アレスとレミ
「ん……」
少女が目を覚ました時、既に日は落ち、暗闇が辺りを覆っていた。慌てて周囲を見渡し、事の顛末を悟ろうとする。
「目が覚めたか」
アレスが声をかけた。それに振り返る彼女。
「えっと……」
どうやら状況が飲み込めないようで、しばらく辺りを見渡した後、アレスの顔にその視線を落ち着かせ、きょとんとした顔で停止した。
「……」
「……」
やっと、彼女の困惑を理解したアレスは説明を試みたが、その前に大きな疑問が浮かんだ。
「お前、この顔を見てもどうも思わないのか?」
「どうも思わないわけではありませんが、えっと……何か反応した方が良いですか?」
きょとん、と音が出そうな具合に首をかしげ、聞いた。彼女は、アレスの質問の意図を理解していない。
闇夜の中で焚火に照らされたアレスの例の顔面は、十分気絶するに値する程のものだった。ローブを彼女に貸していた彼は鼠色の着物一枚と、腹巻だけなので、顔を覆う事が出来なかったのだ。
「いや、別に、特には、ない、が……」
「へ?」
(調子が狂うな)
アレスは、頭を二、三度掻いて、本来話すべき話題に戻した。
「河原で気絶したお前を見つけたから、寝かせていたがのだが、もう大丈夫か?」
そう言い、銀の器に入ったスープを彼女に差し出した。
「飲め。体が冷えているだろう」
「ありがとうございます。多分、大丈夫です」
純真無垢、とアレスは感じた。素直に受け取ったスープをを受け取った彼女を眺め、二人の間には沈黙が流れる。
「……」
「……」
「……あの、魔導師様ですよね?」
沈黙は、先ず少女が壊した。傍に置いてあった杖を見て言ったのだ。
「そうだ。こんな見てくれではあるがな」
「……」
「……」
次は、アレス。
「名前を、まだ聞いていなかったな」
「レミです。フレミ・アンデルロス」
「そうか、俺はアレス。さっきも言った通り国家派遣魔導師だ」
「……」
「……」
スープを飲みきった少女は、ローブを脱ぐ。
「あの、これ魔導師様の御着物ですよね? ありがとうございます」
「いや、そのまま着ていろ。お前の方が体温が低い。俺は魔力でなんとかなる」
「ありがとうございます」
「……」
「……」
同時に、同じ疑問を抱く。
「「何故、ここに?」」
「おっと、すまん。……だが同じ質問のようだな。俺は仕事をしに来たのだ。この山を越えた地域に、な」
アレスがそう言うと、レミはその言葉に噛みつくようにして身を乗り出した。
「て、ってことは! 貴方が水脈工事をしてくださる発破技術を操る魔導師様ですか?」
「おいおい、なんだ。とするとお前、フィケル村の人間か?」
アレスも驚きを隠せず、思わず声を出した。
「はい! この山には水を求めて登ったのですが、なかなか湖を見つけられず、結局反対側の川まで来る破目に……」
「だから、ようやく水を見つけた安心から気を失ったと。……だが、お前のような細身の娘が来なければならない程とは、予想よりも干ばつが進んでいるようだな」
「はい……三日前、村中央の井戸の水が底をつき、以来水不足は深刻化しています」
レミは一瞬顔を曇らせたが、先程の恐怖は完全に忘れたようで、希望に満ちた表情でアレスに向き直り、はきはきと喋った。
「でも、もう大丈夫ですよね? 魔導師様が来て下さったのだから!」
屈託の無い笑顔を突き出し、首を少しかしげる目の前のレミを見て、アレスは優しく微笑んだ。
「変わったな」
「え? どうかしました?」
「いいや。随分昔――そうだな、お前今いくつだ?」
「もうすぐ二十です」
年の割に幼く見える容姿だな、と驚いたが、アレスは構わず話を続けた。
「ふむ。お前がまだ生まれていない頃の話だな。魔術が一般的では無く、魔導師が大衆の敵とされていた時代だ。未知の力を使う非人として忌み嫌われ、遂には戦争にまで発展した。その戦争に勝ったからこそ、今俺達は国を治めている。その時の、昔の評価に比べて、随分昇進したものだなあと、考えたんだよ」
「……」
レミはしばらく黙り込み、下を向いた。
(やはり幻滅したか。無理も無い。生まれた頃から自分達を導いていたリーダーが、実はただの侵略者だったなんて聞けば、な)
アレスも同じように、下を向き、スープの無くなった銀の器の底を、じっと見つめた。
「でも、誤解が解けて良かったですね!」
笑っていた。優しい表情の中には、心から相手の幸せを祝福する感情がにじみ出ている。アレスは、はっと顔を上げて驚いた。驚いて、口を開けたまま語る事を忘れていた。
「だって、魔導師様がとても素晴らしい方達だという証明ができたって事ですよね? 確かに戦争は大変だったかと思いますが、それでも私は、魔導師様が優しい方達だと知る事のできる世代に生まれて、とっても嬉しいです!」
この笑顔を、忘れたくないと思った。真っ白な肌が見せるその微笑みは、とても暖かかったのだ。やわらかく、包み込むような暖かさだ。その笑顔と言葉は、アレスの過去を、『価値あるもの』としたのだ。それが彼にとってどれだけ支えになった事か。それは、断じて、先程の老爺が見せたようなアレスの『力』の前に見せるものではない。彼の優しさを、本質を、人として評価した者の態度である。
気が付けば、アレスは涙を流していた。
「え、あの、魔導師様? 大丈夫ですか? どうかされたんですか?」
その涙を見ておろおろとうろたえるレミ。アレスは、顔を一瞬下に向け、目がしらを手で抑えた。そしてもう一方の掌を大丈夫だ、という風に彼女に向ける。
「いや、いや何でも無い。ありがとう。はは、情けない話だな。私はこんなにまで、弱かったのか」
泣きながら苦笑を浮かべたアレスは、涙を拭きとり、レミの方を向いた。
「感謝する。……レミ」
笑顔の意味を完全に理解せずとも、レミは受け入れるように微笑み返した。
ふと、レミがアレスの手元を見て、声をかけた。
「魔導師様、その水は何ですか?」
それは、銀の器に入った、濁りのある水だった。暗く、頼りは二人の間にある焚き火の明かりのみだったため、色までは分からなかったが、水面に黄金色の花が浮かんでいるのは見えた。
「ああ。これか」
アレスは、特に動揺することなく答えた。
「酒みたいなものだ。この体ときたら、もうこの酒が無いとろくに歩けもしない。中毒って奴だな」
そしてその液体を銀でできた大きめの筒に流し込み、中を覗きながらくるくると揺らして混ぜた。
「なるほど……」
思った以上に喰いつきの良いレミを見て、アレスはようやく焦った。
「……飲むなよ? 酒と言っても、魔導師にしか飲めぬ類のものだ。常人が飲めば、どうなるか分かったものではない」
それを聞いてあきらめた様子だったが、アレスは一応摘んだ魔導草を全て鞄にしまっておいた。
「はい。今日は、本当にありがとうございました」
「ああ。明日さっそく下山するから、村までの案内を頼むぞ」
「はい!」
溜まっていた疲労もあり、レミはすぐに寝付いた。それを見て、アレスも焚き火を消し、横になった。