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【7】最終話

 メモを高志くんやおばさんに見られる可能性は、もちろんあったが、そんなことは転校する彼女にとってもはや関係ない。

 ファミコンを取り上げるなんてヒドいよね、そんな気持ちを、彼女は真理子ちゃんと分かち合いたかったのだ。

 さて、今回の一連のできごとにおいて、最大の核心ともいうべき真理子ちゃんの溺死事故。なぜ彼女は、誰もいない学校のプールに忍び込んでまでして、水泳の練習をしたのか?

 いま、おぼろげながら、私には想像できる。

 彼女の友だちである沙奈絵ちゃんが、あるいは水泳が得意だったのではないか。おたがいに友だちが少ない、親や教師からファミコンを禁止されている、そういう共通した部分がありながら、水泳の一点のみ、ちがっていたのではないか。

 真理子ちゃんは、ちょっとでも沙奈絵ちゃんに近づきたかった⋯⋯。

 でも彼女は運動が苦手で、太っているというコンプレックスもあり、人前で水着になって泳ぎたくなかった。だから誰もいない学校のプールに侵入して、人知れず水泳の練習をしたかったのだ。

 それが溺死事故という最悪の結果になったのは、もはや悲劇でしかない。

 とにかくぜんぶ終わった。これ以上、たとえば沙奈絵ちゃんを捜そうとか、もう思わない──私は疲れていた。


 気がつくと私は小五の私に戻っていた。身体は十歳、記憶は四十九歳というやつだ、分かりやすく言えば。

 あまりに蒸し暑くて、それで目が覚めた。あの頃はまだ自分の部屋にクーラーはなかったなあ、となつかしく思った。エアコンじゃなくてクーラーですよ。

 今日は何月何日なのだろうと、ふと考えた。季節が夏であるのは、まちがいないのだけれど。

 スマホもパソコンもない時代だ、日付を確認しようと思ったら居間でテレビをつけるか朝刊を見るしかない。

 あくびしながら一階へ下りると洗面所にめっちゃ若い母が立っていた。それはそうだ、ほぼ四十年前だもの⋯⋯。

「朝ごはんを食べたら支度してよ。今日から、おばあちゃんの家に行くんだから」

 母が言い、私は、

「今日、何日だっけ?」と返した。

「バカね、三十一日よ。千葉へ出かける日」

 呆れ気味に母は言うと、洗濯カゴをかかえて階段を上って行った。

 私は真っ青になり急いで朝刊の日付を確認する。昭和六十一年七月三十一日──真理子ちゃんが亡くなった日だ。

 時計を見ると八時四十五分だった。

 今日、彼女は小学校のプールに忍び込み、そこで事故死する。それは前の世界線では決定事項だが、ことによると、こっちの世界では阻止できるかもしれない。

 問題は死亡時刻である。午前か、午後か。午前なら何時なのか。八時ならすでにアウトだし、九時だとしても、あと十五分しかない。

 本来なら、おとなりの家へ行って真理子ちゃんの在宅をたしかめればよいだけの話だが、不思議とそれはちがう気がした。

 プールへ行け、と私の直感が命令している。なので焦ってはいたが、母が洗濯物を干している隙にスクール水着に着替えた。

 その上からTシャツを着て、短パンを履き、ご丁寧に書置(かきお)きまでして家を出た。大事な約束があるので外出します、千葉行きは待ってください、と。

 私は走った。風よりも速く走ったんじゃないかと思う。

 山神小学校に着いたのは午前九時ちょうどだった。学校の時計でそれを確認し、すぐにプールへ向かった。山小のプールは校舎と隣接しておらず、校庭から階段を下りて道路を渡った第二グラウンドと呼ばれる敷地内にある。その道路は坂道になっていて、頂上付近は墓地で車が通り抜けることはできない。

 坂の上のほうからプール内の様子がよく見えた。誰もいない。とりあえず、まだ真理子ちゃんは来ていないようだ。私は、ほっと胸をなでおろす。

 さて──、

 千葉行きを放り投げて真理子ちゃん救出作戦に走った私だが、逆に今度は、いつ彼女がやってくるのかが気になってきた。

 この炎天下で、午後まで待ちぶせを続行するのはだいぶキツい。プールのフェンス付近から目を離すわけにいかず、さりとて、遠目から人がいると真理子ちゃんにバレるのもまずい。

 今日彼女をプールから追い払ったとしても、またべつの日にトライされたら何にもならない。今日が勝負だ。真理子ちゃんにフェンスを越えてもらい、その上で私は彼女を説得しなければならない。

 必然的にフェンスに目が向く。よくある緑色の金網で、高さ自体は二・五メートルほど──高くはない。

 これなら誰でも簡単によじ登ることができそうだ、地面から張られていればの話だが。

 プールは、いわゆる高床式になっていて、フェンスの下の部分がすでに二メートルからの高さにある。ようするに、そこにしがみつくための足場がないのだ。

 背の高い生徒ならば、あるいはフェンス下部につかまることくらいはできるかもしれないが、そこからロッククライミングのように自重を持ち上げて足先を金網に引っかけるのは並大抵じゃない。しかも、これは真理子ちゃんの話である。

 と、そんなことを考えているうちに本人がやってきた。私とおなじルート、校庭からつづいている階段を下って⋯⋯。

 私はいったん墓地に身を隠した。彼女が第二グラウンドに足を踏み入れるのを見届けた後、徐々に坂道を下り、よりプールのフェンスが見えやすい位置に移動する。

 さあ、ここからはお手並み拝見だ。いったいどうやってフェンスを越えるつもりなのか、したらば、彼女はプールの高床を支えている鉄骨の下から、ひょいと、一台の脚立を取り出した。

