第五章 リップルの雫
第五章 リップルの雫
「どこ……どこ、だ……」
獣へと姿を変えたリリは、上空から紫色の目を光らせ、地上を凝視していた。
「リリ、焦らないで」
リリの蛇の手に抱かれたハスナは、リリに向かって穏やかに笑いかける。
「わかってる」
そう口では言ったが、リリは相当焦っている様子だった。
しばらく村の上空を旋回した後、突如その紫色の目が凜と光った。
「見つけた。あそこに、わたしと同じ力が……」
見下ろすのは、森の入り口の近くにある、掘っ立て小屋だった。
「あれ、か」
ハスナは顔をしかめながら言った。興奮しているのだろう、リリが身体を強く締め付けすぎていた。
「もう少しだね、リリ。きみの記憶も、願いも」
リリは勢いよく下降した。滑空して、地上に降りようとした、その瞬間。
カ! と、周囲が明るくなった。光と同時に吹き上がった風が、唸るような音を上げる。
光を帯びた風が、まるで刃のように鋭さを増して、リリの身体に襲いかかってきた。
「うおぁ!」
ハスナの悲鳴が響いた。リリが体勢を崩し、ハスナを手放してしまったのだ。
かなり地上に近づいていたのでそれほど高所から落ちたわけではなかったが、ハスナは全身を地面にたたきつけられた。
「ハスナ!」
リリはハスナの元へと降りようとするが、すかさず無数の光の刃が襲ってきた。
全身を切り裂かれ、鮮血が空中に激しく四散する。
「くぅ!」
苦痛に悶えながらも、リリは傍らにある巨木の陰に、何かを見つけた。
口を大きく開いた。火球が巨木にめがけて吐き出される。
火球が巨木に直撃するその瞬間、一人の小柄な娘が飛び出した。
「行かせない!」
大きい目をきりりと光らせて、背後の小屋を守るように立ちはだかった。
ルルナだった。
「邪魔ぁ!」
すかさずリリはルルナに突進した。
ルルナは両手を大きく広げ、叫んだ。
「《光の幻刃》!」
ヒュウウウ! 猛烈な風切り音を響かせて、光る風が渦を巻く。周辺一帯が昼間よりもまぶしい光に満ちあふれていく。
光は数えきれぬほどの刃へと変わり、リリに襲いかかった。堅い体毛に覆われたその身体が、派手に切り裂かれる。
リリは唸った。紫色の目が、ルルナをにらむ。
「どけぇ!」
鮮血をまき散らせながら、無理に蛇の腕をルルナに繰り出した!
「やだ!」
ルルナはヘビの腕めがけて手をかざした。無数の光の刃は、繰り出されたヘビの腕の周りに取り巻き、集中的に切り裂きまくる。
リリは悲鳴を上げ、腕を引いた。
「まだぁ!」
ルルナは、万歳するかのように両手を大きく広げた。
数え切れないほどの光の刃が、くるくる勢いよく回転しながら、ルルナの体を中心に放射状に広がりはじめた。
「《幻刃の監獄》!」
ルルナのその声に呼応して、一斉に光の刃が渦巻いた。
リリの絶叫が響きわたった。
光の刃の渦が、檻のようにリリを取り込み、激しく彼女を切り裂いたのだ。
その眩いばかりの光の中に、真っ赤な鮮血が弾けとぶ。
「ここで、ぜったいに、守らなきゃ……」
額の汗がしたたり落ちる。
ルルナの白く透き通っていた肌が、どす黒く変わっていく。
身の丈に合わないトゥルを繰り出し、体力が猛烈な勢いでそぎ落とされているのだ。
それでも白い歯をかみしめて、ルルナは耐えた。
「凝縮!」
両手を下ろし、胸の前に持っていく。
光の刃の檻を象徴するかのような風に包まれた光の玉が、胸前あたりに出来上がった。
ルルナはそれを、両手で押しつぶしていく。
光の玉が小さくなるのに呼応して、リリを取り巻く光の刃の檻も凝縮されていく。
リリの身体はいっそう切り裂かれ、同時に圧力によって半ば無理矢理小さくなる。
狂気のような悲鳴が上がる。だが、それすらも風音にかき消される。
「これを受ければ、どんなものも、潰れて、消える。あなたも……」
「……」
森の入り口の近くにある小屋の中の寝台で、シュレは眠っている。その傍らのイスにセウラは座っていた。
