第三十五話 リーネの横顔
南の森の外縁。
朝霧が木々の間に漂い、足元は落ち葉で柔らかい。
空気が冷たく、吐く息が白い。
木々は冬の間に葉を落とし、幹と枝だけになっている。
その隙間から差す朝日が、霧に筋を引いている。
内陸の森とは樹種が違う。
潮風に強い樫や松が多く、幹が太く、根が地面を這うように広がっている。
歩くたびに落ち葉が湿った音を立て、時折、動物の糞の匂いが鼻を掠める。
セラたちの依頼は、森の東側の哨戒だった。
魔物の動きを確認し、異常があれば報告する。
森に深入りする必要はない。外縁部を巡回し、魔物が街道側に出ていないか確認するだけだ。
勇者パーティは西側から調査に入っている。範囲は重ならない――はずだった。
セラは魔力感知を薄く広げながら歩いた。
東側の魔力反応は安定している。小型の魔物がいくつか。脅威ではない。
だが西側に意識を向けると、遠くに大きな魔力の波動が感じられた。
戦闘中だ。
意識を切り替える。東側に集中しろ。西は関係ない。
◇
哨戒を始めて二時間。
東側の外縁を半周し、異常は小型の甲虫が三体。
アルドが二体を切り、セラが一体を火球で仕留めた。日常的な処理だ。
休憩で木の根に腰を下ろした時、レインが木の上から降りてきた。
高所からの偵察を買って出ていた。
「西側から煙が上がってる。戦闘の跡かもしれない」
アルドが方角を確認する。
「勇者パーティの範囲だな。こっちが手を出す話じゃない」
「だな。ただ、煙の量が多い。もしかしたら魔物の数が予想以上かも」
「想定の範囲内なら勇者パーティが処理する。想定外なら、ギルドに報告が入るはずだ」
アルドの判断は正しい。
他のパーティの管轄に手を出すのは、混乱を招く。
特に王命討伐隊の範囲に踏み込めば、政治的な問題にもなりかねない。
哨戒を続けながら、セラは意識の半分を西側に向けていた。
切り替えろと自分に命じても、魔力感知が勝手に西を拾う。
遠くに複数の戦闘痕が感じられる。大きな魔力の放出が三回。間隔は短い。
手慣れた戦い方だ。
一撃が重く、次の一撃までの間隔が短い。迷いがない。
前世のユリウスの戦闘パターンに似ている。
聖剣の一太刀で大型を沈め、隙間をカイルの盾で埋め、ディーノが支援を重ねる。
三人の連携は、前世でも精密だった。
三人の。
四人目は、あの連携のどこにいるのだろう。
◇
昼前、森の外縁に戻ると、別の冒険者パーティが情報交換に来ていた。
Bランクの三人組で、南側の哨戒を担当している。
リーダーは二十代後半の剣士で、日焼けした腕が太い。
話し方は気さくで、開けっぴろげだった。
「勇者パーティ、さっき近くで見たよ。すげえ強い。大型の甲虫を三体、あっという間に片づけてた。聖剣がこう、バーンって光ってさ。一撃で殻割ってたよ」
「四人で?」レインが聞く。
「いや、実質三人かな。剣士と盾と、フードのやつ。あの三人が前に出て、もう片づけてた」
「四人目の子は?」レインが何気なく聞く。
何気なく。でも、セラにはその質問がレインなりの気遣いに聞こえた。
セラが聞きたくても聞けないことを、代わりに聞いている。
偶然かもしれない。でも、レインはそういう”偶然”を装うのが上手い。
「ああ、魔導士の子? 後ろで支援してたけど……なんか、あんまり連携取れてない感じだった。勇者が”下がってろ”って怒鳴ってたし。声でかくてびっくりしたよ」
セラの手が、無意識に拳を握った。
“下がってろ”。
前世でも聞いた言葉だ。
最初は安全のための指示に聞こえた。
前線に出れば危ない。だから後ろに下がれ。新人を守るための配慮。
だが実際は違った。
“お前は邪魔だ”という意味だった。
前に出るな。余計なことをするな。お前の判断は要らない。
最初からいないものとして扱え。
“下がってろ”は”消えてろ”の丁寧語だ。
Bランクの剣士は笑いながら続けた。
「まあ、あの三人が強すぎるんだろうな。魔導士の子、あんまり出番なさそうだった。かわいそっちゃかわいそうだけど、勇者パーティだしな。普通の基準じゃ測れないだろ」
普通の基準じゃ測れない。
その言葉で、全てが許される。
“強いから仕方ない”。“英雄だから多少のことは目を瞑れ”。
前世でもそうだった。
ユリウスの横暴を、周囲は”英雄だから”で片づけた。
セラが声を上げても、“お前が弱いだけだ”で終わった。
拳の爪が手のひらに食い込む。
セラは指を一本ずつ開き、力を抜いた。ここで感情を出しても何も変わらない。
アルドがセラの手をちらりと見た。
握った跡が残っている。何も言わなかったが、視線だけが確認していた。
◇
午後の哨戒で、セラたちは森の中腹の小川沿いを歩いていた。
小川は岩の間を縫うように流れ、水は透明で冷たい。
