或る魔導師
「さっさとしやがれ、ジジイ!」
のどかな畑が広がる風景の中に、馬車に乗った老爺を襲撃する数人の男達の姿があった。
「わ、分かった。分かったからそれ以上畑を荒らさないでくれ……」
ふるえた声で懇願する老爺は、必死に馬車から降りる。
「あ? 命令すんのか?」
それが癪に障ったのか、男は植えられている植物、つまりは足元にあるまだ青々とした菜っ葉をぐりぐりと踏み荒らしながら乱暴に剣を振るった。
「あ、ああ……」
絶望に満ちた表情で地面に膝をつき、両手を届かない畑に弱々しくのばす老爺。男は馬車に乗り手綱を引いた。そしてその仲間たちは荷台に乗り込み、嘲笑を浮かべた。
「じゃあな! ジジイ!」
男は力強く手綱をうねらせ、馬車を走らせた。主人を変えても、馬は従順に足を走らせる。残された老爺の顔面を土埃が覆い隠した。
馬車は、畑の間に申し訳なさそうに続く細い土手道を荒々しく走った。彼らを止める者の姿ははるか遠くの山まで見えない。元よりこの土地に人自体が少ないのだから。
平らに広がった広大な農地を二つに裂く様にして中央に流れる大河。そしてその川を吐き出しているのが馬車の向かう所、頂上を白く雪に染めた高山の峰々だった。山の雪とは対称的に、土地には春を迎えたばかりの生命力あふれた緑が一体を覆っている。暖かな季節へと向かうこの土地は、都市から離れた田舎であった。男達がやってきた方向にあるのが都市。人口も多く、田舎に比べれば、だが少しばかりの文明の匂いもする街である。対してそこから東に位置するこの土地は人が住みつかず、代わりに食料を育てる畑が敷き詰められた土地なのだ。ここから先は東に行けば行く程人里は減り、海に着く頃にはおよそ知的な物体の陰すら見る事はできなくなる。男たちは、その過疎化した土地の方面に馬車を走らせていたのだった。
「ん? おい、あれ」
その時、荷台に乗っていた若い男が手綱を掴む男の肩を叩いた。
「どうした?」
一瞬目を後ろに運ばせ、再び前を見つめ直す。
「あれ、人じゃないか?」
「馬鹿言え、次の集落までは馬でも半日かかる場所にあると情報屋が言っていただろうが」
「いや、確かにそうだ。あの黒いローブ姿の……って――」
斜め前に伸びる脇道を指さしていた男の顔が一瞬で青ざめた。指先はふるえていて、口は開いたまま動かない。
「そ、そんなはずあるか! なんたってこんな田舎に魔導師が……」
男は焦って横に何度も目を向けるが、馬車を走らせ続けなければならないため、前と横とを交互に見て――
爆音は一瞬だった。荷台の車輪が乗っかっていた土手を、えぐるように爆発が起こったのだ。土台をなくした馬車は横転し、それを引いていた馬は横の脇道に入り、難を逃れた。乗っていた男達は放り投げられ、畑にうずくまっている。
「な、なんなんだ……」
「ほ、本当に魔導師だ……」
腰を抜かしながら後ずさろうとする男達の元に、黒いローブを頭までかぶった長身の男が現れた。手には彼の身長と同じ長さの『杖』が握られている。顔はローブに隠されほとんど見えなかったが、その男が魔導師であるという事を証明をするのに、その禍々しいオーラだけで十分こと足りていた。
「お前らの馬車じゃねえな。こんな時代にご苦労な話じゃねえか」
「く、くっそお!」
男たちは次々と剣や、銃を抜き、体の前に構えた。
だが、もちろんそれは無駄な事だと悟っての所業である。
――
しばらくして先程の老爺が魔導師の元に駆け付けた。
「ま、魔導師様……これはこれは。一体何故このような土地に赴きなされたのです?」
会うや否や、地面に落とさんばかりの勢いで頭を深々と下げ、老爺は挨拶した。
「一寸な。それより老人、そこに横転してる馬車はお前の物か?」
