エピローグ (2)
「ごめんね、こんな時間に来ちゃって」
シュレの住まいである村はずれの小屋には、ユリノが訪れていた。
夕飯時だったので、ちょうど自分で食べるために用意していたキノコのシチューを、シュレはユリノにもよそった。
ユリノは大喜びで、美味しそうに食べている。
「ほんとはもっと早く来たかったんだけどね。なかなかお菓子が出来上がらなくってねぇ」
「お菓子ですか?」
「うん。フリルデといっしょに作るって約束してたの。それでクッキー作ってたんだけど、フリルデが氷付けしちゃって大変だったわ。結局明日また作り直し」
「こ、氷付けですか? クッキーですよね?」
「え、うん。焦がしそうになったのを、フリルデが無理矢理冷やそうとして。トゥルで」
「……」
「あ、そういえば、リリのことだけどね」
ユリノは思いだしたようにその話題を切り出した。
「だいぶ『綺麗』になったわよ。フリルデががんばってくれてるおかげでね。ハスナの方はまだわからないわね。死んだように眠ってるわ。ほんとはあのまま捨ててやりたい気分だけどねぇ。そういうわけにもいかないから。……それにしても、ほんとに美味しいわねぇ」
シチューをすすりながら、ユリノは言う。
「いいわねぇ、こんな美味しいシチューが作れて。今度教えてくれないかな?」
「え、ええ、いいですよ」
「ありがとう。たのしみ」
そう言ったきり、いつまでも楽しそうにシチューをすすっている。
シュレはぎこちない笑顔でそれを眺めていたが、しばらくの後に思い切って口を開いた。
「あの、いったいどのような用件で……」
リリのことだけを話しに来たとは、シュレには思えなかった。
「あ、ごめん。そうだったわね。あまりにも美味しいから。ちょっと待っててね」
結局話し始めたのは、シチューを全部平らげた後だった。
「聞きたいことがあってきたの」
ユリノは姿勢を正し、ハンカチで口をぬぐいながら、顔から微笑みを消した。
「今まであやふやなままだったけど、この際はっきりしておかなきゃと思ってね」
「……」
ユリノに見つめられて、シュレは身を引き締めた。
普段彼女の細い目は、常に笑っているかのような朗らかな印象を振りまいているが、微笑みを消すと威嚇するような鋭さを帯びる。
それはまさに別人に変貌するかのごとくで、その目で見られただけでも、背筋がゾッと寒くなる。
「単刀直入に聞くわ。目的が聞きたいの。いったいなにが目的で、この村へ来たのか」
「……」
「きみもリリと同じだよね。封印を解かれて世界中に散らばったグーマの部下の一人。いわゆる《ミレス》」
「それは……」
あけすけに正体を言われて、シュレは探るようにユリノを見返した。
「セウラに、聞いたのですか?」
「いいえ」
ユリノは首を横に振った。
「セウラはまだ寝ているわ。それに、あの子がきみの嫌がることを言うと思う?」
「……」
「わたしは、師匠から聞いたの」
「義父から……?」
義父。彼女たちの師匠は、同時にシュレや村のトゥーラ達の父親代わりでもあった。
シュレもトゥーラにこそならなかったが、この村に来て以来、ずっと師匠に育てられた。
「しかし、義父にも僕は話した覚えは……」
「すごい人だったから。たぶんわかってたんだと思うよ。体調を崩して、もう先がないとわかったとき、師匠は一番年長の弟子であるわたしに、色々なことを話してくれたの。きみについても。セウラのことについても。『すべてはわたしの思い過ごしかもしれないが……』という前置きをしてね」
「そうだったんですか」
「わたしは師匠の後を継げるとは思ってはいないけど、せめてあの子たちが立派に成長するまでは、この村を守らなきゃならない。そのためには、すべてをはっきりさせておきたいの。だからシュレくん、話して。もちろん、誰にも話したりはしないわ」
「……」
「辛いことはわかってる。でも、もし話してくれないのなら、わたしはきみをこの村から追放しなければならない」
ユリノは、にらみつけるようにシュレを真っ正面から見つめる。
その視線。シュレは微かに身を震わせた。
この村のトゥーラの中では最年長であるとはいえ、まだ二十歳を少し過ぎたばかりのユリノである。
トゥーラとして見れば、まだ小娘と言ってもいい若さだ。
まだまだ学ばなければいけないことも、鍛えなければいけないところもあるだろう。
だが、師匠の突然の死により、自らの修行をあきらめて、村のために尽くさなければならなくなった。
頼る者も教えを請う者もいない中で、村の守護を一身に背負い、後輩の面倒も見なければいけないのだ。
その重圧は、いったいどれほどのものなのか。
そして、その気迫。
村を守るためならば、一切の妥協を許そうとはしない彼女の泣きそうなほどの気迫が、その瞳には宿っていた。
追放するというのは、脅しではないだろう。
話すのを拒否すれば、ユリノは自らの命をなげうってでも、シュレをこの村から消そうとするはずだ。
「……わかりました」
