第三十二話 港町カレイドの雑踏
カレイドは、思っていたより大きな街だった。
港に面した石造りの建物が並び、白壁に朝日が反射している。
市場には魚と香辛料の匂いが混ざり、荷車が行き交い、水夫と商人が声を張り上げている。
子どもが路地を走り回り、猫が屋根の上で日向ぼっこをしている。
門をくぐった瞬間、潮の匂いが鼻に届いた。
内陸の街にはない、湿った塩気。風が強く、髪が顔にかかる。
普段なら活気のある街として楽しめたかもしれない。
レインは「魚が食いたい」と目を輝かせ、アネスは「薬草の品揃えが良さそう」と期待を口にしていた。
だが今のセラには、人混みの全てが脅威に見えた。
どの角を曲がっても、あの顔があるかもしれない。
どの酒場に入っても、あの声が聞こえるかもしれない。
金の髪が視界の端に映るたび、心臓が跳ねる。
通りの向こうに剣の柄が見えるたび、足が止まりそうになる。
全部、別人だ。
金髪の男は港の漁師。剣の柄は門兵の腰のもの。
分かっていても、身体が勝手に反応する。
「セラ、歩くの速い」
アネスが後ろから声をかける。
「……すみません」
無意識に早足になっていた。
逃げるように歩いている自分に気づき、意識して歩幅を落とす。
呼吸を整える。鼻から吸って、口から吐く。
アルドが振り返り、セラの表情を一瞬見た。
何も言わなかったが、歩く速度を少し緩めた。
四人の間隔が自然と詰まり、セラが孤立しない形になる。
気遣いなのか、偶然なのか。
たぶん前者だ。この人は、そういう調整を無言でやる。
◇
ギルドの支部は港の近くにあった。
石壁に貝殻を埋め込んだ装飾が特徴的で、内陸のギルドとは雰囲気が違う。
入口の上に掲げられたギルドの紋章も、波模様が追加されている。
中に入ると、塩の匂いの代わりにインクと紙の匂いがした。
受付は混んでいた。港町は物流の要だから、護衛や哨戒の依頼が多いのだろう。
冒険者の姿もちらほら見える。装備の質はまちまちだが、港町らしく外国風の武具を持つ者もいた。
受付で補給路の報告書を提出し、追加の依頼を確認する。
カレイド周辺の依頼は、南の森関連が多かった。
魔物の目撃報告が増えており、周辺の村から警備強化の要請が出ている。
受付嬢――そばかすのある若い女性――が言う。
「南の森の調査は、勇者パーティが入ってますから、一般冒険者への依頼は周辺警戒が中心です。森の中に入る依頼は現在停止中。勇者パーティの調査が完了するまで、少なくとも五日はかかる見込みです」
「勇者パーティが直接入ってるんだ」レインが眉を上げる。
「ええ。三日前に到着して、昨日から森の外縁を回ってるそうです。本格的な調査は明後日からと聞いてます」
三日前に到着。昨日から活動開始。
つまり、今この街にいる。宿を取り、食事をし、市場を歩いている。
同じ空気を吸っている。
セラは報告書の控えを受け取りながら、自分の手が震えていないことを確認した。
震えていない。大丈夫。まだ大丈夫。
“大丈夫”は、大丈夫じゃない時に出る言葉だ。
そう自覚しながらも、他に縋る言葉がなかった。
◇
宿を取り、荷を降ろしたあと、四人で市場へ出た。
消耗品の補充と、装備の修繕。
宿は港から三本奥の通りにある中規模の旅籠で、部屋は二つ。
男女で分かれ、セラはアネスと同室になった。
窓から港が見える。帆船のマストが林のように並んでいた。
市場の広場は人で溢れていた。
露店が並び、声が重なり、魚の匂いと焼き栗の香りが混ざる。
色とりどりの幌が風に揺れ、鉄鍋の音が響き、子どもの笑い声が走る。
レインは魚の露店に吸い寄せられ、アネスは薬草を扱う店を物色している。