魔導師の指さす方向には、馬と、それに繋がった横倒れしている木製の荷台があった。荷台につんでいた荷物は少量であったが、全て道に転げ出ている。
「ああ! これは! 間違いなく、先程盗賊に襲われ奪われた私の馬車であります! これをどうされたのですか?」
「いやなに。道にくぼみがあるだろう? そこに引っ掛かってコケでもしたか。投げ出された衝撃でその盗賊とやらも伸びているぞ」
魔導師が顎を軽く動かし、老爺に向かせると、そこにはうつぶせに倒れた盗賊の体の束があった。不自然な具合に皆下を向き、同じ向きに重なっている。
「なんと……やはり魔導師様は人知を超越される素晴らしさにあらせられる。訪れられた事でこれ程までの幸運を我が身へ分けてくださるとは……。感謝感激の限りにあります」
事を知ってか知らぬか、その老爺は魔導師に向かって座り込みながら臣下の礼をした。
「おいおい、馬鹿げた事を言っていないで顔を上げてくれ。俺は何もしていないと言っているだろうに」
彼はそう苦笑してその手を老爺の肩に置いて優しく叩いた。
「しかし魔導師様には日頃からお世話になっております故。そうだ、大した事はできませんが礼をしとうございます。是非家へ来ていただけませんか?」
老爺は顔をぱっと明るくさせて農地の果て、西側の都市には遠く及ばないものの、それでもこの平野では一番西に位置している小屋を指さして言った。
「あれには家内もおりまして、御食事程度なら簡単なものですがご用意できると思います。こんな土地に足も無くいらしたくらいだ、きっとお疲れでしょう?」
老爺は興奮して呂律が回っておらず、且つつばも飛ばしてしまっている。魔導師に会えたという事実が、何故これほどまでに彼を喜ばせる事に繋がったのか。それはこの老爺に会ったばかりの彼でさえ、はっきりと答えられる自信があった。故に一瞬、意味深な笑いをローブの下に覗かせた後、老爺の傍を通り過ぎながらこう言った。
「良いな、今にもすがりたい気分だ。だがしかしそれは断ろう。……ところで老人よ」
「はあ。何でしょう?」
身を引きながら老爺は視線で魔導師を追った。すると魔導師は横転して、彼の身長を頭二つ分ほど超える高さになっていた馬車を片手でひょいと元の状態にしてみせた。老爺はそれを見て、音の出ないラッパのように、口ばかり大きく開けて声が出せなくなった。
「探し物をしていてな。この辺りに濃い黄色の花弁を持つ、つる状の植物が生息しているのを見かけたり話を聞いた事は無いか? 岩場にあれば尚良いのだが」
「は、はあ……それならおそらく、以前東の村に行く用事が会った折、あの山の峠で御見かけしましたものと思われます……ちょうどあの川の上流であります……」
先程までの勢いを失った言葉の羅列は、彼の表情をそのまま乗せて発せられているかのようだ。老爺はただ呆然と東の山を指さした。それを見て魔導師は、ふむ、と声を漏らしもう一度老爺に向き直り、フードを脱いで老爺を見下ろした。
「そうか、情報感謝する。これからはあのような低俗な輩に屈する事の無いようにな」
優しい笑顔、少なくともそう言える表情を浮かべている彼の顔は、およそ人間のそれでは無かった。所々肉は欠落し、赤黒い血管が顔全体に張り巡らされている。顔面全体を鷲掴みしている血管のせいで、ただれた肌の色の印象は、白か黒。橙など影すら見えない。髪の毛は傷み果て、淀んだ白一色。短く縮れた毛もあれば、長くしだれた毛も入り混じっている。
腐食した死骸のような、それが彼の顔に一番当てはまる形容だった。
老爺の驚きはもはや何も認識できない域に達し、腰を抜かしたまま呆けた顔を何度も上下させるのが精一杯だった。
(駄目だ、これでは、昔と何も変わっていない)
立ち去りながらアレスは、そう考えて悔しさを杖に伝わせ、地面を強く突いた。歩く度に、何度も、何度も。