無限の愛とチョコレート
二月十四日、恋する乙女の決戦日。その日はご存知バレンタインデー。本命、義理、友、逆、チョコレートは様々な意味を持って人々の周りを駆け巡る。しかし、いくら派生しても女性の恋の後押し、その形は生き残っている。その意味合いが残っている以上、野郎どもはチョコレート会社の陰謀と嘯きながらも、期待に胸を膨らませずにはいられない。
バレンタイン前日、少女たちはチョコレートを溶かしたり、固めたり、包んだりと大忙し。可愛く素敵なものを作るための儀式。女子ヂカラのせめぎ合い。ここは男には理解できない世界が作られている、といっても過言でない。
日本中のキッチンがチョコレートに塗れるなか、一人の悪戯好きの少女は思いついた。バレンタインデーにあげるチョコレートをうんこの形にしよう、と。
当日、少女は少年にうんこ型チョコレートを渡した。少年は決してモテるタイプとは言い難い。言うなれば、やや地味でのんびりとした、不思議な雰囲気を携えた男である。
「ほら、これ」ややぶっきらぼうに言い、綺麗にラッピングされた包を渡す。
「これは何?」
「何ってチョコレート、今日はバレンタインデーじゃん」
「あーそうか、自分には関係ないと思っていたから忘れていたよ」
なんとも渡し甲斐がない男であるなあ、少女はため息を一つ吐いた。少年の顔を伺うと、わかりにくいが少し俯き頬が紅潮していた。照れているのを誤魔化そうとしている、そして嬉しい気持ちを隠しきれていない、そんな混ざった表情が少女には見えた。そんな顔を見ていると少女にまで恥ずかしさが感染る。少女は渡したチョコレートを開けるように促した。もぞもぞと少年は包を解く。几帳面なのかそうでないのか、丁寧に開けようとするが包装紙が少し破れたところで、乱暴に引き裂くように開けた。几帳面なのかそうでないのかわからないが、少女は彼が不器用であることが分かった。少年は箱を開く。
「これは……うんこ?」
先程までの感情はどこ吹く風、少年の顔は引きつり理解しがたいという表情で少女を見据える。少女は悪びれもせずに告げた。
「ううん、チョコ。うんこの形をしたチョコレート、通称うんチョ。」
「うんチョ」
複雑な面持ちのまま繰り返す。期待を変な形に裏切られ、そしてどうしたらいいか分からない、そんな混ざりっけのある初々しいリアクションを少女はずっと覚えておこう、と漠然と思った。
一月後、ホワイトデーである。バレンタインのお返しに、男が女に三倍の価値ある品物を渡すという、非常にバブリーな日である。もちろん、少年はその日に少女を呼び出した。
「これ、バレンタインのお返し」
少年は端的に要件を告げ、ラッピングされた少し大きめの箱を少女に渡した。その包装紙には少しシワが寄っていて、少女は本当に不器用なんだ、と感心した。
「開けるね」少女はそう呟くと、破ることなく丁寧にラッピングを剥がす。そうして箱を開け中身を見ると同時に、表情を強ばらせ生唾を飲み込んだ。
「これ……は……?」
「ホワイトデーは三倍返しが基本だろ?だから三つのうんチョ」
そう、箱の中には三つのうんこ型チョコレートが収められていた。自分が作ったのものよりも不細工なうんチョ。恐らくチョコレートを作ったのは初めてであろう少年と、彼のちょっとした仕返しに何か可愛げを感じた。少女はニンマリとする頬を痙攣させて、少年を見るとやってやったぜ、と言わんばかり嬉しそうだった。
「来年のバレンタインデーは九個、うんチョをあげるわ」
「じゃあ二十七個返さないといけないな」
「そしたら次は八十一個ね」
時流れること数年、地球は謎の異常気象の影響でカカオが全く取れなくなってしまった。バレンタインデーにチョコレートを贈ることはおろか、日常生活でチョコレートによる効用さえも満たせない。食べると幸せになるチョコレートは今や一般人の手が出る品ではなく、そしてあわや戦争の種である。
人の口には戸は立てられない、噂はどこから広がるものなのか、ある男女が大量のチョコレートを持っているとニュースになった。この男女とは甘酸っぱい青春を、毎年三乗倍ずつうんこ型チョコレートを贈りあった彼らである。そして彼らはあまりの量の多さと、見た目が食欲減衰を促すということで、思い出として全てのうんチョを保管していたのである。
社会を蠢く言葉は人々を洗脳し、チョコレートという甘い幸せは判断を鈍らせる。かつて安価で手に入った美味しい幸福を、その手に取り戻さんと人々は暴徒と化した。各々、思い思いの武器を携えて、彼らの家を取り囲む。少年少女は既に少年、少女と呼べる年齢ではなくなっており、同棲するほどの仲になっていた。
暴徒は、聞くに耐えない罵詈雑言を喚き散らし、チョコレートを求める。今にも家を叩き壊し、彼らを傷つけ、うんこ型チョコレートを持ち去らんという勢いがあった。
彼らの手には本当に大量のチョコレートがある。この家に集まる暴徒に配ってもお釣りがくるであろうほどには。三乗倍の贈り合いは天文学的な数のチョコレートを生み出すのだ。
しかし彼らは暴徒にチョコレートをあげる気などさらさらなかった。彼らの過ごした青春を暴徒に汚されるなど我慢が出来なかった。
「なあ、俺たちのうんチョなんだけど、全部埋めてしまおうか」
「そうね……ギブミーチョコレート達に奪われてしまうくらいならそれがいいかもね」
彼らは慈しむようにうんこ型チョコレートを撫でて、庭に静かに穴を掘った。
あくる日から暴徒は沈静化した。チョコレートを持たない彼らなど、ただの人である。
三月一四日の昼下がり。冬の寒さもすっかりと解け、太陽がポカポカと世界を暖める。一人若い女性が微笑みを浮かべる。ジョウロで虹を作りだし、庭に萌える若々しい草葉をキラキラと輝かせる。優しく愛情を込めて水を撒く彼女の左手、その薬指。そこには指輪が光る。彼女は優しそうな眼差しのまま、縁側で小説を読む男をそっと見つめた。その視線に気づいていないふりをして、男は本を読み続ける。相変わらず、不器用だなあ。今年は三四億八六七八万四四〇一個のチョコレートをあげる予定だったけど、無理そうだから、これ。それが男のプロポーズの言葉だった。