第一章 (2)
夜の森は恐ろしい。
森は怪しげに暗く、さわさわと葉のこすれる音ばかりが響いてくる。
同じような木ばかりで方向感覚もあやふやになるし、オオカミやクマなど獣も住まっている。
下手をすれば出られなくなる危険もある。
「いったい、なんのようなんだよ……」
森の少し奥まったところへ案内されたセウラは、不安げな面持ちで恐る恐る聞いた。
「そんなに恐がらないでよ。セウラ」
フリルデは、振り返った。その口元には、セウラを気遣うかのごとく微かな笑みすら浮かんでいる。
(うわぁ……)
たちまちセウラの全身に鳥肌が立った。
好意的なフリルデ。セウラにとってそれは、森の夜よりも遙かに不気味なものだった。
「わたしたちもいろいろあったわよね。喧嘩もよくした。でも、もうそろそろ十六。成人だし。ねえ、今まであったことは水に流しましょうよ」
「はぁ?」
いきなり何を言い出すのか。まったく意図が読めない。それがまた、恐ろしい。
「だってそうでしょう? いつまでもいがみ合っていても、お互い傷つくだけだわ。これ以上先輩に私たちのことで迷惑なんてかけられないし。そう思わない?」
「え、まあ、そりゃ、そうだけど……」
「でも、その代わり、やっておかなければならないことがあると思うの。あなたも、いつかはそうしなければならないと思ってることでしょうし」
「なにを……?」
セウラは眉をひそめた。心当たりが、まるでない。
「先輩もいないことだし」
フリルデの笑みが、いっそう広がった。
「決闘しましょ? そうして、わたしたちのリーダーを決めるの!」
「へ?」
フリルデは問答無用とばかりに手を振り上げた。
たちまち、空気が冷たくなっていく。
「ちょっと、決闘ってなによ! 意味がわからないよ!」
「戦わないなら、わたしの勝ちになるわよ!」
ふと、セウラは足元に違和感を感じた。視線を落とすと、いつの間にか足下が凍り付いていた。
「うわ!」
あわてて足をふるって氷を払う。あやうく氷で足を固定されるところだった。
「ちょっと、あんた正気じゃない!」
言い捨てて、セウラは背中を向けて逃げ出した。
「逃がすもんですか!」
フリルデも、後を追いかける。
そうして二人は、森のいっそう奥へと消えていった。
風が強くなり始めていた。
静寂の森の中に、激しい息づかいと足音が響きわたる。
額に汗をにじませて、セウラはひたすらフリルデから逃げていた。
「うぁ!」
セウラは悲鳴を上げて転がった。木の根に足を引っかけたのだ。
受け身もとれずに豪快に地面にたたきつけられたその体は、すでに土ですっかり薄汚れてしまっている。
無意識のうちに木の枝や葉にこすってしまったのだろう、腕の所々から血がにじんでいる。
「くそ、フリルデのやつ……。なにが決闘だよ。わたしが勝てるわけないってのに」
セウラは忌々しげに呟いた。
くやしいことだが、『決闘』などするまでもなかった。
セウラはトゥルの基礎である炎のトゥルすらまともに扱えない。
その反面、フリルデは一通りのトゥルを上手に使いこなせる。特に氷のトゥルを操ることにおいては、先輩ですらかなわないかもしれない。
実力の差は、歴然としている。
なのに、なぜ今さら『決闘』などしなければいけないのか。これはもう、新手のイジメとしか思えなかった。
(先輩に叱られても知らないからな……)
足音が近づいてくる。セウラはすかさず木陰に身を隠した。
「消えたわね」
フリルデは、余裕の笑みのくすぶるその口をゆっくり開いた。
「どうせこのあたりにいるんでしょう? セウラ?」
図星を突かれたセウラは、未だに整わない息が漏れそうになる口を片手でふさぎながら、四つんばいの姿勢で少しずつ遠ざかっていく。
「どこにいるの? セウラ。早く、まいった、っていっちゃいなさいな」
(じょうだんじゃない)