耳が痛くなるほどの風の音が響きわたっている。
まぶしい光が、ちかちかと窓の外から入り込んでくる。
風に煽られて、窓が今にも割れそうなほどにガタガタ震えている。
部屋の端に置かれたランタンの灯火は身をねじり、粗末な小屋は、今にも崩壊しそうなほどに唸り、揺れている。
ルルナが、戦っている。
彼女は結界を張り、万が一あるかも知れない襲撃を待ちかまえていた。
ルルナ。セウラはもちろん、フリルデよりもトゥルの腕は上だった。
生真面目で飲み込みの早いルルナは、教えられたあらゆるトゥルを、セウラやフリルデに先んじて使いこなせるようになっていた。
だが、穏やかなルルナに、戦いほど似合わないものはなかった。
(助けに……)
行ってあげたい。その気持ちはあったが、今はここを動きたくないという気持ちも強かった。
シュレの寝顔にはすでに苦悶の色はなく、穏やかだ。
穏やかすぎるといってもいい。
峠を越えたと言うよりは、苦痛に呻く力すら失ってしまったかのような、そんなふうにセウラには思えた。
微かに息はある。心臓も、動いている。それが、彼の『生』を示してはいた。
だが、ぴくりとも動かぬその安らかすぎる寝顔が、セウラには恐かった。
今、この瞬間にフッと呼吸が止まってしまうのではないか。
そう思うと、大声を上げて泣き叫びたくなる。実もふたもなく抱きしめたくなる。
むろん、そんなことは出来るはずもなく、淡々と額に当てた布の水を取り替えてやることしか、今のセウラにはなにもすることがない。
セウラはこの短い時間ですっかり憔悴しきり、目もうつろにシュレの寝顔をひたすら見守り続けていた。
「……」
激しい風音や小屋の揺らぎに促されたのか、不意にシュレは目を開いた。
「起きたんだね。気持ち悪くない?」
セウラは穏やかに微笑んだ。
起きてくれたら、泣いてしまうのではないか。
ずっとそう思っていたが、意外と落ち着けていた。
「うん……」
シュレはセウラと目を合わそうとはしなかった。
持ち上げた自分の手のひらを、考え込むように見つめている。
「風の音がすごいね。外で戦っているのはルルナと、リリ?」
セウラは頷いた。
「リリか……」
「知り合い、なの?」
セウラは恐る恐る、聞いた。
「あの子は……」
シュレは、ゆっくりと言った。
「ぼくと、同じなんだ」
「同じ?」
それから先、なかなかシュレの口から言葉は出てこなかった。
「よくわからないけど……。言いたくないなら、言わなくてもいいよ?」
セウラは無理をして、笑った。
言わなくてもいい。口ではそう言ったが、本当の気持ちは『言わないで欲しい』だった。
シュレが何者なのか。そんなことは知りたくなかった。
シュレとこの村でいっしょに住んでいられるという『今』があるだけで、十分だった。
余計なことを知って、『今』が壊れてしまうのが、何よりも怖い。
全てを知ることに、一体何の価値があるのか。知らないまま、うやむやなままだって、幸せであることが一番じゃないのか。
「ねえ、もう休んで、シュレ」
だがシュレは悲しそうに、首を振った。
「言うよ。いつまでも、隠し通せることでもないから。いずれ、わかってしまうことだから」
「い、いいよ!」
セウラは思い切り首を横に振った。
「い、いいから休んで! いわな――」
「人間、じゃないんだ」
強引に、シュレはセウラの言葉に声を被せた。
「……え?」
その言葉は、あまりにも不意打ちだった。なにを言っているのか、理解できなかった。
「僕たちは、《雫》。リップルの落とした、一滴の、《雫》……」
シュレはセウラと目を合わそうとはしなかった。天井を見上げたまま、続ける。
「天空にたゆたうリップルは、ごくまれに、数百年に一回あるかないかの割合で固まり、《雫》を落とす。それは《リップルの雫》と呼ばれ、高価な宝石として、またはトゥルの源として、法外な値段で取引される……」
