第二章 (2)
(くそ、セウラのやつ……)
一方フリルデは、弟の事などむろん頭の中にはなかった。
思いっきり全速力でシュレから逃げてきた後、悔しさに顔をゆがませながら、木によりかかって息を整えていた。
(なんであんな所にシュレがでてくるのよ。せっかくあいつをやっつけるチャンスだったのに。くそ!)
八つ当たりをするかのように、木を何度も殴りつける。しばらく殴ったあと、身体の衣服に付いたほこりを払う。
「本当に格好悪いわ……」
適当に森の中を走ってきたので、ずいぶん奥にまで来てしまったようだった。
カサ、コソ、と、どこかから何かが葉をこすらせて歩くような音が聞こえてくる。森に住まう、獣かも知れない。
フリルデは、ぎこちなく笑った。
(まあ、こういう散歩も……悪くないわね)
誰が見ているわけでもないのに、余裕であることを見せつけるようにわざとゆっくり歩くのは、フリルデの微かな意地だった。
(セウラなら、声を上げて走り回るんでしょうけど)
だが――
だれかが落ち葉を踏みしめるような音が耳をたたいた時には、思わず悲鳴を上げそうになった。
顔を真っ青にして、身を堅くする。
(た、たた、狸か何かよ……)
心臓の高鳴りを押さえつけるように胸に手を当て、自分に言い聞かせながら木陰に隠れる。
しばらくしてやってきたのは、狸などではなかった。
(なに、あいつら……)
見たことのない、二人連れであった。
一人は、黒いローブをまとった小柄な少女だった。
不機嫌そうに唇を突き立て、眠たそうな目つきであたりをボンヤリと見回している。
紫がかった短めの髪は無造作に跳ね上がり、背中はけだるそうに丸まっている。
その様子は、まるで寝起きだ。
もう一人は、背の高い男。歳は二十代の半ばといったところか。
少女とは対照的に姿勢がよく、背中もピンと張っている。
幾何学模様の装飾の施された、ゆったりとした衣服をまとい、それを腰のベルトで止めている。
ベルトには剣が携えられており、背中にはバックを背負っている。
その顔立ちはアゴが鋭く、目も鋭い。全体的に角張った感じのする男だ。
(盗賊にしては変な格好だけど。どちらかといえば、トゥーラかな。たった二人で村を襲うつもりかしら……。とにかく誰かに知らせなきゃいけないわね)
二人が遠くへ離れたのを確認すると、背中を向けて急いで足を踏み出した。
(でも――)
二、三歩走ったところで、その勢いは止まった。
(もしかすると、これってチャンスなんじゃないかしら。一人で盗賊を退治したとなれば、もう、セウラのバカもわたしを認めないなんて言えないでしょうし)
その口元が、ゆるむ。
(日が上る頃には、わたしって村の英雄になってるんじゃないかしら!)
宝物を見るかのように瞳を煌めかせ、二人の背中に向かって振り返った。足音が響くのも気にせずに追いかける。
「待ちなさいよ、盗賊ども!」
フリルデは大声で叫んだ。
「わたしたちの村に忍び込もうなんて、いい度胸じゃない! わたし、フリルデが退治してあげるわ!」
「……」
怪しい二人は、特におどろいた様子もなく振り返った。
少女の目が、見定めるようにフリルデの全身をくまなく見つめてくる。
「な、なによ……」
なんだか恥ずかしくなって、思わず手で胸のあたりを隠す。
「あれですか?」
男も同じようにフリルデを眺めながら、隣の少女に声をかける。
「ちがう」
「そうか、違いますか」
「ちょっと!」
フリルデは荒げた声を挟んだ。
「ちがうってなによ! あんたたちも名前くらい言いなさいよ」
娘はその激情に首を傾げていたが、男と目配せをしたあとに、おもむろに口を開いた。
「リリ。わたしの名前」
「リリ……?」
そう名乗った少女。フリルデは目を何度か瞬かせた。
遠慮することもなく、連中がやったのと同じように、ジッとその顔や身体を眺める。
間近で見ると、紫色の目が妙に印象に残る。
(あの目……)
「わたしは、ハスナ」
「そう」
一応男のほうも名乗ったが、フリルデはリリのほうに夢中で上の空だった。
(あの、色……)
最初威勢のよかったフリルデがおとなしくなってしまったのを、二人は物珍しそうに眺めていたが、
「あ」
と呟いて、リリが顔を上げた。
「森を抜けていく。このままだと見失う。行こう、ハスナ」
「そうですね」
もはやフリルデは興味も失ってしまったかのように、二人は背中を向けた。
「たしか」
フリルデはなんとなく、つぶやいた。
「そうだ、シュレだ。同じ色……」
二人の足が止まった。
(え……?)
