生まれてしまったのだろうか?


私は、今、はっきり気づいた。

 私のほうこそ、あのクソ親に愛情は1つも持ってないとはっきり分かった。

 私の心の中に親への愛情が1かけらもないと分かってしまったら・・・それがバレたらと思うだけで怖くて、

親に見透かされないように必死で「親が大好きだ」と取り繕い、生きてきたようなものだ。

 生き抜くためだけに。それに、自分でも親への愛情が無いなんて認めたくなかった。

 ・・・その通りだったようだ。今これを書いていて、心が軽くなっているのだから。私は親への愛情が無いことを自分と親に隠さなくては生き抜けない。

 だから、隠し通すんだ。バレてはならない!と禁止令を自分に出してしまったようだ。


 それに、まさか子どもの頃からずっと親に愛情をもっていないなんて、そんな欠陥人間で心の冷たい人間だとは自分が思いたくはなかった。

 そんなはず無い。私は親が大好きだ!と思い込むのに必死だった。

 それはとても辛かった。


 何一つ感謝もできず、愛情も全く感じられないのは私の方にもある。

 と、いうか、それだけしかクソ親に感情がないのだ。

 だから、怖いんだ。自分に対して。

 ホントに憎くて、憎悪だけの関係だったのを自分で認めるのが怖かったようだ。


ゾッとするほど冷たく、他人より他人。ただのロボットのように扱われ、憎しみをぶつけられたから、私にも全く親への愛情は無かったのだ。

 それを認めるのが怖かった。

 親から私は冷たい。欠陥人間といわれているような気分だったのは、私自身、育った環境と、家族に全く愛情が無く、その通りだったのだから。 

 バレないように、愛情があるフリをしていたのだから。私も同じかも。


ホントに、愛情が無いのを認めてしまった今、何のためにこの両親から生まれてしまったのか…誰か教えてほしい。

絶望的な気分になる。


 自分のしたいことを主張すれば、罵倒する、泣きわめく、殴るの繰り返し。

 「親の言う事が聞けないのか!」、「親にふざけたことを言うな!」、「もうなにもしてやらないからな!」、脅だけで繋がっていただけだ。

 そして人の批判や、人を小馬鹿にするようなことだけは一人前に言っていた。

 私は、何をしていても自分が悪い事をしているような気持ちになって、いつも罪悪感とか不安を感じていた。

 家族の仲が悪いという事が誰にも言えず、友達の家族の話題にもついていけず、誰といても家族の事が言えない。

 そのせいで楽しいとか安心感が育たなかった。

 それどころか、こんな異常な家庭に育って、私は人に対しての劣等感が半端ない。

 普通の幸せを常に演じ続けているようで、とても辛いし、ここにいる誰よりも不幸な育てられ方をしているのだから劣等感・・・皆と一緒に居るのでさえ、ここにいることさえ現実ではないのではないかと、突然、怖くなる。

 だからだろうか。抑圧だらけの人間が私に寄って来てしまうのは・・・

 でも、もう抑圧だらけの人といるのは虚しくなる。悲しいし、苦しい。


 今現在も子どもの学校関係で母親のような人に意地悪を受けているけれど、それさえ虚しい。苦しい。

 本当に視野が狭くて幼稚な考え。

 私が折れて意見に従ってもそれを良しとせず、理不尽に攻め立てる。なにを言っても私に不満をぶつけてくる。全く母親と同じ。

 こういう人が母親以外にもいるんだと1年間辛かった。

 それに、こういう人は何を言っても私が命を投げうって尽くしても違う!と決して認める事はしないんだと。

 そうなんだ。こっちが苦しんでも、どんなに頑張っても私を認めないし、一生懸命やっていても、「またゆうこがどうせ動いてくれるから、なにもしなくてすむわー、そのために居るんだからね!あんたは!」こうやって自分の都合に合わせて動くのが当然。意見を言えば存在さえも否定しまくる。

 うーん、馬鹿馬鹿しい。こんな人のために、1年間も苦しんでしまった。


 だからこの1年、やたらあの人に投影して、母親に対しての憎悪を募らせたんだ。

 そのくせ、あんたも母親そっくりの人の悪口だけは得意だから大人しくしてやってるのにいい気になりやがって!馬鹿にするのもいい加減にして!

あんたも母親と一緒に地獄に落ちたら!私の目の前から消えうせろ!

私は学校関係の幹事が終わる4月が待ち遠しい。あんたと一生完璧に離れられるから・・・

 こんな風にしかあんた達と関われないって事なら、もううんざりだ!消え失せろ!何時間でも罵倒してやりたい!私に土下座するまで殴り付けて、いたぶってやりたい!その汚い顔を踏みつけて立てなくなってみっともない!ザマアミロ!って叫んでやる!それほど憎いんだよこの、鬼畜野郎!下等動物どもめ!!

どうしてこういう下等の最低野郎の動物とかかわりを持たなくてはならなかったのか・・・

 どうして、ここまで馬鹿にする奴らばかりなんだろうか・・・

 ここまで嫌な奴ばかり現れていると、私がおかしくなるといっているのに!そこまで押し付けやがって!あいつら!絶対許さない!

