夏風
高校三年生の夏。
啓太と柚葉は毎年一緒に夏祭りや家族ぐるみで旅行に行くなどずっと一緒に過ごしてきた。
それこそ家族のように。
一緒にいるのが当たり前の関係の中、柚葉は今の関係から前進したいと考えていた。
幼い頃から啓太に告白されることを柚葉は夢見ていたが、高校最後の夏休みを前に自分から啓太に告白することを決意する。
いつもの帰り道。
柚葉は、告白した。
告白を断られたら今までの関係でいられないのではと不安や葛藤があったが、それよりもただの幼馴染で終わるのが嫌という気持ちが柚葉に勇気を与えた。
告白に対する答えは──。
七月下旬。
焼けつくような日差しが校舎を包み込み、それに合わせるかのように蝉の声が校舎の白い壁に跳ね返っていた。
扇風機しかない教室で、夏の暑さを乗り越えてきた学生が待ち望んでいたものがやってくる。
そう──夏休みだ。
一学期最後のチャイムが校内に鳴り響き、期待に胸を躍らせた生徒たちが、次々と下校していく。
廊下で賑やか声が聞こえる中、教室の片隅で一組の男女が帰り支度をせずに残っていた。
「……で、お前はなんでそんなに離れて座ってるんだ?」
額に汗を滲ませながら窓際の席に座る男子生徒──啓太。
彼は机に肘をつき、少し不満そうに眉を寄せた。
その視線の先、二つ分離れた前の席に座っているのは、恋人になったばかりの幼なじみ──柚葉。
「だって、まだ人もいるし......」
小さな声でそう返して、柚葉は視線を逸らした。
二人が幼馴染という関係から前進して、まだ一週間。
これまでと同じく一緒に過ごしているが、誰かがいる空間では、柚葉は啓太と一緒にいるところを見られるのが妙に気恥ずかしく感じてしまっていた。
『恋人』という言葉が間に入っただけで、周りからの視線が違って感じられる、そんなお年頃なのだ。
(前みたいに気軽に声を掛けられない)
(前みたいに並んで歩けない)
(前みたいに目を見つめて笑えない)
少なくとも、柚葉はそう考えていたが、啓太は違うようだった。
「前はよく隣に座っていたのに」
「それはその......前は前でしょ」
「今も、別に変わんないだろ」
その言葉に、柚葉は頬をふくらませた。
(──変わったよ)
この一週間、柚葉の中で様々な感情が渦巻いていた。
学校の帰り道、手をつないだだけで眠れなくなるくらい。
名前を呼ばれるだけで嬉しくなるくらい。
『おやすみ』のあとに、『おはよう』が待ち遠しくなるくらい。
今まで当たり前だった日常のすべてが、『恋人』というフィルターを通すことでより一層美しく鮮やかになっていた。
当の本人は、全然わかっていない様子だ。
「啓太って、ほんと鈍感よね」
「なんで怒られてるんだ、俺」
「別に......怒ってない」
「怒ってるじゃん」
言い返しながら小さく笑い、立ち上がった啓太が柚葉の元へ歩いていく。
それだけで、柚葉の心臓が跳ねた。
啓太はそこが当たり前かのように隣の席に腰を下ろした。
(──近い)
二人の肩が触れない、だが体温がほんのりと感じられる絶妙な距離感。
「……やっぱこの距離だな」
「っ……」
「なんで赤くなるんだよ」
「啓太のせい!」
「俺?」
啓太の鈍感さは、ひどいものだった。
幼い頃から恋心を抱いていた柚葉としては、気づいてもらえないのが恒例となっていたが、不意に恥ずかしいことを自覚せずにしてくるから手に負えない。
柚葉は恥ずかしさを誤魔化すため窓の外に視線を向いた。
グラウンドでは、野球部の声が響き始めている。
気づけば教室には、柚葉と啓太の二人しか残っていなかった。
静寂の中、風が吹き、カーテンが揺れた。
そのとき。
「……さっきの、あいつ誰?」
「え?」
「昼休みに話してた男子」
ぶっきらぼうな声。
柚葉は目を瞬かせた。
「隣のクラスの石川くんのこと?」
柚葉はクラス委員で別のクラスの生徒とも休み時間を利用して意見交換などをしていた。
実は本人も啓太も気づいていたないが、柚葉は男子の間では人気がある。
付き合っていることを言いふらしているわけでもないため、二人の関係が進展しているのを知らない人が多いのだ。
「……ずいぶん話が弾んでたようだけど」
啓太目を伏せながらいじけたように言ってきた。
柚葉としてはクラス委員として話していただけなので、啓太に責められいわれないためいつもなら起こっていたが今回は違った。
なぜなら啓太の耳が少し赤みがかっていることに気づいたからである。
「……もしかして、やきもち?」
「違う」
即答。
だが、そんなことには動じず、柚葉は畳みかける。
「本当に?これっぽっちも?」
「これっぽちも気にしてない」
明らかに不機嫌な顔をしている啓太。
その横顔を見つめた瞬間、柚葉は胸に抱えていた不安が消えていくのを感じていた。
(──ああ、同じなんだ)
付き合ってから手をつないだり、毎日家でも連絡を取り合うようになった。
しかし、想像していたより以前と変わらない関係性。
友人の自慢話に出てくるようなことは全然できていない。
もしかして自分だけが、『恋人』という関係性に期待し過ぎていたのかと、焦りにも似た焦燥感が柚葉の心の中に燻ぶっていた。
でも気づけた。
自分だけが相手の一挙手一投足に一喜一憂しているわけじゃない。
変わらないようで本当は気にかけてくれていた。
そんな事実がこれまで感じていた柚葉の不安をすべて吹き飛ばした。
「……安心して」
「何が?」
「私......啓太のこと好きだから」
言った瞬間、柚葉は恥ずかしくなり顔を伏せた。
啓太の気持ちにがわかって嬉しくてつい、本音がこぼれてしまったのだ。
二人だけの教室には沈黙が広がり、蝉の鳴き声と部活動の掛け声が鳴り響いていた。
「……そういうの、急に言うなよ」
珍しく、啓太の声が揺れていた。
「俺だって、柚葉のこと...」
啓太の顔が赤くなっている。
肝心なところを言い淀んでいたが、そんな姿を見て、柚葉は笑ってしまった。
「啓太も照れるんだ」
「......うるさい」
「かわいい」
「それはやめろ」
ぶっきらぼうに言いながら、すっと席を立った啓太が手を差し伸べてくる。
「そろそろ、帰るぞ」
「うん」
差し出された手をとり柚葉が立ち上がると、二人はそれぞれ帰る準備を始めた。
学校に残っている生徒も少なくなってきているのか、静かな教室には二人が身支度する音が響いていた。
先に支度を終えて入口で待っている啓太のところに柚葉が向かう。
「……ねえ、啓太」
教室の出入り口まで歩いたところで、柚葉が呼び止める。
「ん?」
「これからも、隣にいてね」
啓太が一瞬驚いた顔をしたが、いつもの調子で返事を返す。
「あたり前だろ。ほら、いくぞ」
啓太はそう答えると、柚葉の手を引いて歩きだす。
そう、当たり前。
でも、一歩進んだ『当たり前』。
「うん!」
夏はまだ始まったばかり。
教室を去った二人の間を、夏風がやさしく通り抜けていった。