いやな予感がしてあわてて口をつぐんだが、もう遅かった。
「シュレ? 紫色の目を持つ者を、知っているのですか?」
ハスナはフリルデに振り向いた。
「わたしは、あれ、を追う。ここは任せる」
「わかりました」
リリはそのまま去っていった。それを見送った後、男は満面の笑みでフリルデに語りかける。
「教えてもらえませんか。リリ、と同じ目をした者を、知っているのですね?」
「さあね」
フリルデは小馬鹿にするように言い捨てた。
「ぜんぜ〜ん、知らないけど?」
「教えるつもりがないのなら、別にかまいはしませんが……。痛い目を見るな!」
ハスナは腰の剣を抜いた。瞬時にフリルデに向かって踏み込み、素早く剣を繰り出した。
フリルデは鼻で笑って飛びすさった。
「わかりやすい不意打ちね。殺気でバレバレ」
そして開いた右手をかざす。
「《白の晶剣》」
言うと、その手の回りにたゆたうリップルが青い色に染まり、剣の形を成していく。
「剣術なら、わたしも少しは自信があるわ」
フリルデは不敵に笑った。
頭上に滞空するそれを握りしめ、一度素振りをする。
ブン、と空気の切り裂かれる音と共に、白い結晶が剣から吹き上がる。
剣の出来に満足そうに頷きながら、ハスナを見据えた。
「そんな華奢な身体で、よくもわたしたちの村を襲う気になれるわね。剣技もはっきり言って甘いし。あんた、まともに朝日は見られないと思ったほうがいいわよ」
「それはそれは」
ハスナは笑みをにじませた。
「ずいぶんと余裕ね。こんな小娘相手にならない。そんなところかしら。あんたの考えてること」
「さぁてね」
「そう言う態度は、むかつくのよ!」
白い結晶を振りまきながら、今度はフリルデが踏み込んだ。
ハスナは振り下ろされる氷の剣に向かい、自らの剣を振り上げた。
ガ! 二つの剣が激突した。
その瞬間だった。ハスナの剣に氷が走った!
ハスナは微かに呻いた。反射的に剣から腕を放し、飛びすさる。
「おしいわね」
重そうな音を立てて地面に落ちたハスナの剣は、すっかり氷で覆われていた。
フリルデは氷の剣を軽く振る。
「わたしの剣は、触れたものをすべて凍らせる。もう少しで、あなたの氷柱が出来ていたのに」
「ほう」
ハスナの口元が、何かに満足するかのように、ほころんだ。
「なかなか華麗でお美しい技をお持ちのようで。才色兼備、とはこのことですね」
「気持ち悪いお世辞ね。早速命乞いかしら?」
「どうです? わたしの元で働いてみるつもりはありませんか?」
「あなたの元で? わたしに盗賊暮らしをしろとでも言うの?」
「あなたは運がいい。確かに今日までは盗賊まがいの生活をしていましたが、日が上る頃には、わたしは世界でもっとも偉大な存在になっていると思いますから。あなたは、その元で働けるのです」
「なに、それ」
「あなたは、グーマという男をご存じか?」
「グーマ……?」
「知らないのですか?」
「知ってるわよ! 昔話に出てくる魔王の事よね? 知らないわけないでしょ」
「ご名答です。では、彼には《ミレス》と呼ばれる有名な八人の下僕がいましたよね。すべての名前は言えますか?」
「え」
フリルデは微かに目元を引きつらせた。
「ええと、ディラッタ……」
指を折りながら、脳から絞り出すように名前をあげていく。
「アンガラでしょ? メビーメリ、リリダロス、ええと……」
フリルデは顔を上げて必死に思い出そうとしていたが――
不意にハッとなって声を荒げた。
「そ、それがどうしたって言うのよ。なんであんたにそんなこと答えなきゃならないのよ」
「ただ聞いただけですよ。別に思い出せなければそれでいいのです」
その程度も思い出せないのか。言葉とは裏腹に、ハスナの目には侮りの色が露骨に現れている。
(こんのやろぅ……!)