 マジか⋯⋯、まさか彼女が事前に用意したものではなさそうだ。おそらく学校の、というかプール専用の機材と思われる。それが昭和あるあるの杜撰(ずさん)な管理によってプールの床下にぶっこまれていたのだ。下見を済ませていた彼女は、そのことを知っていたのだろう。

 真理子ちゃんは脚立を組むと、リュックを背負ったままそれに乗り、いとも簡単に金網をよじ登ってプールサイドに侵入した。

 私は、ここぞとばかりにプールへと走った。

 彼女が使った脚立に乗り金網にしがみついて、とりあえず、フェンスとプールの床との隙間に足先を入れて彼女と目線の高さを合わせた。

「あぶないよ、真理子ちゃん!」

 怒鳴るでもなく、だがめっちゃ大きい声で私は言った。彼女はビクッとし、ゆっくりとこちらを向く。

「準備運動をしないでプールに入ると、あぶないよ。私もそっちに行くから、一緒に準備体操しよう」

「え、」

 真理子ちゃんは困惑していた。それはそうだろう、ふつうなら注意されるか告発されて当然の場面だ。

 が、彼女は逃げることなく、私がフェンスを越えてプールサイドに降り立つまで待っていてくれた。

 これで私も同罪だ。彼女を叱るつもりはない、という、こちらの意思表示でもある。

「あの⋯⋯私、」

「ひとりで練習したかったんでしょ?」言いながら私はTシャツを脱いだ。「でもね、ひとりで泳ぐのは、あぶないんだよ? 溺れたときに誰も助けてくれないから」

 ついで短パンも脱ぎ、先に水着すがたになった。

「──私、泳げないの」めっちゃ小さい声で彼女は言う。

「一緒に練習しようよ。準備運動をして、まずは水に慣れること」

 うん、と真理子ちゃんはうなずいた。なぜか、ちょっとうれしそうだった。

 真夏の太陽の下、私は彼女と一緒に準備体操をした。長らくやっていなかったのでヘンな体操というか志村けんの動きみたいになり、それが可笑しくて、ふたりで爆笑した。

「姉ちゃん、何やってんだよ!」

 背後から突然声がした。振り返ると、弟の宏樹が怒り顔で金網の外からこちらを見ていた。


「そんなところで転寝(うたたね)していると風邪引くよ?」

 夫の声で目が覚めた。またダイニングテーブルに突っ伏して眠っていたらしい。戻ったのだ、と私は思った。

「会社でメロンもらった。冷やしておいて明日、食べよう」

「最近、夢見がわるいの」

 私の言葉に、夫は、え? みたいな顔をした。

「夢って、⋯⋯こわい夢?」

「うん」

 私は、もう一度はじめからやり直そうと考え、夢の内容を夫に話した。すべての発端となった、あの夢──。

「⋯⋯それで、鸞ちゃんはどうしたいの。辛いの?」

「心療内科でも受診しようかな」

「それもいいかも、だけど、ひとつ提案がある。夢の状況が小五の夏休みに限定されているのであれば、お義母さんに相談してみるのも手だよ」

 やはり夫は母に相談することをすすめてきた。私は素直にその提案を受け入れた。

 翌日小山の実家に帰ると、母は、どうしたの? 雅之さんまで、と笑顔で私たちを迎えてくれた。

 夢の内容を母に話した後、私はたずねた。

「小五の夏に、私、何かあったのかな」

 すると母は破顔しながら、

「あった、あった」と手を叩いた。「千葉のおばあちゃんの家に泊まりに行く日に、あなた、脱走したのよ」

「脱走?」

「おとなりの真理子ちゃんと学校のプールへ行く約束をした──て、それは後から分かったことだけど。断りもなく、ただ約束があるから外出します、とだけ書いて出て行ったじゃないの。宏樹に、あなたを捜しに行かせたんだから」

「あ、そんなことも、あったね」しれっと私は言った。「宏樹も、よく私を見つけられたわね」

「あなたが全力疾走しているのを宏樹の友だちが見たって。方向からして学校へ行ったんじゃないか、て」

「なるほど⋯⋯で、けっきょく、私たちはプールに入ったんだっけ?」

「憶えていないの?」と母は眉根を寄せる。「あなたたち、プール開きの日を一日勘ちがいしていたのよ。だから門前払いを食らったって、そう言っていたじゃない」

 それは、たぶんウソだ。プールに侵入したことがバレたら、こっぴどく怒られるだろうから、私は弟に口止めしたのだと思う。我ながら、わるい姉である。

「真理子ちゃん、元気かな」

「──そうね、あれからすぐだったわね、おとなりの鬼頭さんが山梨に引っ越されて」

「うん」

 返事をしながら、私は心臓がバクバクしていた。知っていて当然のことを知らない、という恐怖。でも、これっきりだ。

 夢の話はそれでうやむやになり、夫と私は実家を辞した。ついでに、おとなりの家の表札を見に行った。鬼頭家の後釜に誰が入ったのか興味があった。

 表札には中居、と書かれていた。まさか中居沙奈絵の家? だが、たしかめようとは思わなかった。

「知り合いの家?」

 夫の問いに、私は、

「ううん」とだけ答えた。

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