第六章 (2)
「おまえ……、なんだ」
セウラは呆然と、呟いた。
「その子は、おまえのことを信じてたんじゃないのか? いっしょに旅をしてきたんじゃないのか? なんでそんなひどいことが出来るんだよ」
「あなたに、そのようなことを言われる筋合いはありませんが」
ハスナは肩をすくめた。
「もっとも、その気持ちはわからないでもありませんがね。あなたのような感情的な人間は、このような石っころにすら情を込めることが出来るんでしょうから」
「いしっころだと……。ちゃんとした心を持っていた!」
「石っころですよ」
「ちがう! 人間だ。そいつも、シュレも、わたしたちと同じ、人間だ!」
「おやおや」
ハスナは自分のこめかみの辺りを、指先で叩いた。
「だいぶ、やられてしまっているみたいですね。彼らの支配方法の一つに、そういうのがあるんですよ。《雫》の輝きで人間を魅了することで、その人間の心を自由に操るという方法がね」
「わたしは、支配なんかされてない!」
「支配された者は、誰もが大抵そう言う」
「おまえ……!」
セウラは顔を真っ赤にして歯をきしませる。
「むろん、わたしは支配などされなかった。あの獣娘の偽りの心にも、わたしは心を動かされなかった。なぜだかわかりますか?」
言いながら、ハスナはリリの《雫》を額に押し当てた。
「それは、わたしが強い人間だからです。どのような誘惑にも負けぬ、屈強な精神を持っているからです。だが、身体の方はそうではなかった。わたしほど脆弱な人間はいないと断言できるくらいに、身体の弱い人間でしたよ、わたしはね。二十歳までは生きられないと言われていたこともありました」
額に押し当てる手が震えている、ものすごい力がこもっているようだった。
「気だるさを押し殺し、まずい薬を飲み続け、神殿にこもって当てにもならない神に祈り続けていた日々……。地獄でしたね、まったく!」
感慨深げに空を見上げる。
「いっそ死んでしまおう。そう決心し、夜、一人で神殿を抜け出したあの夜。たまたまリリがわたしの前を通りかかった。わたしには、あの小汚い娘が天使に見えましたよ。目を見て彼女が《ミレス》であることはすぐにわかりましたのでね。生きるしるべを得るために、リップルに関するあらゆる書物を、読みあさっていたので」
額に《雫》押し当てる力が、いっそうこもる。次第に額の皮膚が破れ、ぼたぼたと血が顔面にしたたり落ちていく。
「な、なにをやってるんだ……」
ハスナの血にまみれた口元を、ぺろりとなめた。
「宝石を持っていれば、いつか支配されてしまうでしょう。そうされない方法はただ一つ、逆に支配する事」
額からさらに血があふれた。
(いけない!)
セウラは思った。腕を振り上げ、念を込める。リップルが見る見る頭上に集まっていき、巨大な火球を作り上げる。
「力は使わせない!」
腕を振り下ろすと、轟音を上げて火球はハスナに向かって飛び込んだ。
リリを倒した時のそれすらも凌駕する巨大な火球は、真っ赤な光を上げて、ドーム状に爆裂する!
地面が揺れる。
熱風が吹き上がり、周辺一帯の視界は、猛烈な土埃によって覆い尽くされる。
(やっつけたか……?)