「それは、知ってる。聞いたことある。けど、昔話でしょ。確か、グーマとか言う魔王がすべてを独占して、彼が倒されたとき、全部失われたって」
「彼は……」
「彼?」
シュレは身を起こして、窓の方に視線を移す。
紫色の瞳で遠くのなにかを見つめながら、独り言のように言った。
「彼、ラシア国の王グーマは、自らの邪念を八つの《雫》に詰め、八人の下僕を作り出した。《ミレス》と呼ばれた彼の忠実な八人の下僕は、各国を侵略。そして世界を統一し、グーマは魔王として君臨した」
「シュレ、それがいったい……」
シュレが話しているのは、この大陸に住まっている者ならば誰でも知っている昔話だった。
ひどく落ち着いた様子で、淡々と言葉を紡ぐ。
「グーマは十年の治世の後に、新興の小国カリンクの若き戦士達に打倒された。だが、八人の《ミレス》は死ななかった。というよりも、彼らは生き物ではなかった。あくまでも《雫》が放つリップルによって作られた、かりそめの生物。それを殺す方法は一つしかない。《雫》から、すべてのリップルを放出させること。だけど、それには膨大な時間がかかる。そこで、神の山と呼ばれるアルエス山に封印にされることになった」
「封印……」
「その封印も、千年の後にある者によってとかれてしまう。《ミレス》たちは再び世界に散らばった。長い封印の末に力を失い、記憶すらもなくした彼らは、時には獣に、時には物に、時には人に姿を変えて世界を放浪した。リリの場合は、獣と人間の混じった姿だった。おそらく消耗が激しすぎて、獣にも人間にも、形がうまくまとめられなかったんだと思う。僕の場合は――」
「僕のばあい!」
セウラの悲鳴のような声が、言葉を遮った。
血走った目で身を乗り出し、シュレの肩を揺さぶった。
「なにを言おうとしているの!? シュレ! シュレは、どう見たって人間じゃないか。何一つ変わったところなんてないじゃないか。おかしなこと言わないよね! 変なこと、言わないよね! ねえ、いったい――」
セウラは言葉をつまらせた。シュレが、その身体を抱きしめたのだ。
「セウラ、ごめん」
耳元で、ささやくように言う。
「ぼくは魔王によって作り出した《ミレス》。そしてその元は、リップルの《雫》。人間じゃないんだ。この姿は、偽りの姿。ずっと、隠してた。ごめん。知られることが、怖かったんだ。君に嫌われると思って。本当に、ごめん……」
「ウソだ……」
セウラは震える唇で、表情もなくつぶやいた。
「リリは、おそらく僕の力を奪いに来たんだ。彼女は相当消耗しているみたいだから――」
その時、シュレの身体から紫色の光があふれた。
目が痛いほどの鋭く強い光だった。
とても目を開けていられず、セウラは目を閉じた。目をつむっても、まだまぶしい。
セウラを抱きしめるシュレの腕がゆるんだ。
「どうしたの? どこにいるの?」
セウラは右手で目を守りながら、左手でシュレの方を探る。だが、シュレに触れることが出来なかった。
「彼女は、《ミレス》のうちの一人。本当の名は、リリダロス。消耗しているとはいえ、未だにその力は、相当なはず」
声だけが、聞こえてくる。
「僕の本当の名は、シュレルダ。この村の前で倒れていた僕を、きみは助けてくれた。きみのおかげで、僕は力を取り戻すことが出来た。記憶も、取り戻すことが出来た。そしてきみは、僕に幸せをくれた」
「な、なにを言っているの? シュレ!」
「力を、貸してあげる。みんなを守ってあげて」
「それは、どういうこと……」
光が、消えた。
「シュレ?」
ぼんやりする目を何度も瞬かせながらシュレの姿を探すが、今までいたはずのベッドの上には、その姿はなかった。
「シュレ……」
その代わり、紫色の光を放つ小さな宝石が、一つ。
まだシュレのぬくもりの残るシーツの上に、転がっていた。