第七章 (2)
再び、決戦の場――
星が美しく瞬き、月の光が地上を鮮明に照らし出している。
いつの間にか、夜になれば必ず姿を現し、天空をゆがませるリップル現象が、見られなくなっていた。
地上でのトゥルによる激しい戦いの連続により、リップルが大量に消費され、その姿を消してしまったのかもしれない。
戦いが始まり、ずいぶんと経つ。夜も、もうじき明ける。
「せぇちゃん! だいじょうぶ!」
避難して遠目から戦いを見ていたルルナが、血相を変えて走ってきた。
呼吸がつまり、身動きのできないセウラの身体を抱き上げる。
「ルル……ナ、危ない、逃げろ……」
息をつまらせながらも、もがくようにセウラは首を振る。
「しゃべらないで!」
ルルナの手が、セウラの胸に当てられる。ぼんやりとした光が輝き始める。
「友情、というのでしょうかね、そういうのを」
二つの《雫》を手に入れたハスナの表情は、勝者の余裕に満ちていた。
手に持たれたシュレの《雫》に月光りを反射させて遊びながら、二人のやりとりを上空から見下ろしている。
「いやはや、うらやましい限りです」
が、その目つきが、急に冷めた。
「でもね。むかつくんですよね。そういうのは!」
その翼が、大きく広がる。羽ばたくと、たちまち凄まじい突風が吹き出した!
周囲に生えていた木は根こそぎ飛ばされる。地面はめくれ、転がっていた石は狂ったように中空で暴れ回る。
「せぇちゃん、がんばって」
まだ完全に回復していないセウラを守るかのように、ルルナは両手を広げ、風を起こした。
ハスナの突風に比べればそよ風にも近い、まったく無力な風だった。
それでも、ルルナの全霊をかけた風は、確実にハスナの突風を食い止めていた。
「ふーん。がんばるねぇ」
ハスナはルルナのがんばりを、鼻で笑う。翼を羽ばたかせながら、両腕を大きく広げた。
「《虚空の叫声》」
得意のトゥルを唱える。
風切り音に混じり、バン! バン! と、耳をつんざく炸裂音が連続で響きわたる。
《虚空の叫声》を混ぜ込まれた突風は、触れるものを切り刻み、破裂させ、そして吹き飛ばしていく。
ルルナの悲鳴が上がる。容赦のない空気の爆発を打ち付けられ、その身体が見る見る血に染まっていく。
「まだだ」
ハスナは、口から炎を吐き出した。炎は風に煽られ、勢いよく燃え盛った。
みるみる突風は真っ赤に染まり二人の所へ、向かってくる。
「うぁあああああ!」
ルルナは今までセウラが聞いたこともないような大声を上げ、気合いを込めた。
いっそう風が強くなる。どうにか炎を帯びた風は逸れていくが、それも時間の問題なのは明らかだった。
「ルルナぁ!」
ルルナのおかげで呼吸はなんとか回復した。セウラは力を振り絞って立ち上がる。
「無茶はやめろ! 逃げろ!」
「せぇちゃん。逃げ場なんてないよ」
ルルナは振り向かずに言った。
「だから、あいつをやっつけちゃおうよ」
「え?」
「大丈夫。せぇちゃんなら、勝てるんだから。せぇちゃんがどれだけすごいのかは、知ってるよ。わたしも、ふぅちゃんも」
「すごいって……、わたしは、全然……」
「だから。落ちついて。息を吸うの。大きく」
「ルルナ、いったいなに言ってるんだ!」
「大きく息を吐いて。また、吸って」
「だからなに言ってるんだよ、ルルナ!」
「早く……。落ち着くの。大事だから」
「落ち着くって!?」
セウラは目を丸くした。
この期に及んでなにを考えているのかと、その暢気さにあきれる思いだった。
いきなりお世辞を言ってきたりと、本当におかしくなってしまったのかと、頭の中がぐるぐる回る。
「ルルナ、なに言って……」
「目を、つむるの。おなかの力を抜いて、大きく息を吸うの」
ルルナの声が、苦痛にゆがんでいる。
(立ってるのも、辛いはずなのに……)
セウラは、目をつむった。
「ルルナ、わかったよ」
すう、はあ。息を大きく吸い、大きく吐く。それを何度も繰り返す。落ち着くまで。落ち着くまで……。
(そういえば……)
さっき森の中で木を燃やしてしまったときも、ルルナは同じことを言っていた。
いや、それ以前からだ。何度も、何度も。
(冷静に。師匠は、先輩は、わたしにいつも言っていた。わたしはそれを守れずに、感情のままに、ずっと力を使い続けてきた……。あのときだって、ルルナはこうやってちゃんと心を落ち着かせる方法を教えてくれたのに)
意図せず――
セウラのつむった目から涙がこぼれ落ちていた。
(わたしって、こんなにまでみんなに迷惑かけなくちゃ、まともに力もつかえないんだな。シュレにあんなにすごい力をもらったのに、負けちゃったし。フリルデがバカにする気持ちもわかるよ。バカだね。バカだ……)
「そろそろ、あきらめるんですね!」
ハスナは周囲に無作為に風を飛ばすのをやめ、セウラたちへと力を集中させた。
ドン! と爆発を思わせる突風が、たたきつけてくる。
「うっ……!」
耐えきれず、ルルナの身体が大きくのけぞった。
ハスナはトドメとばかりに、シュレの《雫》をルルナに向けた。
「中身から破裂させてみましょうか! 虚空のきょ――」
ハスナがトゥルを使いかけた、その時だった。
カッ! と、シュレの《雫》が、激しい紫色の光を発した!