今すぐ飛びかかって凍り付けにしてやりたかったが、ここでムキになったらますます思うつぼのような気がして、こみ上げてくるものをがんばって飲み込んだ。
「ちなみにあとの残りは、ククスと、シュレルダ、ラクナス、セーゲ、ですよ。覚えて置いたほうがいいですよ。教養ですから」
「別に思い出せなかったわけじゃないわよ」
「で、もう一度聞きますが、わたしの部下になるつもりは?」
「まだいってるの」
ハスナをにらみ付ける。
「誰があんたなんかと……。死んでもいや」
ハスナは肩をすくめた。
「そうか、残念です。まあ、連中を全て思い出せないような頭の悪い人間を部下にするつもりはありませんし。あなたはどっちにしろ不合格です」
「な……!」
フリルデは顔を真っ赤にして反論する。
「だから言わなかったのは、あんたの質問に答える必要がないからだって言ったでしょ!」
「そうですね」
ハスナはにんまりと笑った。
「まったくその通りだと思いますよ。はい。では、そろそろ雑談はやめにしましょうかね」
ハスナは両手を広げた。彼の周りでリップルが揺れはじめる。
フリルデは用心して氷の剣を構えようとした。
その瞬間だった。
パン! 何かの弾けるような凄まじい炸裂音が響いた。
(んっ!?)
思わずフリルデは目を閉じた。耳が痛くなるほどに激しい音だった。
目を開いた時、その目は必要以上に大きくなった。構えた氷の剣が、粉々に砕けていたのだ。
呆然としているヒマはなかった。
再び炸裂音が響き、フリルデの右肩に衝撃が走った。
「くっ!」
鮮血が散った。激痛に顔をゆがむ。
何かがハスナの手から放たれた様子はない。まるで空気が、突然爆発したかのようだった。
「なに、いまの……」
フリルデの右手がぶらりと垂れ下がる。肩に激痛が走って腕を上げられない。
「《虚空の叫声》。空中に存在するリップルを炸裂させるトゥルです」
ハスナは片腕を振り上げた。
炸裂音が響き、フリルデの左足の太股のあたりが弾けた。立っていられずにひざを地面につく。
「これでもう剣は振れませんね。さて、これであなたに勝ち目はなくなったわけですが、最後に一つ聞きましょうか。シュレ、とは何者です」
「知らないわ…」
「答えてくれれば命までは取りませんから、言ってくれませんかね。シュレとは何者ですか?」
「誰があんたなんかに!」
フリルデは無理をして立ち上がり、左腕を振り上げようとした。
「……」
が、何かを思い出したかのように途中で動きを止め、下ろす。
「観念したのですか?」
「誰が」
フリルデは背中を向け、片足を引きずりながら走り出した。
「どうかしたんですか? まさか逃げるとでも?」
ハスナは少し用心して間合いをとりながら、フリルデの背中に右手を向ける。
「ねえ」
バン! 炸裂音が響いた。
フリルデの背中が弾け、静寂の森を悲鳴がつんざいた。それでもフリルデの足は止まらなかった。
いや、それどころか、
「くそおっ!」
痛みを紛らわすように叫び、全力で走り出した。傷口から、みるみる血があふれ出す。
「なんて迫力で逃げるんでしょうかね」
ハスナは鼻息を響かせた。先ほど落とした剣を拾い上げ、フリルデを追う。
フリルデは左足に傷を負っている身である。どんなに気合いを入れて逃げようとも、ハスナの足を引き離すことはできない。
「ねえ、ねえ」
