エピローグ
エピローグ
紫色のリップルが空を覆ったあの夜から、一週間が過ぎた。
冬も近いというのに、今日はとても暖かい。
洗濯物があちらこちらではためいている中を、子供たちが声を上げて走り回っている。
村の人々の顔つきもどこか柔らかくなり、時間も心なしかゆったり流れているような、とてもほのぼのとした昼中であった。
「眠いわ」
そんな小春日和の村道で、不機嫌を振りまいている娘がいた。
「まったく暢気なものね。わたしが毎日こんなに苦労してるっていうのに」
フリルデであった。
しかめっ面の娘は、自分の前を先導するように歩くティルの背中に向かって、ぶつぶつまくし立てている。
あの夜の出来事以来、フリルデには一つの仕事が出来た。
ユリノの家に安置されているリリの《雫》を、凍らせてやることである。
力を使い果たし、なおかつハスナに力を吸い取られたリリの本来の姿である《雫》は、すっかり色をなくし、ヒビが入ってしまっていた。
リリはフリルデがリップルにより作り出した氷から、力を吸い取って命を永らえている状態だった。
しかしリリの旺盛な『食欲』を満たすほどに凍らせるとなると、一日の体力の大半を使い果たしてしまう。
にもかかわらず、ユリノは容赦のないトゥルの特訓を課してくるので、フリルデは常に疲れ果てていた。
「いったいいつまでこんな事続けなければいけないわけ?」
「ヒビが消えるまでだろ。ヒビが消えれば、あとは自力で回復できるって、ユリノさんも言ってたじゃん」
「だからヒビがいつ消えるかって聞いてんのよ。だいたい、なんでわたしが一人でこんな仕事やらなきゃならないのよ」
「自分からやるって言い出したんだから、愚痴るなよ」
「うるさいわね」
実際、リリの治療をやると言い出したのは、フリルデ本人だった。
(仕方ないでしょ……)
西の丘で、リリにはひどいことを言ってしまった。
ティルを掠ったのは事実だったし、リリをまだ許したわけではなかったが、多少感情的になりすぎたと反省はしている。
ハスナに利用され、裏切られたリリの事情を知ってからは、良心の呵責も少しは湧いてくる。
罪滅ぼしではないが、リリを他の者にまかせる気にはなれなかった。
「なんか言えよ」
弟の言葉を無視しながらボンヤリと歩いていると、ふと、かたわらに建っている小さな家に目が止まった。
セウラの家だ。彼女はここに一人で住んでいる。
窓にはカーテンが掛かっていて、中の様子を見ることは出来ない。
セウラはあの日、ハスナを倒した後に気を失って以来、一度も目を覚ましていない。今も、ルルナに看病されながら眠っているはずだ。
「ちょっと!」
庭に入って家の中をのぞき込もうとするフリルデを、ティルはあわてて腕をつかんで引き留めた。
「なにやってんだよ」
「お見舞いよ」
「ただの覗きだろ。趣味の悪いことすんなよ」
ティルが無理矢理道に連れ戻す。
「バカみたいに寝てるのが悪いのよ」
「言い過ぎだろ。セウラさんは村を救ったんだからな。疲れてるんだよ。少しは同情してやれよ」
「なによあんた」
にやり、とフリルデがいやらしい笑みを浮かべる。
「肩を持つのね。あいつのことが好きなの?」
「なっ!」
たちまちティルの顔面が真っ赤に沸騰した。
「ふっざけんなよ! そんな話してるんじゃないだろ! セウラさんを心配するなんてあたりまえだろ! 心配してないのはおまえだけなんだよ!」
「心配ねぇ」
フリルデは、眉をひそめた。
(早く回復しろよ、バカ……)
セウラは特別らしい。西の丘で、フリルデはユリノから聞いた。
なにか底知れない力がセウラの身体の中に存在していると、師匠がユリノに話してくれたらしい。
そしてそれを裏付けるようにあの夜現れた、空一面を覆い尽くす紫色のリップル……。
ユリノはなるべく噂が広がらないように努めているようだが、狭い村だ。
遠巻きに戦いの様子を眺めていた者も少なからずいたようで、セウラの仕業だという噂はすっかり広まってしまっている。
長老の家では大人の男達が毎日のように会合が開き、セウラをどうするか話し合いがなされている。
連中は、彼女のことが怖いらしい。
今回の事件をきっかけとしてよくないことが起きるのではないかと、ひどく心配している様子だ。
(あいつは追放されるかも知れない……)
いや、追放ならばよい方だ。
昨日、見慣れないローブを纏った連中が数人、会合の場へ行くのをフリルデは見た。
あきらかに”都市”の連中だ。
トゥルに関する研究機関の集まる神殿都市カラールあたりに、連れて行かれる可能性もある。
そうなれば、セウラは死ぬまで研究材料だろう。
(冗談じゃない)
あいつは私が守る。
あの丘で、ユリノと約束したのだ。
セウラの力を恐れ、差別する人間達から。その力を利用しようとする連中からも。
彼女をいじめる全ての者達から、守ってやると。
(あいつをいじめていいのは、わたしだけなんだから……)
フリルデは、薄暗く微笑んだ。
「あんた、あいつのこと心配?」
「え、あ、うん……?」
いきなり話を振られて、ティルは首を傾げるように頷いた。
「じゃあ、手伝って。いったん家に帰って用意してから、先輩の家に行くから」
フリルデの足が速まる。
「先輩って、ユリノさん? 今、行ってきたところじゃ?」