上空へ退避したセウラは、それを見下ろした。
しばらくの後、土埃が晴れると、先ほどリリを埋めた放射状の穴を覆い隠すかのように、さらに巨大な穴がそこに出来上がっていた。
「なっ……!」
だがその中心を見て、セウラは愕然とした。
ハスナは立っていた。
いや、ハスナであった者が立っていた、という方が正しいだろう。
その姿は、まったくちがう者へと変貌していた。
背中に漆黒の翼が揺れていた。頭部からは三本の角が伸びていた。
銀色に光る髪が背中に流れ、むき出しになった身体には、鉄のような筋肉がひしめいている。
両手、両足の先からは銀色の爪が伸び、腰から下は、髪と同じように銀色に輝くフサフサの体毛が足の根本にまで覆っている。
そしてその額には灰色の《雫》が、埋め込まれていた。
「リリ……」
変貌したハスナのその姿を見て、セウラはそうつぶやいた。
それは確かに、先ほどのリリの姿になんとなく似ていた。
だがリリの、獣が無理矢理合わさったような不定型なそれとは、まったく違っている。
ハスナのそれは、異様でこそあったが、極めて美しく整っていた。
「神話に出てくる半人半獣の強き神ガージをイメージしたのだが。どうですかね」
鋭いキバののぞく口から、丁寧な言葉使いが放たれた。
「素晴らしいでしょう。こうしてわたしが力を使えば、このように美しく、なおかつ完璧な姿となれるのです。残りカスでしかないこの《雫》の力でさえも、身体に取り込めばこれくらいの力にはなるのですから――」
その視線が、セウラの手の持たれた《雫》に向けられる。
「楽しみですね。それを手に入れれば、残りの《ミレス》でさえも、わたしに歯向かうことはできなくなるはずです。そしてわたしはいずれすべての《雫》を手に入れ、永遠に続く命を手に入れる。それこそが、わたしがあの静かな夜に立てた誓い」
「永遠の命……」
そのセウラの反応に、ハスナは満足そうにうなずいた。
「そうです。それが、わたしの望み。脆弱な身体に生まれついたわたしは、ずっと死の影につきまとわれて生きてきた。健康なあなたにはわからないでしょう? 明日、もしかしたら目を覚まさないかも知れない。そんなふうに怯えながら、夜、目をつむらなければならない苦悩は!」
「……」
「いまではある程度健康になった。だが、やはり怖い。夜が怖い。闇が怖い。眠るのが怖い! 一度染みついた恐怖はそう簡単には消え去らない。その苦悩を完全に払拭するには、死なぬ身体を手に入れるしかないのですよ。これが、わたしが健康に生きる唯一の道。ぐっすり眠るための最良の手段!」
「ぐっすりって……。そ、そんなことのために、おまえは……」
「そんなこと、だと?」
ハスナの目が鋭くなる。彼を取り巻くリップルが、威嚇するようにうごめきはじめる。
「……まあいいでしょう。別段理解してもらおうとも思いませんよ。健康に育った人間などにはね!」
瞬間、セウラにはハスナの身体が数倍に巨大化したかのように見えた。
巨大な漆黒の翼を広げたのだ。
猛烈な突風が吹き上がった。弾かれた土が目に入りそうになり、セウラは思わず目をつむってしまった。
それが油断になった。
ハスナの速さは尋常ではなかった。目を開けると、すでに眼前にまでその姿は迫っていた。
腕をつかまれる。
「遅いなぁ!」
ハスナはセウラを上空へと投げ飛ばし、それに向かって口から火球をはき出した。
「くっ! 《紅き障壁》!」
セウラは無理な姿勢のままに炎の壁を作り出した。火球はそれにぶつかり、爆音を響かせる。
防いだ。が、爆発が起こす衝撃までは抑えきれない。勢いを受けて、身体はいっそう上へと押し上げられる。
「ふはははあ!」
笑い声と共に、その身体をハスナの悪魔のような影が覆った。
「うわぁ!」
セウラは破れかぶれに火球を放ったが、簡単にかわされる。
次の瞬間にセウラの目に映ったのは、口を開いたハスナの顔であった。
至近距離から、ハスナは火球を吐いた。火球は《紅き障壁》を貫いて、セウラの胸で爆発した。
「……!」
胸が圧迫されて、悲鳴すら上がらない。
セウラは無理に体制を整えつつ、飛ばされた勢いを利用して間合いを取ろうと逃げる。
「さっきの氷の娘といい、この村のトゥーラはよく逃げるなぁ! 一体どこへ逃げるつもりだぁ? また罠でもしかけてあるのかぁ?」
わけのわからないことをまくし立てながら、ハスナは翼を広げてぴたりとくっついてくる。
むろん罠などあるわけもない。
胸を押さえる。息が苦しい。火球を胸に受けたときの衝撃で、セウラは呼吸をおかしくしていた。
追いかけてくる悪魔にがむしゃらに火球を投げるが、鱗の覆う腕で全て弾かれてしまう。
「罠がないなら終わりだなぁ!」
高笑いが響く。手を広げ、彼はセウラの胸に掌底を押し当てた。
「!?」
セウラの目が飛びださんばかりに見開かれた。おかしくなった呼吸は、それで完全につっかえた。
(いき、が……)
ハスナはセウラの顔面をつかみ、地面へ叩き付けた。
ハスナの口元がゆるんだ。
セウラが今の攻撃で、シュレの《雫》を手放してしまっていたのだ。地面の上に無造作に転がっている。
「く、くそ……」
這いずってその《雫》を拾いに行くセウラの眼前に、彼は降り立った。
「邪魔だ」
残酷にセウラを蹴り上げ、遠ざける。
そしてハスナは、足下の《雫》を拾った。