小さくつぶやきながら、逃げる。
勝ち目はないとわかっていても、こんな不意打ちにも近い理不尽な『決闘』で負けを認めるのは、セウラのプライドが許さない。
「ねえ、逃げないでいい加減に決着付けちゃいましょうよ。いずれリーダーは決めなきゃいけないんだからさ。先輩も今日は用事で出かけてることだし、今日しかないと思わない?」
(それなら正々堂々と戦ばいいじゃんか)
聞こえないように、口の中だけで反論する。
(なんで先輩に隠れる必要があるんだよ)
ひっそりと反論している間にも、フリルデの講釈は続いている。
「ルルナは確かによくできるけど、でもね、あの子じゃのんびりしすぎてると思うのよ。端っこのほうで補佐する方が向いていると思うの。そうだと思わない? わたしみたいにもっと冷静で、テキパキと仕事をできる方が、リーダーには向いているの」
(仕事が出来たって、その性格じゃどうしようもないだろ……)
フリルデはセウラに背中を向けた。どうやら反対側を探し始めたようだ。
セウラはその隙に、ゆっくりと立ち上がった。
(そりゃあんたよりトゥルがへったくそだってのは認めるけど。でもね。あんたの下で働くなんてじょうだんじゃないっつーの)
何かというと見下してくるフリルデがリーダーになるなど、考えるだけでもゾッとする。
そんなことになったら、一生見下されて生きなきゃならなくなる。
(このままダッシュで村まで逃げよう)
セウラは覚悟を決め、思い切って足を踏み出そうとした。が、
(え……?)
足が動かない。
いつの間にか、足下が凍り付いて地面に固定されてしまっていた。
「引っかかったわねぇ。ネズミさん」
力を込めて足を抜こうとした時には、フリルデのいやらしい笑みが眼前にあった。
「先輩も言ってたわよね。トゥーラ同士の戦いは、まず結界に気をつけろと」
「けっかい!?」
セウラは素っ頓狂な声を上げて、周りを見回した。
目をこらすと、周辺一帯がぼんやりと青い。無色透明のはずのリップルが、微かに色を帯びていた。
「おや? なにあわててるの? まさか結界の意味も知らないなんて言うんじゃないでしょうね」
フリルデはセウラの顔を、苦笑に満ちた目で見下した。
「空間に漂うリップルは、強い念を込めることで、自分の色に染めることが出来るの。そうやって空間のリップルを自分が独占することを、結界っていうのよ。そうすれば、ほら」
セウラの悲鳴が響いた。みるみるセウラの右足が氷で固まっていく。
「その空間のリップルは、すべて自分の思うがままに操れる。つまりトゥルが、楽になおかつ強力に使えるってこと。同時に、ほかのトゥーラはトゥルが使えなくなる。人間は自分でリップルを作り出すことは出来ないからね。わかった?」
にゅう、と顔を突き出して、フリルデは言った。
「一つ、賢くなったわね」
「そ、そんなことは知ってるよ!」
セウラは顔を赤くしてまくし立てる。
「わたしが言いたいのはそんな事じゃない! なんでこんな所におまえの結界が張ってあるんだってこと! 結界はそんな短時間じゃ張れないだろ。おまえ、決闘とかいって最初から用意してただろ!」
「うるさいわねぇ」
フリルデはわざとらしく耳を手で仰いだ。
「罠って言葉知ってる? 実戦ではこういう事がいくらでも起こるのよ? あなたは敵にまでそんなこと言って恥をさらすつもり? 結界に気がつかなかったあなたが悪いの」
「そういうのを詭弁って言うんだよ!」
「あら……」
本当に驚いたような顔をして、フリルデはセウラの顔をまじまじと見つめた。
「あなた、そんな難しい言葉どこで覚えたの? 絵本にはないわよね?」
「バカにすんなぁ!」
セウラは無理矢理氷の縛めから足を引き抜き、拳を握ってフリルデに飛びかかった。
「ふ」
フリルデは笑い捨てた。持ち上げた指先の周りの空間が青色に歪む。
