第五話 再出発の誓い
ルドナに着いたセラは、まず宿を取った。
向かったのは裏通りの古い宿――灰猫亭。
木の看板は少し傾き、入口の蝶番は軋む。
けれど前世で二年間通うことになる宿だ。
あの二年間で"帰る場所"になった、
数少ないまともな場所。
扉を開けると、昼下がりの食堂には客が
まばらに座っていた。
煮込みの匂い。薄い酒の匂い。木と煙の匂い。
カウンターの向こうで、無愛想な男が顔を上げる。
ゲイル。
前世と同じ顔。
同じ仏頂面。
同じ、少しだけ人を見る目。
「宿か」
「……はい。一番安い部屋、空いてますか」
ゲイルはセラを上から下まで見て、
荷物の量と靴の泥を確認する。
それだけで、事情を半分くらい察した顔になった。
「何泊分払える」
セラは小袋から金を出す。
追放時の支度金と、移動で使った分の残り。
多くはない。
ゲイルは指先で数えてから言った。
「三日。飯は別」
「三日で仕事を見つけます」
「見つからなかったら」
「見つけます」
即答すると、ゲイルは一瞬だけ目を細めた。
「……いい目だな。二階の端、空いてる」
「門限は遅くしねえが、帰りが遅れるなら先に言え」
「わかりました」
鍵を受け取る。
手は震えない。
階段を上がり、端の小部屋へ入る。
ベッド、机、椅子、小さな窓。
それだけの部屋なのに、セラには十分すぎた。
鍵がある。
屋根がある。
追い出されない。
それだけで、今は安心できる。
◇
荷物を置いたあと、セラは窓際に立って
街の音を聞いた。
表通りの車輪の音。
遠くの鍛冶場の金属音。
誰かの笑い声。
前世の十五歳の自分は、ここで初めて泣いた。
屋敷では泣けなかった分、ひとりになった瞬間に
堰を切ったみたいに。
今は泣かない。
悲しくないわけじゃない。
悔しくないわけでもない。
ただ、泣いている時間より先にやることがある。
セラは机の上へ荷物を並べた。
支度金の残り。
隠しておいた非常用の包み。
短剣。
包帯。
火打石。
着替え。
不足しているものを書き出す。
・保存食
・薬草(最低限)
・靴底の補修用釘
・安い外套
・地図(最新)
前世の失敗も頭に浮かぶ。
安さだけで靴を買ってすぐ駄目にした。
食費を削りすぎて判断が鈍った。
地図を後回しにして森で遠回りした。
今回は繰り返さない。
セラは紙の端に、明日からの予定も書き込んだ。
朝、冒険者ギルドで登録。
昼、Eランク依頼を一つ。
帰りに市場で必要品。
夜、魔力循環の確認。
淡々と書き並べているうちに、
胸の内のざわつきが少し落ち着いていく。
◇
夕方、必要最低限の買い物のために表通りへ出る。
ルドナは王都より雑多で、辺境より整っている。
行商人、冒険者、職人、旅人。
色んな匂いと声が混ざる街だ。
市場で安い布と補修糸を買い、
古靴屋で釘を見繕う。
ついでに地図屋の店先を覗き、
街周辺の地図を一枚手に入れた。
前世の記憶にある版より少し新しい。
小道の一本が増えている。
こういう小さな差が、命を分ける。
帰り道、路地裏で子どもが三人、
年上の男に囲まれているのが見えた。
「払えねえなら荷物置いてけ」
「拾ったもんだろ、それ」
ありがちな揉め事だ。
関わらない方が賢い。
セラは一度、足を止める。
周囲の人目と距離を一瞬で見てから、
指先で小さく風を弾いた。
男の帽子がふわりと飛ぶ。
「うわっ、何だ!?」
同時に、別方向から空き樽を転がす。
乾いた音が響き、通りの視線が路地へ向いた。
男は舌打ちし、見られていることに気づいて
子どもたちを睨む。
「……覚えてろよ」
三人は逃げるように走り去り、
男も反対側へ消えた。
セラはその場を離れる。
助けたというほどのことじゃない。
目立たないように、面倒を散らしただけだ。
でも、胸の奥に小さく息が抜ける感じがあった。
前世では、自分が生きるだけで精一杯だった。
今は少しだけ、周りを見る余裕がある。
その違いは、きっと悪くない。
◇
灰猫亭へ戻ると、ゲイルがカウンターで帳簿を
つけていた。
「遅くなるなら言えって言ったろ」
「まだ門限前です」
「そういう問題じゃねえ」
ぶっきらぼうに言いながら、
ゲイルはスープの皿をカウンターに置く。
「売れ残りだ。冷める前に食え」
「……代金は」
「明日から働くんだろ。今日はいい」
セラは席に座り、湯気の立つ皿を見つめる。
「ありがとうございます」
ゲイルは顔をしかめた。
「礼は仕事してからにしろ」
その返しが、なんだか少しだけおかしくて、
口の端がわずかに緩んだ。
スープは塩気が強くて、具は少ない。
でも温かかった。
追放された日の終わりに飲むには、
十分すぎる味だった。
◇
夜、部屋へ戻ったセラは、
窓を閉めて机の前に座った。
ランプの火を小さくし、両手を膝に置く。
ここから始まる。
十五歳で追放され、冒険者になる二年間。
前世では傷だらけで駆け抜けた時間。
今世では、やり直すための土台にする。
セラはゆっくりと目を閉じ、
心の中で一つずつ確かめていく。
勇者パーティには入らない。
誰かの都合で使い潰されない。
この力は、自分で使い道を決める。
そして、もう一度魔王と向き合う時は――
今度こそ、囮ではなく、自分の足で立つ。
胸元に触れる。
まだギルドカードはない。
でも明日、手に入れる。
冒険者としての最初の証。
前世では"生きるため"に取ったものを、
今世では"選ぶため"に取る。
窓の外では、ルドナの夜のざわめきが少しずつ
遠のいていく。
セラはランプの火を見つめながら、静かに呟いた。
「私は、私の力で生きる」
それは誰に聞かせるでもない誓いだった。
追放された十五歳の少女は、まだ何者でもない。
けれどその瞳の奥には、世界をやり直すだけの
静かな火が、確かに灯っていた。