「もう一回行くの。午後からお菓子の作り方を教えてもらうって約束してるから」
「お菓子! おまえがお菓子を作るって!?」
「うるさいわね!」
フリルデはティルの頭を思い切りこづいた。
「セウラには早く元気になってもらわなくっちゃ困るからね。お見舞いを作るのよ」
フリルデがセウラの家から遠ざかっていった、ちょうどその時――
「は!」
として、セウラは目を覚ました。
全身に鳥肌が立っている。フリルデが優しくしてくれる夢を見たような気がしたのだ。
「せぇちゃん、よかった!」
「ひぃ!」
いきなり何かが抱きついてきたので、思わず悲鳴を上げた。フリルデかと思ったのだ。
が、抱きついてきたのは、フリルデではなくルルナだった。
「ルルナ……?」
「よかった、起きたんだね!」
未だに状況のわかっていないセウラは、目に涙を浮かべて自分の回復を喜ぶ娘の顔をぼんやりと見返す。
「もう、一週間だよ! せぇちゃん、一週間も眠ってたんだよ!」
「一週間……?」
「もう、目を覚まさなかったらどうしようって……どうしようって……」
ルルナはセウラの胸に顔を埋めて、肩を振るわせている。
「あ、ありがとう。看病してくれてたんだ……」
でも、全身が痛いので、しがみついて泣きじゃくるルルナをやんわりと押し返す。
「それで……、みんなは、無事?」
「うん、無事!」
ルルナは目元の涙をぬぐいながら、首を大きく縦に振った。
「みんなせぇちゃんのおかげだよ。せぇちゃん、すごかったから」
「え、うん……」
セウラは翳った顔を隠すように、うつむいた。そのまま黙り込む。
「どうしたの? どこか痛いの?」
「ええと、実は、あんまりよく覚えてないんだ」
「え?」
ルルナは首を傾げた。
「覚えてないって、あんなにすごいことがあったのに?」
「うん」
申し訳なさそうに、うなずく。
「よかったら、教えてくれないかな」
「いいよ」
ルルナは、あの夜、セウラが自分を助けてからハスナを倒すまでの一連の出来事を、身振り手振りを交えて少し興奮気味に説明した。
「紫色の、大きなリップル……」
教えてもらっても、セウラはあまり元気にはならなかった。
「やっぱり、忘れちゃったんだね」
「え、うん」
「でも、みんなすごく感謝してるよ。わたしなんて、もしかしたら殺されてたかもしれないんだから」
「うん……」
その後、この一週間であったことなどをいろいろと聞いているうちに、日は暮れた。
今日までルルナはこの家に泊まっていたらしく、今日も泊まって面倒を見ると言ってくれたが、それは遠慮してもらった。
さんざんかセウラの心配をした後、ルルナは名残惜しそうに帰って行った。
その足音が遠くなったのを確認して、ようやくセウラは大きく息をついた。
「ルルナ、ごめん」
つぶやくと、顔をクシャクシャに歪めた。
「ウソ、ついちゃった……」
本当は、記憶を失ってなどいなかった。
確かに、あの時は必死すぎて飛んでしまっている記憶もあるが、だいたいのことは覚えている。
ただ事じゃない力が自分の身体から発散されたことも、忘れていない。忘れるはずがない。
怖い。
その気持ちが、セウラにウソをつかせた。
もし、自分がしっかり思い出してしまったら、ルルナの、フリルデの、村のみんなの目つきが変わるのではないか。
楽しかったこの村での生活が、なくなってしまうのではないか。
ならばしらばっくれてしまった方がましだと、思わず考えてしまった。
自分が覚えていようといまいと、周りの認識は変わらないだろう。
そのくらいはわかる。
だが、ほんのささやかでも抵抗したかった。抵抗せずには、いられなかった。
(わたしって、なんなんだよ……)
薄暗い部屋の中にいても、気が滅入るばかりだ。気を紛らわせるためにも、外に出てみようと思った。
だるい身体を持ち上げて、衣服を着替えて外に出る。
外はすっかり日が暮れ、もはや人の姿も見られない。
(シュレは、どうしてるのかな)
ルルナによれば、シュレはあの夜から二日ほど家の中にこもって傷を癒していたが、三日目にはいつも通りの姿を見せて、今では何事もなかったかのように剣の練習に励んでいるらしい。
話を聞いた限りでは、ルルナはシュレの正体には気がついていない様子だった。
「シュレ……」
不意に涙があふれてきそうになったので、セウラはそれを誤魔化すように走り出した。
全身がいまにも壊れそうなほどに痛かったが、それでも走った。
(シュレ、ずっとウソをついてたんだよね……)
知られることが恐かったと言っていた。
今の自分と同じ心境か。
いや、自分のそれとは比べものにならないだろう。
(わたしが小さい頃から、ずっと。いつも。シュレは、不安だったんだ。ずっと、ウソをついていることの罪悪感、知られることの不安と戦いながら……)
あの笑顔を絶やしたことのない青年の心の中に、そこまで深い悩みが燻っていたのだ。
(バカだ、わたしは……)
励ますことも元気づけることも出来ずに、なにも知らずにいた自分を呪いたくなる。
「でも、シュレ……」
セウラは、つぶやいた。
「人間じゃない。そう告白したらわたしがシュレのことを嫌いになるとでも思ったの? わたしはどんなことがあったって……」
がむしゃらに、駆けた。
その足は、シュレの家の方角へと、向かっていた。