ハスナは遊ぶようにその後ろを付いていく。
「逃げ切れると思っているのですか? ねえ、本当に思ってるのですか? なんでそんなにがんばってるんですか? ちょっとは命乞いしようとは思わないのですか? 殺しちゃっていいんですか? ねえ」
興味津々で質問を浴びせかけながら、《虚空の叫声》を放つ手も休めない。
無防備のフリルデの身体に、ハスナの攻撃が連続して襲いかかる。
フリルデは全身を血に染めながらも、ひたすらに逃げた。が、
「うう……」
ある程度まで逃げたところで、ついに力尽き、崩れ落ちる。
「たいした根性です。だが、判断は愚かきわまりないですね。その逃げた時に見せた気迫をわたしにぶつけていれば、勝機もあったかも知れないというのに。……いや、無理か」
ハスナは一人で笑い、フリルデの髪をつかんで無理矢理身を起こさせた。
「もう休みたいでしょう? 言ってください。シュレという男――」
その言葉が、止まった。
「なにがおかしい」
フリルデ表情。疲れ切ってはいたが、笑っていた。まるで勝ち誇っているかのように。
「バーカ」
フリルデは左手で小さい《白の晶剣》を作り出し、振り上げた。
「おっと」
傷を負う腕で振り上げた氷の剣は緩慢で、ハスナは後ろへ飛びすさって簡単にかわす。
「この期に及んで強がりですか。まあ、あなたから聞かなくても、自分で調べればいいことですしね」
彼はいやらしく微笑み、トドメとばかりに手を振り上げた。が、
「ん……?」
なにもおこらなかった。
何度も手を振るうが、お得意の《虚空の叫声》はまったく発動する気配はない。
次第にその顔から余裕の色が消えはじめる。
「ほうら、間抜けね。周りを見てみたらどう?」
フリルデに言われたとおりにし、ようやくハスナは気がついたようだった。
「これは、結界……」
周辺一帯にぼんやりと青い色をしたリップルが漂っていた。
「ようやく気がついた?」
フリルデは身体の痛みも忘れて、声を上げて笑った。
「わたしが逃げる? バカなこと言わないで。ここにおびき寄せていたのよ」
「しかし、なぜこのようなところに結界が……」
「もちろん、あんたを倒すためよ」
むろん、ウソであった。セウラと『決闘』するために作っておいたものである。
実際は、かなりの賭けであった。
結界はその場所に周囲のリップルが流れ込むことによって、徐々に薄まり四散する。
消えている可能性は十分にあった。
まだ残っていたことにへたり込みたくなるくらいほっとしていたが、内心は微塵も表情に出すことなく、フリルデはあたりまえのように言った。
「わたしって、用意周到なの」
念を込めると、周辺一帯に白い霜が降り始める。
「あんた、終わったわね」
「ふざけるな……。だが、おまえなど、トゥルがつかえなくとも!」
ハスナは剣を構え、フリルデに迫ろうとした。が、地面から生えだした氷が、彼の両足をすっかり固めてしまっていた。
足からひざ、腰、腕、胸とみるみるうちにハスナの身体は凍り付いていく。
「バカな、こんなことが……」
すでにハスナの表情に余裕はなかった。すでに凍り付いてしまったかのように、真っ青に染まっている。
「ふふ。勝った」
フリルデは勝利を確信して、ひざをついた。
「これで、わたしは村を救った英雄ね。我ながら、すごいわね。ふふ。すごい、わね……」
ぎこちなく笑いながら、その身体を地面に埋めた。