アルドは武具屋の前で刃の研ぎ具合を確認していた。
セラは触媒を探しながら、周囲を見回す。
火山灰の小瓶を扱う店を探す――ふりをして、本当は人混みの中に”あの顔”がないか確認している。
その雑踏の中で、セラは見た。
広場の向こう側。
酒場の前に据えられた木のテーブルに座る四人組。
一人目。
金の髪、整った顔立ち、腰に聖剣。
陽光を受けて髪が光り、笑顔で何かを話している。
声は聞こえないが、身振りが大きい。自信に満ちた仕草。
ユリウス。
セラの足が根を張ったように止まった。
二人目。
赤い鎧の大柄な男。盾を背負っている。
腕が太く、首が短い。テーブルの上に肘をつき、肉を齧っている。
カイル。前衛の盾役。前世では寡黙で、命令には忠実だった。
三人目。
フードを深く被った細身の男。指に複数の指輪が光っている。
テーブルの端で酒を舐めるように飲み、周囲を観察する目をしている。
ディーノ。支援魔法の使い手。前世では計算高く、常にユリウスの意向を読んでいた。
三人とも、前世の記憶そのままだった。
顔の造り、体格、仕草、雰囲気。
今世でも同じ人間が同じ役割で並んでいる。
当然だ。転生したのはセラだけだ。彼らは一度目の人生を生きている。
そして四人目。
セラの呼吸が止まった。
若い女性だった。
栗色の髪を一つに結び、杖を膝に抱えている。
年齢はセラと同じくらい。十七か、十八か。
肌は白く、頬が少し痩せている。
テーブルの端に座り、三人の会話には加わっていない。
杯に口をつけず、視線を膝に落としている。
時折ユリウスの話に小さく頷くが、自分からは何も言わない。
あの席。
前世で、セラが座っていた席だ。
テーブルの一番端。会話の輪から一歩外れた場所。
笑いに加わるタイミングが掴めず、黙って頷くことしかできない場所。
“四人目”。パーティの末席。最後に加わり、最初に切り捨てられる場所。
前世のセラは、あの位置で何を考えていただろう。
“もっと頑張れば認めてもらえる”と思っていた。
“もっと役に立てば、仲間として見てもらえる”と。
結局、最後まで”仲間”にはなれなかった。
「セラ?」
アルドの声が遠く聞こえた。
水の底から呼ばれているような感覚。
「……すみません。少し、離れます」
理由を言わずに踵を返した。
市場の雑踏を逆流し、路地に入り、石壁にもたれかかる。
壁はひんやりと冷たかった。
背中に石の凹凸を感じながら、目を閉じる。
心臓が暴れている。
こめかみが脈打ち、視界の端がちらつく。
あの顔を見るだけで、こうなるのか。
二年間のソロで鍛えた精神は。Aランクまで登り詰めた実力は。
名前と顔を見ただけで、全部が揺らぐ。
前世で死んだはずの記憶が、身体の奥から這い出してくる。
背中に聞こえた足音。遠ざかっていく仲間の気配。
振り返った時にはもう誰もいなかった。
“セラが引きつけろ”。最後に聞いた声。命令ではなく、通告だった。
壁に額を押し当て、石の冷たさで意識を引き戻す。
今世だ。ここは今世だ。
あの男たちに、今の自分は関係ない。
セラという名前の冒険者が、市場を歩いていた。それだけだ。
関係ない。
関係ない、はずだ。
でも、あの四人目の女性の横顔が、消えなかった。
膝の上の杖。俯いた瞳。会話に加われない沈黙。
前世の自分が、そこに座っている。
路地の奥で、猫が鳴いた。
セラは目を開け、壁から背中を離し、呼吸を整えた。
戻らなければ。
三人が待っている。今のパーティの、三人が。
足が重い。でも、動く。
セラは路地を出て、市場の光の中に戻った。