川底の石が日差しを反射し、水面に光の模様を描いている。
木々の間を抜ける風が、落ち葉を水面に運ぶ。
アルドが先頭、レインが右翼、アネスが後方。
セラは左翼を歩きながら、魔力感知を維持している。
その時、木々の向こうに人影が見えた。
セラだけが気づいた。
魔力感知が、小さな魔力源を拾ったのだ。人間の魔力。それも、魔導士特有の波長。
リーネだった。
一人で、小川のそばにしゃがみ込んでいる。
杖を地面に置き、両手で水を掬って顔を洗っていた。
水が顔から滴り、顎の先から落ちる。
目が赤い。泣いた後だ。
瞼が腫れ、頬に涙の跡が残っている。
それを水で洗い流そうとしている。泣いた痕跡を消そうとしている。
セラは木の陰で足を止めた。
声を出さず、気配を殺す。ソロの二年間で身につけた隠密が、こんな場面で役に立つ。
四人のうち、セラだけがリーネの存在に気づいている。
アルドたちは小川の手前で止まり、水筒に水を汲んでいる。
木々が遮って、向こう側は見えない。
リーネは水面に映る自分の顔を見つめていた。
揺れる水面に、歪んだ顔が映る。
小さく呟いた。
「……大丈夫。大丈夫。まだ大丈夫」
三回繰り返した。
声は震えている。唇が微かに痙攣していた。
自分に言い聞かせている。
壊れそうな自分を、言葉で繋ぎ止めている。
その声の震え方を、セラは知っている。
前世の自分が、同じように呟いていたからだ。
夜の天幕の中で。見張りの途中で。戦闘の後、一人になった時に。
“大丈夫”を繰り返して、壊れないようにしていた。
“大丈夫”は、大丈夫じゃない時に出る言葉だ。
本当に大丈夫な人間は、“大丈夫”とは言わない。
リーネは顔を拭き、杖を拾い上げて立った。
膝に土がついている。それを手で払い、杖を握り直す。
背筋を伸ばし、表情を作り直す。
涙の跡を消し、疲労を隠し、“何でもない顔”を被る。
そして西側へ戻っていった。
足取りはしっかりしている。
でも、肩が少しだけ内側に入っている。
身体を小さくして歩く人間の癖だ。
自分の存在を消そうとする人の歩き方。
セラはその背中が見えなくなるまで動けなかった。
木の幹に手をついたまま、自分の呼吸を聞いていた。
浅い。速い。胸が詰まっている。
助けたい。
その感情が、胸の底から突き上げてきた。
同時に、恐怖も来た。
関わったら、前世に引き戻される。
あの痛みが全部戻ってくる。
せっかく積み上げた今世の自分が、崩れるかもしれない。
助けたいのか、逃げたいのか。
自分でも分からない。
◇
宿に戻る道で、アルドが隣に並んだ。
日が傾き、街道に長い影が伸びている。
四人の影が並んで揺れる。
セラの影だけが、少し短い。歩幅が狭くなっている。
「今日、何かあったか」
アルドの声は、いつもと変わらない。
穏やかで、押しつけがない。
だがその裏に、正確な観察がある。
「……いいえ」
「嘘だな」
アルドは断定した。穏やかだが、揺るがない声で。
「市場で顔色が変わった時から気になってた。勇者パーティの話が出ると、セラの呼吸が浅くなる。今日の哨戒中もだ。西側に意識が行ってた」
見られている。
気づかれている。
アルドは人の変化に敏い。
セラの呼吸、視線、歩幅、手の力加減。
全部を見ている。
セラは少し考えた。
嘘を重ねても無駄だ。この人は、嘘を見抜いた上で待つ人だ。
なら、言える範囲だけを選ぶ。
「……あのパーティの四人目。リーネという魔導士」
「ああ」
「彼女が気になります。理由は……まだ言えません」
“まだ”という言葉に、“いつかは言う”という意味を込めた。
完全な拒絶ではなく、猶予の要求。
アルドはそれを聞き取っただろう。
数歩歩いてから、アルドが答えた。
「言えるようになったら言ってくれ。それまでは、俺が見ておく」
「見ておく?」
「セラの変化を。危なくなったら止める」
“止める”という言葉が、不思議と安心をくれた。
暴走しそうな自分を、外から見ていてくれる人がいる。
前世には、そういう人がいなかった。
自分の異変に気づく人間が、一人もいなかった。
気づいてくれている。
それだけで、足元が少し安定する。
セラは小さく頷いた。
「……ありがとうございます」
「礼はいい。パーティの仕事だ」
アルドは前を向いて歩き出した。
背中が大きい。頼りになる背中だ。
でもセラが見ていたのは、背中ではなく、その背中の向こうにある夕焼けだった。
赤と紫が混ざった空。低い雲が光を受けて燃えている。
胸の奥で、前世の記憶がまた揺れていた。
リーネの後ろ姿。“大丈夫”と震える声。涙を洗い流す手。
あの子を放っておけるのか。
答えはまだ出ない。
でも、問いだけは、もう消せなくなっていた。