強烈なまぶしい光。一瞬、すべての視界が真っ白に染まる。
「なんだっ!?」
ハスナはひるみ、突風が弱った。
ただの光だった。攻撃力も無ければ、ハスナの力を封じたわけでもない。
だが、それで十分だった。
(ありがとう)
まぶたを閉じていても、その光は感じられた。だれの光であるかは、考えるまでもなかった。
(だけど、もう迷惑はかけないよ。みんなを守るから。シュレも、助けるから!)
目を開いた。
「ルルナ、もういい」
「せぇ、ちゃん……」
その場に崩れ落ちそうになるルルナを、セウラが抱きとめる。
「ハスナ、おまえぇ!」
ギッと、ハスナを睨みつける。
「こざかしい!」
ハスナは弱った風を、再び煽る。炎を含んだ突風が再び二人に迫ってくる。
セウラはルルナの腕をつかみ、上空に飛んでそれをかわした。
「また、飛んでる……」
疲れ切った表情で、ルルナは弱々しく微笑んだ。
「やっぱり、すごいね、せぇちゃん」
「……」
今度は、《雫》の力も借りていない。にもかかわらず、セウラは空を飛べていた。
どうして。そんなことは、セウラにもわからなかった。考える余裕もなかった。
素早くルルナを別の場所に避難させると、再び飛び上がった。
「きさま! まだなにかを隠しているなぁああ!」
ハスナは大きく翼を広げ、銀色に光る爪を剥き出しにして、セウラへと襲いかかってきた。
「……」
セウラは迫り来るハスナのことをジッと見据えた。大きく開いた右手を、ゆっくりと振り上げる。
すると、手の周りがボンヤリと揺らめき始め、まるで波紋が水面に広がるように、周辺一帯に広がっていく。
「な、これは!?」
ハスナの身体の周りにも、それはまとわりついた。
彼は血相を変えてそれから逃れようとした。が、それよりも早く――
白い炎が、燃え上がった!
「あ……」
ハスナは思わず、呻いた。
炎は瞬時に消えた。それこそ瞬くほどの刹那の時であったが、それだけで、事足りた。
「ばかな、なんと……」
鮮烈な白い炎が消えた後には、全身を真っ黒に焦がしたハスナの姿があった。
角は風化したように崩れ、漆黒の翼は破れていた。
全身はすべての肉がそぎ落とされたかのように枯れ、その顔は年老いたようなしわ深いものに、変わり果てていた。
無惨な姿。一瞬にして、百歳も年を取ってしまったかのようだった。
「……」
彼は呆然としたまま、一瞬空中にとどまろうとした。
が、叶わなかった。
ふら、と身体が揺れると、手から、額から、二つの《雫》がボロリと落ちた。
それの後を追うように、ハスナの身体も地上へ堕ちた。
「あ、ああ……」
地面に身体を埋めてもなお、ハスナは途惑いに満ちた目を見開いたままだった。
自分の身体のことすら忘れてしまったかのように、ひたすら空を眺めて、呻いていた。
「あれは……」
月が見えなくなっていた。すべての星の瞬きが消えていた。
空の色が、変わっていた。
上空を、セウラの身体から発散されたすさまじく巨大なものが、覆い尽くしていたのだ。
それはまるでカーテンのように、時にゆっくりと、時に激しく、まるで波を打つかのように、ゆらゆらと上空をたゆたっている。
いわゆる、リップル現象。
それは、この世界に住む者にとっては見慣れたもの、あたりまえに空にたゆたっているものの、はずであった。
だが――
「あれは、リップルの、最高位の色、本来の、姿……」
ハスナは震える唇で、つぶやいた。
「ヴァイオレッド、リップル」
揺らめくリップルは、紫色に輝いていた。