指の先から氷の塊が飛び出し、それが勢いよくセウラの胸に炸裂した。
「うぐ!」
セウラの身体が吹き飛び、地面にたたきつけられる。
胸を押さえて咳き込むセウラに、フリルデは再び人差し指を向けた。
「早く観念しなさいな。わたしだって、いつまでも弱いものいじめみたいなことしたくないんだけど。ん?」
言っている途中で、フリルデは興味深げに目を瞬かせた。
胸を押さえながら立ち上がったセウラの目つきが、鋭さを増しはじめたのだ。
中腰になり、握った拳を引き、フリルデをジッとにらみ付ける。
セウラがトゥルを使う時の構えだった。
「いい加減に、負けを悟ったら?」
フリルデは、すっかり冷めた目でセウラを眺める。
「ここはわたしの結界の中なんだからさ。トゥルが使えるわけがないのに」
「うるさい!」
「おやまぁ。威勢がいいわねぇ。まあ、やればいいわ。その代わり、これで負けたらあなたは一生わたしの靴磨きよ」
「じゃあ、わたしが勝ったらおまえは一生便所掃除だ!」
「便所って……、あなた本当にそういうのが好きね」
「う、うるさい!」
セウラは握った拳を振り上げる。が、やはりなにも発生しなかった。
フリルデは声を上げて笑った。
「だから結界の中で他人がトゥルを使う事なん――」
途中、勝ち誇った笑みが、そのままの形で固まった。
森が明るくなった。
セウラのかざした右手から、一テンポ遅れて炎が勢いよくあふれ出したのだ。
「う、うわぁ!」
だが、悲鳴を上げたのもセウラの方だった。
猛烈な炎が、噴水のように頭上たかくにまで吹き上がったのだ。それをうまく制御することがセウラにはできていなかった。
「あはは! 間抜けな絵ね!」
フリルデは思いがけず中断された笑いを、改めて続けた。
「相変わらず限度を知らないんだから。あなたのそのバカ力だけは、認めざるを得ないわね。でも、また火事起こす気なのかしら。《セウラ広場》は一つで十分よ?」
「そうだ……。それだ」
脂汗をしたたらせながら、セウラは言った。
「あの広場にその名前を付けたの、おまえだろ。ティルくんが言ってたぞ」
「ええ、そうよ? いい名前でしょ」
「ふざけんなぁ!」
燃えさかる炎を無理矢理押さえ込んで手をぐうに握り、フリルデに向かって拳を繰り出そうとした。
その時であった。
「おい!」
男の声が響いてきた。
「え?」
二人の視線が同時に声の方に向けられた。
紫色の瞳と、後ろに束ねた漆黒の髪が印象的な青年が、そこにいた。
柔和な顔立ちによく似合う細身の体をしていたが、その体はよく鍛えられているようで、上背はがっしりとしている。
汗のにじんだ上半身は薄着一枚。その上に風よけのマントを羽織っており、腰には剣が揺れている。
セウラはこの青年を知っていた。同じ村に住んでいる、知り合いの青年シュレだ。
「ちっ!」
たちまちフリルデは顔をゆがました。舌打ちを響かせ、あっさりとどこかへ走り去っていった。
「はは、逃げた。まるで悪役だ……」
セウラはぎこちなく笑いながら、おおきく息を吐き出した。
拳からの炎が消え、脱力して倒れそうになる。それを青年がすかさず支えた。
「だいじょうぶ?」
「え、あ……」
セウラは顔を赤くして逃げようとしたが、まるで身体が動かなかった。
「シュレ、なんでこんな、所に……」
そこまで言うのが、精一杯だった。
今のセウラには、口を動かす力さえ残っていなかった。
ルルナとさんざん訓練を続けてきたことに重ね、フリルデとの『決闘』で、身体はむろん、精神がずたずたに疲労していた。
これまではどうにか誤魔化してきたが、『決闘』が終わって緊張の糸が切れたことによって、ドッと疲れがあふれ出した。
「セウラ、だいじょうぶか!」
シュレの声を耳に残したまま、セウラは深いまどろみの中へと落ちていった。