 

 そもそも、なんで関わって来るんだ?馬鹿なのか?あんた達は?


 私がいやだって言ってんだから二度と私の前に現れるな!私が穢れる!おぞましいったらありゃしない!

 1度でも会ったら、また陥れられる!

 

 早くあんたと離れられる4月にならないかなって、うきうきと離れた瞬間を想像することと、

早く母親が死んでくれないかなってうきうき想像する事とは全く一緒。

 あんたも劣等感を私に植え付けようとすることに必死だからね。


 それが手に取るように分かるだけにキツイ。

 離れてかかわりを絶つのを指折り数えて待ちわびている私がいるだけ。

 あなたとそれだけの関係しか持てないことも身に染みてよーく分かった。


 この出来事があって、やはり母親に顔も見たくないという感情だけ芽生えたと分かっただけ。

 それがわかったしまった私はもっと淋しくなったし、幻想と現実を見極めないといけないと心に刻むことができた。


 話は家族との思い出に戻る。

 家族旅行にもいったけれど、自分は幸せだとか、楽しかった等の思い出はない。ただ、子どもが気を使いながらする家族旅行に何の意味があるというのだろうか?

 逃げたかった。


 あんたに対しては怒りと憎悪の感情しかないから。

 私は、前はそれさえも親なんだから、親を憎むなんてと、罪悪感でいっぱいでとても辛い思いをしてきた。

 人には自分の本音を全く話せなくて、辛かった。

 虐待の事実を隠しているという後ろめたさがいつもあった。


 虐待を受けたような場合、それは到底、幼い自我が受け容れられる範囲を超えていますから、多くの場合、無意識下に抑圧される。

 そうでないと、自我が破綻してしまうし、心が壊れてしまうらしい。


 その後、成長するにつれ、母親以外の暴力的なところ、攻撃的なところ、支配的なところを目の当たりにしてしまうから。

 それが他の人にとっては、許容範囲のものであったとしても、両親による虐待を受けた経験のある人にとっては、許容範囲として受け容れられないのだ。

 当然、そのことには敏感になるから、他の人がスルーするようなものも、自動的に拾い上げてしまう。


 そのような行為は、両親の虐待と同位とみなされ、同じくくりとして受け取られ、同一のものとして処理されるらしい。

 そういうところは意識できない。半ば無意識的に、そういうこと(自動処理)が行なわれる。


なので、意識に上る投影するものすべてに暴力的だ、攻撃的だ、支配的だ、そうに決まっている――というところに落ち着いてしまう。


 他の人が、「暴力性、攻撃性、支配性も、人間であれば、ある程度は誰しも持つものであり、また実際、誰かに対し、暴力や攻撃を加えたわけでもないし、支配しているわけではないじゃないか」と言っても、私には納得できない・・・。

「きっと、暴力を振るうに決まっている」、「きっと、攻撃するに決まっている」、「きっと、支配するに決まっている」――そういう考えになってしまう。


 また、何かしらの事件が起こった場合、それがすべてであるかのように取り上げ、「ほ~ら、やっぱり思ったとおりだ」となったり。

 過去のショック体験により、核のようなものが形成され、同じようなことはすべて(些細なことまでも)それに取り込まれて、束になって大きくなってくから、「暴力的」という強固なパターンが出来上がってしまう。



こうなると、物事を分けて考えられない。

 部分と全体が、ごっちゃになる。


 一つのコンプレックスのフォルダが作られてしまうと、それに近しいものは、何でもそのフォルダに放り込まれてしまう。

 そういう作業が、無意識のうちに、行われてしまう。

 親というものにコンプレックスを持ってしまったら、世の殆どは、親というフォルダに放り込まれ、コンプレックスを伴なった感情と共に処理され、認識される。

 そしてすべての世の母親に似た人は、暴力的、攻撃的、支配的、そうに決まっている――そんな風に認識されてしま。

 

 だから、 いつも「お前は、これをしてはいけない」と言われた。だから母親に似た他の人にも憎悪しかが湧かず、人生も楽しめなかった。

 これをしてはいけないと思いこんでいたことばかりの人生。

 楽しんだ後に、必ず親から酷い仕打ちをされたから、幸せになることが出来ないと思い込んで生きてきた。


 まんまとあんたの戦略に乗っかってしまった。

 不機嫌になっても自分のことはまったくほったらかしにされて、楽しそうに仕事をしたり勝手に遊びに行った方が良かったんだ。こうせれば、母親をを痛めつけることはできない・・・。

 これが分からなかった。

 

 自分がこれだけの怒りと憎しみを抱えている以上もう親子という関係を続けることは不可能だ。

 自分がこれ以上おかしくならない為にも、もうあなたとは一生関わりたくない。

 あなたはもうこれ以上私と全く関わろうとしないで。


 それが今の私の心からの望みだから。

 憎い!母親というものが一般の子どもに向けての意味と、私の母親というカテゴリーでは、解釈が全く違ってくるから。

 母親=愛情の対象 では無く、

 母親=憎悪、憎しみの対象 だからだ。

  

 皆が母親というものに愛情があるように、

 私には母親というものに憎しみと憎悪しかない。


 これでは会話が成り立つこともない。不可能だ。

 

 母親はこういうんだろうね。

「ゆうこが私をターゲットにして怒っている。私には何も覚えが無い。ただ、ゆうこが私に理不尽なことを勝手にするから。」

 そう思うなら思っていれば!そうよ!あんたがターゲットにされるような馬鹿だからね、トコトン追い詰めて立ち直れなくするのが私の復讐方法よ!