シュレは大きなため息と共に、観念した。
「ありがとう」
ユリノは頭を下げた。
少しの沈黙の後、シュレは打ち明ける。
「その通りです。僕も、《ミレス》の一人でした。本当の名は、シュレルダ。封印を解かれたとき、力をすっかり失った子供の姿で、僕はこの世界に落ちました。記憶も意識もほとんどなく、頭の中に残っていたのは『シュレ』という自分の名前の断片のみでした。ひどい渇きを覚えながら、大陸中をさまよいました。本能が《ライゼ》に惹かれたのかも知れません。長い放浪の末にたどり着いたのが、この村でした。瀕死になっている僕を助けてくれたのが、幼いセウラでした。彼女といると、身体の渇きが無くなった。それがどうしてだか、僕はすぐにわかりました。彼女と出会ってすぐに、記憶を取り戻したから……」
シュレは目をつむった。
「彼女が《ライゼ》だったんだ……。源泉と言う呼び名は、ただの例えにすぎない。本当は、リップルを作り出すことの出来る人間のことを指すんです。僕は彼女のその力に触れて、記憶を取り戻し、同時に、彼女のその悲運も知ってしまった……。魔王と呼ばれた彼、グーマも《ライゼ》だったから」
「グーマ……」
「ユリノさんなら、もうわかってますよね。セウラは自分がリップルを自由に操れないことを才能がないからだと思っているけど、それはちがうということを。力がありすぎて、もてあましてるだけだということを。あの夜、セウラからあふれたヴァイオレッドリップルは、作り出されたばかりの凝縮されたリップルです。それを用いたトゥルは、空中に四散し薄まったリップルを用いる通常のトゥルとは、威力も効果も桁が違う。いつか彼女は、魔王グーマにも匹敵するほどの強大な力を持つようになるでしょう」
「……」
「僕は、僕の命を助けてくれたセウラを、命に代えても守りたいと思いました。彼女が普通の人間ならあたりまえに出来る、平凡で幸せな人生を送ることは、たぶん無理だから。おそらくいずれ、《ミレス》を始めとする色々な者達が、彼女を手に入れようと、もしくは抹殺しようと、やってくるだろうから……」
涙声で、続ける。
「僕はあなた達に迷惑をかけるつもりはありません。ただ、セウラのそばにいてあげたいんです。セウラを悲しませる者がいなくなるまで、ずっと守っていてあげたいんです……」
「シュレくん」
ユリノは不意に立ち上がった。
「いいよ、シュレくん。きみの気持ちはわかった。もう、このことは二度と聞かないし、誰にも言わない。いつまでも、あの子を守ってあげてね」
ユリノの顔に、朗らかな笑みがあふれた。
シュレはびっくりしたようにユリノの顔を見つめた後、
「はい!」
と身体を折り曲げるように大きく頭を下げた。
「ごめんね、わたしも出来ればこんな事はしたくなかった……」
「わかってます。大変ですね」
シュレの、涙顔がほころぶ。
「わかってくれる? じゃあ、たまにはわたしの愚痴も聞いてくれないかしら。これでも色々大変で。フリルデはすぐにセウラをいじめるし。ルルナはぼんやりだし」
「ええ、それはもちろん――?」
言いかけて、シュレは小首を傾げた。
ユリノが台所のほうへと向かっていき、そこの窓を開いたのだ。
「なにをしてるんです?」
「もちろん帰るのよ」
「な、なんでそんなところから……」
ユリノがいきなりスカートの裾をたくし上げて窓に足をかけたので、シュレは思わず目をそらした。
「今度は、シチューの作り方教わりに来るわね。じゃあ、しっかりね。大丈夫、悪いことはなにも起こらないと思うから」
「……?」
そういって、窓を乗り越え外に出て行ってしまった。なぜか、妙にあわてた様子で。
(あの人も、変わった人だな……)
開きっぱなしの窓を眺めながめていると、ふと、こちらの方に近づいてくる足音が耳を叩いた。
シュレはハッとしてドアのほうへと振り返った。
弾むような元気な足音。心地のいい、聞き慣れた足音。少し聞いただけでも、それが誰だか分かった。
(セウラ……)
家の前で、その足音は止まった。
いつもなら、すぐに「シュレいる!?」と大きな声と共に、ドアがノックされる。
だが今日は、声もノックもなかなか響かなかった。
心臓が、高鳴った。
いったい、セウラはなにを思っているのか。
最初に、どう声をかければいいのか。どんな顔をすればいいのか。
逃げ出したい衝動が、身体を駆け抜ける。
ユリノが開け放ったままの窓の方に、目が向いた。
「いや……」
シュレは邪念を振り払うように、首を振った。
(構わない。どう思われていようと、僕は、構わない。偽っていたことを、憎んでくれてもいい。人でない僕を、拒絶してくれてもいい。ただもう一度だけでいい。きみの元気な姿を、僕は見たい……)
悪いことはなにも起こらないと思うから――
ユリノが去り際に残した言葉。
(そうだ。悪いことは、なにも起こらない)
言い聞かせるように、小さく呟く。
そしてドアのノブに、手をかけた。
ヴァイオレッドリップル・完