 ああ、馬鹿にしやがって!

 ふざけんな!早く死ね!殺したい!崖から突き落としたい!

 いい気になりやがって!私がいたから何もしないで居られたんだからね!感謝して私に前にひれ伏せ!頭を靴で地面に叩きつけてやるからな!覚悟しろ!

 ほら、私は母親に憎悪しかない。


昨日、やっと学校関係の仕事が終わった。

あー、せいせいした。

あんたと離れられると思ったら、心がウキウキして軽いわー!

早速、あんたのメールアドレスをブロックしてあげるわ~!


そんでもって、私はこの文章をあのクソ母親と、クソ馬鹿あんた二人に読ませたいんだ!

もちろん、実名でね!


さっき、あの馬鹿クソからメールが来た!

あー、アドレスをブロックするの忘れてた!悔しい!

だけど、メールで悪口って、スッゴク勇気ある行為だと思うけどな…

私が誰かに見せるとか考えないのかねぇ?

一人で勝手に切れて、私は謝ることが一個もないから、「人それぞれ、取り方があるから。」って返したら一人でぶちギレて。一人で「もういいです!」だってさ。

馬鹿ね~!私があの人の事で迷惑被って怒ってることは学校の仕事を一緒にやった人にわかってるのにね。

馬鹿なんじゃないかしらねー。自分のしでかしたことがわからないんだよね。はっきり、「あなたが私のことで迷惑かけてないでしょ!」

だってさ。

あんたが私にメールすること自体、もう完璧な迷惑行為だろうが!馬鹿!死ねば!お前らはこの世に要らないんだよ!

母親とあんたで刃物で刺し違えたらどう!そしたらいっぺんにいなくなって私はせいせいするわー!

テメーにひれ伏すことなんて死んでもしないんだよ!バーカ!一人じや何もできないくせに!人に頼ってるんじゃねーよ!調子にのってんじゃねー!クソ馬鹿!


ああ、母親とデーブあんたは何でこんなにそっくりなんだ?

これは試練か?絶対に謝らない!という私に対しての…

過去で謝ってはいけないことで謝り続けたから、今回から謝らない!っていうセッティングが、こうして起きたのだろうか?

前回も母親にあんたが悪い!って突きつけてやってんだから。またここで同じことを繰り返すとは思わなかった!

何なんだろう?これは!これ限りにしてほしい!

でも、謝らないことを学んだ!私が怒ることは正しい!一生あんた達二人には逆にひれ伏させてやる!


あんたらは私迷惑しかかけてないんだから!優しくしてくれた人には優しさで返すけれど、あんたらは逆に同じだけ困らせてやるつもりよ!


あんたらに優しくしたって、ザルに水を注いでることだもんね!

あんたらに与えた優しさを返しなさい!

今すぐウセロっていってんの!


私が耐えたぶんたけあんたも耐えて見せろよ!この卑怯ものが!根性なしめ!弱虫!馬鹿じゃないの?何であんたら馬鹿の為に私が動くとでも思ってるの!!

動いたって感謝もされなければ、ダメ出しして私の心をズタズタに、するつもりなんでしょうから!

 あんた達、自分の内面と心に向き合うのが怖いんでしょ?だから私に代替してやってもらおうとしているけれど、それは無理。自分と向き合う勇気の無い人より私のほうが前を向こうと必死になっているから。

 だから甘えてきたって無駄。自分の荷物は私に持たせたようでも、持つことはできないのだから。だからいつまでも不機嫌で、不満。あなた達が自分が虐待されてきたと認めたとき、初めて私と対等になるんだから。



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― 新着の感想 ―
[良い点] 私も、毒親で育ちました。子供の頃は、服も買ってもらえず。母は自分のは買ってました。一番幼い記憶が家から出て行け、死んでくれです。ずっとしょちゅう言ってました。母の悪い所は、家の外と家の中と…
[良い点] 貴方は過酷な人生を改善するべく耐えてこられました [気になる点] 親族の攻撃は自分の事ばかり世論したがるものでしかありません 私の人生経験とよく似ています 地位が高ければ高いほど そうし…
2020/03/16 00:49 正解マニュアル1
[一言] くろさん、お会いしてお話ししたいくらいです。 自分の育ってきた環境に良く似ています、本当に。 解離という言葉を使われていますね、解ります。私は現実逃避(笑)。 女系の母の実家に行くのが苦痛で…
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